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お茶の時間までこの男の顔を見なければならないのかと、いちるは焼き菓子を咀嚼して考えた。木の実を振りかけたもの、干し果物を混ぜたもの、麦芽の入ったものなど、一口に焼き菓子といっても多岐にわたる。香ばしく甘い菓子に、渋めの茶を合わせると、口の中が心無しか上品になる。
意外にも、茶を淹れるのが上手いのはジュゼットである。普段は粗忽者のくせに、料理が関わるとその才能を発揮する。人には何かしら秘めた才があるという事例だ。
行儀が悪いと知っているくせに、アンバーシュは書類を繰りながら茶を飲んでいる。仕事をするほど忙しいのなら、ここになど来なければいいだろうに。朝食と夕食に時間を割くために、他の予定がおしていることなど察しがついていた。時間さえあれば、寄せてくる仕事を片付けているのだろう。だが、普段、突然大事を言い出して官吏たちを振り回す王なので、こういう時くらい大人しく机にかじりつくがいいと思う。
長い足を組み、爪先をぷらぷらさせている。
[機嫌がよろしいようだ]
「はい? ええ、まあ、悪いとは感じません。あなたはなんだかつまらなさそうですね」
[つまらない?]
思っていなかったことを指摘されて眉を寄せる。
「なんだか退屈そうに見える。俺が構わないからですね?」
[馬鹿な]と吐き捨てる。くつくつと笑って、アンバーシュは茶器を手に取った。
「俺は別に、会話がなくても心地いいと思ってますよ。何をしていても黙ってそこにいてくれるという相手は貴重です。あなたは俺に構わないし、俺も気にせずそこにいることができる。こういうのを安心と言うんです」
いちるも喉を湿し、菓子を噛んだ。甘い。今更になって苛立った。どうしてこんな言葉が、じわりと広がる甘味と鼻に抜ける香ばしさに快い気持ちになるのと同じ感触なのだろう。皿に手を伸ばす。黙って咀嚼する。
「美味しいですか?」
[まずいと思ったことはない]
ヴェルタファレン城の料理人は腕利きで、いちるは一度もここの食事をひどいと感じたことはなかった。例外は冷めたものを出されたときだ。厨房も喜ぶでしょう、とアンバーシュは頷き、自分も菓子を摘む。
「よし、今はここまでにしましょう」と言って、アンバーシュはばさばさと紙の束をまとめて机に置いた。そうして、何故かいちるの側に椅子を持ってきて、前屈みになって座ると、にこーっと笑った。
[なんじゃ]
「俺はやっぱり機嫌がいいのかもしれません――あなたのこと、すごく可愛いなと思ってる」
ぞぞぞ、といちるの背筋に鳥肌が立ったのは、男の目が鋭く光っているからだった。手を出し、男の顔面に押し付ける。
「んむ」
[近付くな! 何を企んでい……]ひぅっ!?」
思わず地声が出た。押し付けた手のひらを舐められたのだ。
アンバーシュは唇を舐めて、にやりとした。
「焼き菓子の味がする」
いちるは茶壺を振り上げる。
すると、今まで見守っていた女官たちが異変を察して飛んできた。
「姫様それはだめです!! それはとっても高価な――!!」
「お湯がっ、お湯がー!」
「お離し! この男に一打ちくれてやる!」
「当たりどころが悪ければ死んでしまいます!」
「……ねえ、神様ってこれくらいで死ぬの?」
「ジュゼット、あんた何真剣に考えこんでんの!?」
にこにことアンバーシュは「元気ですねえ」と言っている。それがまた腹立たしく、いちるはすっと己の内側が冷え込むのを感じた。沸点を超え、休息に冷めたのだ。ネイサとジュゼットに茶壺を奪われ、そこにじっと立っていると、アンバーシュに近付き、その襟首を掴み上げる。
その目が期待にわくわく輝いていることを見て取って、男の策にはまっていることに気付く。アンバーシュは、いちるがつまらなさそうなので悪趣味なおふざけをすることにしたのだろう。この男は、いちいち人の神経を逆撫でして、感情の炎を見たがろうとする。
なのでいちるは、その襟首を掴み直すと、そこに顔を寄せ。
「痛っ」
ぎゃーっと上がった悲鳴はジュゼットのものだった。
アンバーシュは驚きのあまり目を丸く見開いたまま、いちるを見下ろしている。いちるは、わざと、いやらしく笑いながら己の唇を舐めた。
[このままで執務室にお戻り。さて、誰が何を言うだろうな?]
男の首にくっきり刻まれ、心無しか血が滲んでいる噛み跡。
顔を背け、口直しに焼き菓子を口に放り込む。さくりと快い食感は、痺れるような甘味を伴っている。首を押さえ、少し恨みがましそうにアンバーシュは言った。
「……美味しいですか?」
笑った。
「まずいと思ったことはない、と言った」
20130616初出 リクエスト:アンバーシュといちる
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