日々の眺め 一 ひびのながめ いち
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 機嫌が悪い。
 機嫌が悪いと周りのことを考えない。他の者のことを見てもいないし、自分の気分が悪いことばかりを考えている。
 いきなり声を荒げたかと思うと、急に不機嫌になって態度が悪くなる。どんなになだめすかしても、関係ないとそっぽを向く。
 一度気に入らないといつまでもねちっこい。
 かと思うとからっとしていることもあり、その基準がさっぱり理解できない。
 ネイサの弟妹は大体そういうものだった。特に年の離れた子どもたちは、自分たちの理屈でしか動いておらず、どんなにわけを聞こうとしても自分の感情を上手く言い表すことができずにただむっと怒っていたり、ネイサが怒っていると思って泣いたりした。
 ただこの人は――ネイサは思う。白花宮の女主人。この人だけは、感情制御が出来る、大人である分、始末が悪い。自分の感情が表になることによって周囲が右往左往することを理解し、求めるものを差し出してもらえると分かっているのだ。ネイサのよく知る妹や弟たちが、姉や母が持ってきてくれるものを知っているように。
(どうしてこんな時にレイチェルさんがいないのよ……)
 頭を抱えた。王妃付き女官が増えてから、ネイサもジュゼットも指導に入るようになった。先頃王妃となった姫はずいぶん難しい人だったが、レイチェルがいるという安心感からか、女官たちは目立った失態は犯さずに済んでいた。今のところは、だけれど。
 王妃付きの女官の長レイチェルは、美貌の人だが表情が薄く、何を考えているか分からないことの方が多い。言葉を使うよりも行動を優先し、指示は素早く、本宮付きならばいずれ女官長になるだろうという有能な人物だ。しかし、謎の人事で、彼女は王妃付き女官に異動させられた。ネイサは、彼女がそれについて文句を言ったことも、それどころか何を考えているかも聞いたことがないし、多くの女官たちも知らない、不思議のひとつとされている。
 しかし、レイチェルが女官長から信頼されているのは確からしく、今日はその呼び出しで本宮に赴いている。その間、白花宮を預かっているのが自分たちなのだが、今朝からその主が大層機嫌が悪いのだった。
(お茶の温度? いや、それはジュゼットがちゃんとやってるはず……だったらお茶の味? それもジュゼットがやってくれてる……。だったら新人たちの失態? それだったらどうしようもないわよ、あの子たちちっとも姫の性格を理解できてないんだもの!)
 気まぐれな猫。機嫌の悪い豹。鈍い金色に輝く鋏。暗闇で目玉が光る女の肖像画。美しいもの混淆して例えられるような人を一息に言ってしまえば、『得体が知れない』になる。この人に感情だけでも理屈だけでも立ち向かうことはできない。偶然や、相性で決まってしまう。真正面からぶつかっても、運が向かなければ困難な相手、それが主、イチル姫だった。
(なんで機嫌が悪いのよ……レイチェルさんだったら分かるのかしら。とにかく、新人たちが怯えてるし、なんとかしないと)
「ネイサー……姫、すごーく機嫌が悪いみたい」
「見りゃ分かるわよ」
 お茶を下げてきたジュゼットが情けない顔でやってきた。仕事を一つ完璧に任せられる安心感は見事なもので、レイチェルもお茶の給仕はジュゼットに任せている。果たして私は何を果たせているのだろう、とネイサはこの頼りない後輩を見て思うこともある。けれど、八つ当たりしても仕方がない。「今日何か気になることはあった?」と尋ねると、ジュゼットは顎に手を当てて考えた。
「今日は、いつも通り起きていらっしゃったよね。夜明け前に本を読んでいらした」
「蝋燭は充分だったし、いつも通り窓を開けて挨拶をした」
「お着替えも御髪も、別に気に入らないって様子じゃなかったしなあ。新人ちゃんがやったけど、あの子、髪うまいもんね」
 そういう係として引き抜かれたと聞いている。女性にはありえないと眉をひそめられるような短い髪でも、彼女は上手く髪を仕上げた。顔の脇の髪を後ろで留め、ねじって飾りを差し、編んだ様子がはっきり見て取れて美しかった。
「朝食はお一人で取られて、それから段々機嫌が悪くなっていったような……」
「給仕は……」
 新人が行った。だが、ネイサは首を振った。
「いいえ、その時は変わった様子はなかったわね。食後、今日は守護官の仕事はお休みだと仰って、そのまま部屋にいらっしゃる」
 だとすれば、原因は白花宮の誰かだ。思い当たらなくて頭痛がする。レイチェルならば、こんな時、すぐに突き止めることができるのだろうか。先手を打って、主の苦悩を取り除いてしまっているのだろうか。
