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[ねえ、一縷]
書見台で書をめくっていたら、その手元からのぞき込むようにして銀色の髪の少女が問いかけた。これくらいでは驚かない。彼女の神出鬼没ぶりは世に聞こえたものだからだ。一縷は冷静に尋ね返した。
「どうした、母上」
[『夫婦』らしいって、どういうこと?]
しかしその問いかけは、さすがに真顔になってしまった一縷だった。書を閉じ、大神フロゥディジェンマに向き直る。
「いったい、誰に何を言われた?」
[名前、知らない。シャングリラの女神たちが、私の話をしていた。私がスズルの妻だと、スズルがたいへんだって]
「……何が大変なのだ?」
[わからない。くすくす笑ってた。何がたいへんなの。一縷にもわからない?]
愛らしく首を傾げる女神に微笑みかけつつ、その裏で鬼の顔になる一縷だった。無垢な女神に関して、口さがない者たちがいるらしい。あとで突き止めて締め上げておかねば。
とにかく、ここは彼女を宥めなければならない。努めて穏やかに語りかける。
「それぞれの夫婦に、それぞれの形で大変なことがあるものだから、エマは気にしなくともいいと、わたしは思うよ」
[でも気になる]と、めずらしくフロゥディジェンマは食い下がった。
[スズルがたいへんなのは、いや]
口を結び、眉を寄せて、むっとした顔で。――そうした表情を見ると、一縷は少し不思議な気持ちになる。勢いで結ばれたような二人だが、提示できるほどの語彙や表現力がないだけで恋う心をちゃんと持っているのだと分かるからだ。
[さいきん、スズルは『薄着でうろうろするな』というの。それから、人を驚かせないように気をつけろっていう。人前でくっついちゃだめともいうの。それって、スズルがたいへんだから?]
「そうだな」と一度肯定した瞬間、フロゥディジェンマの表情が悲しそうに歪んだが、続きがあるのだ。「けれど」と口を開くと、近くからその声が滑り込んだ。
[それは、あなたが『たいへん』なことにならないようにするためのものだ]
[スズル!]
部屋の入り口に、シャングリラの大神が姿を見せた。フロゥディジェンマが、飛び上がった勢いで彼にじゃれつこうとする。しかし、直前までの会話を思い出したのだろう。挙げていた両腕を下してしょんぼりしてしまった。
珠洲流は苦笑し、彼女の前に跪いた。
[口うるさいし、わずらわしいのは知っている。だが、あなたを守るために言っている。この神域の者も含め、すべての者があなたに好意を抱いているわけではない。悪しき者に損なわれないためには自衛が必要だ。分かるだろうか]
[このかっこうじゃだめ?]
[肌は見せぬ方がいい。不埒なことを考える輩がいるやもしれない]
[ひとを驚かせているつもりはないの]
[不意を突かれると、思いがけない行動に出る者もいる。なるべく驚かせないよう、気をつけてほしいというだけのことだ]
[くっつくのはどうしてだめなの?]
フロゥディジェンマに悪気はない。己が疑問に思うことを、信頼できる者に尋ねているに過ぎないのだ。そして、この問いは、彼女が何故好意を示す行動を制限されなければならないのか分からない、ということを表している。
さてどう答えるか、と一縷は珠洲流を見た。彼は一瞬、こちらを気にするそぶりを見せた。あまり他人に見られたくない気持ちは分かるが、性格が悪い自覚がある一縷は、ここから離れるつもりはなかった。
[ねえ、スズル。どうして?]
[…………]
悩める大神は、物憂げなため息を吐いた。
[スズル]
そして彼はつと手を伸ばし、白く柔らかい頬を包み込みながら、低く囁いたのだった。
[……あなたが可愛いことを、他人に知られたくないからだ]
一縷はフロゥディジェンマが分かっていない顔をしているのを見たが、次の瞬間、彼女は珠洲流の腕の中にさらわれてしまった。
[スズル?]
[あなたが可愛いことを知っているのは、私だけでいい]
担ぎ上げられたフロゥディジェンマは、肩越しにきょとんと一縷を見ていたが、数秒と経たずに笑み崩れると、その姿を瞬きのうちに変化させた。
銀の髪は床に届くほどに、細い手足は華奢で優美な女性のものに。背丈は伸びたが足が少しだけ浮いている。少女と、女と、獣の姿を持つ、これがアルカディアの大神フロゥディジェンマだ。
幸せそうにゆらゆらと爪先を揺らし、珠洲流の首にしがみつくフロゥディジェンマと、そのまま彼女を連れていく珠洲流を見送ってから、一縷は再び書を広げた。
湿った落ち葉の香りと涼しい秋の風が吹いてくる。
そのまま文字を追っていた一縷だったが、込み上げる発作を抑えることができなかった。
「くっ……、くく、く……っ」
肩を震わせると、もう限界だった。ついには声に出して笑ってしまった。
あの、生真面目が過ぎて堅物な珠洲流神が、少女神に甘い言葉を囁くところを目撃する日が来るとは! しかもそれを見ているのが一縷なのだから、どう言い訳しようかと今頃さぞ頭が痛いにちがいない。
ああ、おかしい。数年前は想像もつかなかった光景だ。
(幸せそうで何よりだよ、エマ)
切り離された、過去の自分がそう語りかける声がする。
艶めく机の表面に、笑う顔が映る。手のひらでそれをなぞって、一縷は呟く。
「やれやれ。今日も平和なこと」
そして、今頃どの辺りを飛んでいるのだろうと、自分の片割れを思い浮かべるのだった。
20161122初出 いい夫婦の日
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