ひといき ふたつめ
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 どこかに行っているとは思っていたが、こんなに帰宅が遅いとは思わなかった。太陽が西の丘の向こうに消えて久しく、晩餐は一人で行い、蝋燭の火の向こうに望む人の姿がないことに、アンバーシュは珍しく苛立っていた。彼女が自分を振り回すのなら、自分も彼女を振り回してしかるべきだという、子どもじみた理屈を捏ねながら、いちるが帰ってくるのを待っている。
「そんなに怒らなくとも……」
 いちるに命じられるままに馬車の手配をしたクロードは溜め息をついた。この乳兄弟は、もうすっかり彼女に頭が上がらないようになったらしく、危険がないと判断すればすぐ言うことを聞くようになってしまった。馬車といっても、彼が用意したのは空を駆け、雲の間を行くものだ。こちらに頼めばいいものを、いちるはアンバーシュを無視して、別の車の手配をさせたのだ。何をそんなに秘密にすることがあるのだろうと、それも気に食わない。
「それで、どこに行ったんですって?」
「カレンミーアの城へ、と言っていましたが、詳しいことは何も教えてくださいませんでした」
 戦女神カレンミーア。今のところ、味方寄りだが敵ではない、という位置にいるアンバーシュの古馴染みで、いちるはしばらく彼女の城に滞在したことがあった。確かに彼女の気に入るところだろう。峻険な山の上にある古城は、常に雪に閉ざされ、静寂に愛されている。主は城を空けていることが多いが、カレンミーアはいちるを気に入るに違いなかった。
 ただ、彼女を好ましく思うのが女神であっても気に入らないものは気に入らない。いちるは、好かれすぎる。
(彼女の何もかもを知っているのが俺だけで、っていう状況はもう無理ですけど)
 誰にも知られずにいてほしい。魅力、美しさや愛おしさを、独占したいのだ。本当なら、隠して閉じ込めてしまいたいと考えてしまうほど彼女を人目にさらしたくない時がある。特に、自分を放っておかれている今は。
 机に伏せる。早く帰ってこないかなあ、と呟いた時だった。
「失礼いたします。陛下。姫殿下がお戻りになりました」
 アンバーシュは跳ね起き、いちるの自室まで飛ぶように向かった。
 ある程度まで来ると、歩調を緩める。息を乱さないよう、髪や衣服を翻さないよう、内心の感情を抑えながら微笑を浮かべつつ。取り次ぎの者に笑顔で面会を取り付けた。いちるは部屋着に戻ったところで客人を迎えた。そのとき鼻先に触れたものにアンバーシュは眉をひそめた。無遠慮に彼女に近付くと、ぎょっと怯んだその細い手首を取って拘束し、逃げようとした首筋に顔を寄せる。
「アン、バーシュ!」
「匂いがする」
 抗議の声が詰まったのは、言い当てたせいだ。
 うっすらと汗を掻いた首筋と髪が特に強い。
「犬のように鼻を鳴らすな!」
「何の匂い…………石鹸?」
 低く呟くと、いちるはぞっとしたようにアンバーシュを追い払おうとする。
 外出先で石鹸を使う必要がある状況とはどういうものだろう。動けないほど手首を強く掴んで押さえていると、いちるは顔を歪めてアンバーシュを睨みつける。唇を噛み締められているのを見て、ゆっくりと身体を起こした感情のままに、顔を寄せて口づけた。
 いつかのように思いきり顔を背けられない。触れるころを許される、その心の緩みに、アンバーシュの暗い欲望がじわりと悦ぶ。反意を持っていたので端に触れる程度だったが、それでも、口づけは口づけだ。
 その後は、いちるはますます手を解こうと動いた。
「手を、離せ」
「嫌です」
「意味が分からぬ。何に腹を立てている。疾しいことはしていないのに」
「何故外で風呂なんです」
 途端、勢いを失う。俯き、逡巡しているようだった。
「何かを洗い流したかったんですか?」
「…………」
 まさか、本当にそうなのか。何か理由があると思ったのに、いちるが答えなかったことでアンバーシュは絶句した。それでも何かの間違いだと問いを重ねようとした時、いちるの声が小さく何かを言った。
「……はい?」
「ふ、風呂を……」
 声は震えていた。身体も、震えていた。秘密をようやく口にする、童女のようだった。観念したように、いちるは項垂れた。
「――風呂を、借りに行った……」
 しばらく、考えた。
 風呂。借りに行く。カレンミーアの城まで?
「…………はい?」
 判を押したような反応しかできなかったので、いちるはきっと目を吊り上げて、その理由をまくしたてた。
 曰く、ヴェルタファレンの城の風呂は、基本的に蒸気を利用した蒸し風呂である。小部屋に蒸気を充満させ、そこで垢を擦って落とす。それも毎日入るのではなく、普段は蒸した布などで身体を拭うのが一般的だ。だが、いちるは東島では温泉なる熱い湯の泉を好んでいた。だが西島では望むことができない。しかし、カレンミーアの城に滞在した頃、かの女神が持っていた温泉がいたく気に入ってしまい、また入浴することはできないだろうかと打診したところ、カレンミーアが快諾したので行ってきたのだ。
 ということを、最後まで言ったいちるの目は羞恥で潤んでいた。
「気持ちがよく、一日湯に浸かっていた。戻りが遅くなったことは、謝る……」
 アンバーシュは脱力した。己の馬鹿馬鹿しい振る舞いに、地面に額をこすりつけて詫びたいと思った。風呂を借りたいと思うほど不自由させていたらしいことも、それだけ彼女がゆっくり湯に浸かりたかったこともすべて含めて、謝らなければならないと思った。
「すみませんでした……」
「お前の怒りどころは、本当によく分からぬ」
 憤然といちるは言った。違う、とアンバーシュは思った。単純なのだ。いちるに関わることについて、我慢できる限界がかなり低いのだ。自分でも驚くくらいにすぐに腹を立てたり、落ち込んだりしている。
「お風呂……そんなに好きだったんですか」
「わたしに言わせてみるとこちらの者たちが風呂に入らなさすぎる。熱い湯に身を沈める心地よさが理解できないとは、損をしている。熱い湯に浸かり、時々外に出て涼み、また浸かる。身体が温まり、ほぐれていくような感覚がとても心地いいのだ」
 東南の国々にそんな入浴の習慣があっただろうか。ヴェルタファレンの火山地帯には温泉もあるが、入浴にするほど整備はしていなかったように思う。だから、カレンミーアの風呂は自前なのだろう。
「どこかに作りますか、隠れ家的温泉」
 額を押さえながら言うと、いちるは迷う素振りを見せた。眉をひそめて反論しなかったのは、やはり風呂が好きだからだろう。だからアンバーシュは、石の神、水の神を呼んで、別荘のようなものを作ってみてもいいかもしれないと本気で思った。
(そうすれば、二人きりでゆっくりできますからね)
 彼女の姿が見えないことに苛立つことがなくなり、側にいることもできてずいぶん都合がいい。アンバーシュの企みが分かったのだろうか、いちるはしばらくしてだめだと首を振ったが、もう決めたので、それ以上取り合わないことにした。


20131120初出 リクエスト:お互いのリラックスの方法か一人の時間の過ごし方

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