 そこで、ジュゼットが言った。
「そういえば、今日はアンバーシュ陛下をお見かけしてないね」
 結構早くからお顔を見せにいらっしゃるのになあ。ジュゼットは、馴染みの店とその客のように主君たちを扱っていることを気付いているのだろうか。それでは、店の主人が客の訪れを楽しみにしてそれを正直に口に出来ない、なんていう馬鹿馬鹿しい恋愛小説のような状況になってしまうが……。
「…………」
「ねっ、ネイサ!?」
 頭を抱えてネイサは呻いた。
「あ……ありうる……」
 会いに来たという相手に、仏頂面で声もかけない。――でも追い出さない。
 憎まれ口を叩く。――でも出て行けとは言わない。
 近付くなと言う。――でも自分も部屋から出て行こうとはしない。
 普段の様子を思い返してみれば、いちるが素直でないことは明白だ。
 自分の欲しいものを察しろとばかりに怒ってばかり。ちょっと宥めようとするとそれが癇に障ってますます機嫌が悪くなるに決まっている。聞き出そうなんてもってのほかだ。つまり最前の解決策は、原因となったものにお出ましいただくか、本人より強い人物に機嫌を取ってもらうこと。
 いちるの機嫌の方向性を変えることができるのは、ヴェルタファレン国主アンバーシュその人しかいない。
 ネイサはがばりと顔を上げると、隣の部屋にいた娘の一人に声をかけた。
「いい。姫がお寂しそうだから、是非お顔を見せにいらしてくださいと、陛下に近しい方にお声がけしていただくのよ。出来れば、クロード様やエルンスト様がいいわ。あのお二人なら姫様のことをよくご存知だから。絶対に来ていただくのよ。ちょっと悲しい顔をして、忙しいからと言われても、でも、でも……って困った顔をするの!」


 誇らしく胸を張って、一礼をしてから部屋を下がる。続く扉をぴったりと閉じると、声が聞こえないことを確認してから、ネイサはジュゼットとともに肩の荷を降ろした。
(まったく……)
「不器用なお二人だよねえ」
 ジュゼットの言う範囲に収まらないと思うのはネイサだけだろうか。
 結局、アンバーシュはやってきた。すっ飛んでくる勢いだった。いちるはそれを不機嫌に出迎えたが、アンバーシュが両腕を広げて覆い被さると驚きの声をあげて受け止めていた。ネイサたちのぽかんとした視線に気付いて大慌てしていたが、おかげで機嫌の問題は吹っ飛んだらしい。恥ずかしげに顔を赤らめて、退室を命じることも忘れていた。
 ようやく落ち着いた頃、ジュゼットがお茶の用意を終え、退室を許された。後は王に任せれば大丈夫だろう。今度は、絶対に邪魔してはならないという不便さがあるのだけれど。
「それにしても、すぐいらしたね。どんな風に伝わったんだろう。まるで病気になったって聞いたみたいだった」
 ああ、とネイサは重くなっていた肩をぐるぐると回した。
「伝令役に使ったあの子。泣き真似がすごく上手なのよ。あと、男受けがいいの。何かにつけて上目遣いにうるうるされて、鬱陶しいったらないけど、多分行き会ったのがクロード様だったのね、よっぽど大事だと思われてアンバーシュ陛下に話が通ったんでしょう」
 ジュゼットが口を開けているので、何よ、と問う。
「よく見てるねえ!」
「あんたが見てないだけでしょ」
 まったく、と扉の向こうに耳を澄まし、静かなのを知ってほっとする。
 機嫌が悪い人間の回復方法なんて知らない。突然気分を良くしたり、機嫌の悪いまま一日中むすっとしているなんて日常茶飯事なものだ。それに振り回される人間がいることを彼女たちには知ってもらいたいけれど、これはもう、生まれついた性格なのだろう。変えようがない。
(出自不明だそうだけれど、あの人は絶対に末っ子。何にもできない末っ子だわ)
 そして、そうなると長女であるネイサが構ってしまうのは必然だった。聞けばジュゼットも姉弟の上の方だというし、レイチェルはどうか分からないけれど、世話が苦にならない人間なのは確かだ。
(今後、あの人を甘やかす体制が盤石になったりして……)
 そうしてますますいちるは我がままになる。
「ネイサ、ネイサ」
 ジュゼットが呼ぶ。両手に盆を下げてきた。
「姫が、よかったらお菓子どうぞって!」
 厨房が丹精を込めて作っている焼き菓子を満面の笑みで見せられて、ネイサは目眩を覚え、次に苦笑した。まったく、これで機嫌を取っているつもりなのだろうか! あの方は本当に、末っ子体質なのね。

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