眷愛隷属 けんあいれいぞく
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 手をかけられた瞬間に掴み返した。鋭く息を呑んで見返した相手が、薄い、青い目を静かな驚きに見開いているのを見て取り、瞬時に、ここがいつ、何時で、何処なのかを悟る。深く息を吐いて椅子に沈み込むと、言った。
「寝ていた」
「見れば分かります。風邪……は引かないでしょうけど、体調を崩しますよ。身体には強いですが、精神面の治癒は我々には働きづらいんですからね」
 アンバーシュは、手の甲からいちるの指を一本ずつ、手間をかけて外した。敵意を持って掴んだがゆえに、赤い跡になっている。爪が沈み込んで型になっていたが、男は何も言わなかった。むしろ、その跡を染み込ませるようにして撫で、隠した。
 いちるは、薄闇の広がる天井を眺め、ゆっくりと息をした。夜が更け、女官たちを下がらせ、少ない灯りで書物を読みながら、微睡んでしまっていたようだ。すべての感覚を開いたままにするのがこれまでの習いだったが、近頃ではゆとりができてしまったために、眠りが深くなり、物事の動きを知りづらくなっている。平穏による弊害だ。ここには、滅多に戦う者はいない。誰かが攻め込んで来ることもなく、真の城主は自分だと騒ぎ立てる者もいない。
 東の地を思う。闇深く、冷気に沈み込む薄墨の大地。黒は漆黒に、青は黒く、赤は鈍色に光るあの国々に、いちるは妖女と呼ばれ、一つの国に君臨した。今、撫瑚はどうなっているのだろうか。境の海の神々の戦いの余波で、天候は不穏、冬は厳しく、年の始まりがこうでは真冬になれば死者が出ると策を講じていた頃だった。西側の各国もまた少しずつ蓄えを失い、天に祈り、大神に祈っていた。早く、この土地に幸いがあるよう、恵みがもたらされるよう。
 東と西の神々の戦いが集束した今、大地には実りがもたらされているのだろうか。いちるは西の島で、春を迎え、夏を過ぎ、ゆっくりと秋の訪れを待っている。ヴェルタファレンの王都は温かく、水が美しく、緑が豊かだ。一部の者が神域だと声を荒げて侵入を拒み、糧を独占するようなことはなく、誰もが緑に触れ、その奥の闇に囚われもする。
(……東の島には守護者が必要だった。だが神々はただ眺めているだけだった。妾たちは、もっと厳密な、手を伸べれば与えてくれる者を欲していたのだ)
 東は貧しい、といちるは思った。何もかも、遅れている。善し悪しは一口に語れない。
 だが、もう少し優しくあれば。
 見捨てられていると悲観する者は少し、減る。
 いちるは瞬きをして、アンバーシュが長いこと何も言わないのを思い出した。視線を下げると、目が合う。微笑まれ、目を細めた。何か言う前に指が、いちるの手に触れた。
「休みましょうか。疲れているようだし」
「……そうしよう」
 身体を起こし、移動しようとするところになって、いちるは尋ねた。
「お前は、東島に行ったことがあるか」
 質問の意味をはかりきれなかったらしく、不思議そうにしながらもアンバーシュは答えた。
「あなたを迎えにいった時が初めてです。眷属は飛ばしていましたが」
 眷属、と思い浮かべたのが目に見えぬものたちだった。そのようなものがいれば、即座に東の神々に弾かれるものではないだろうか。そう言うと、アンバーシュは立ち上がっていたがすぐ近くの椅子を引き寄せて腰を下ろした。
「眷属と言っても色々あるんです。自身の力が作り出すものと、この世に存在するものに手を貸してもらう場合と。目に見えない者は、俺の力の小さな集まり。指示したことに従って、決して逆らいません。意志あるように作ることもできますが、これは精霊と呼ばれ、よく物語などで悪戯を仕出かしたりする、一種の生き物です。精霊の中でも、自然的に発生したものは神霊と呼ばれることがあります。神々に名を連ねることは滅多にありませんが」
「簡単に作れるものなのか」
「力を発生させることができる座にいるならば、それに準じた能力のものを作れます。俺は磁力とか、風とか、そういう小さな力を集めています。ナゼロなんかは、系統である蛇を使役したり、川や水の力を使ったりですね」
「他の眷属とは?」
 いちるの好奇心に、アンバーシュはにっこりと嬉しげにした。
「主に動物です。動物は神獣たちの守護領域ですが、神の血が入っていたり、強い者を……譲ってくれるという言い方はおかしいかな、部下にしてもいいと許してくれる場合があります。エマの父であるフェリエロゥダ、大神の住む霊山の守護者ギタキロルシュは、それぞれ獣と鳥ですが、俺はその領域の者を眷属にいただいてます。鳥は主に俺の連絡役ですね」
 在り方も呼び名も色々あるらしい。
「眷属と呼ばれるものについて疑問だったことが解けた」
「いつでも聞いてください。東では、眷属を使うよりも、センと呼ばれるものを従えているようですね。あれは従者と同じなのかな」
「そうだな。霊は神々の領域外のものだ。仙は元々人間、素養がある能力者を従者の位に引き入れる……と言うのが近いか」
「能力者を側に上げるという、あれは西にはない仕組みですね。こちらでは能力者は神官か祭司にさせられる」
 神官属する神殿は公的機関、祭司は大神の霊山に直接住み込む高等神官、と説明を受けていた。いちるのような異能の持ち主は、しかし、東でも西でも稀な様子だった。ヴェルタファレンに来てから、己と同じ力を持つ者に会ったことがない。それを言うと、アンバーシュは頷いた。
「どうやら民族的に出生率が変わるようですね。ここのように開けた場所に住む人々に能力者はさほどいない。けれど、北の山岳地帯に行くと能力を持つ指導者がかなりいます。あまり表に出てきませんけれどね。他国では、やっぱりイバーマが一番多いかな。あそこは半分くらいの割合だったと思います」
 ふっと室内が暗くなった。蝋燭の火が揺らめいている。再び灯りを大きくしたそれに、二人して言葉を止め、切り上げる気配になった。
 目を交わした時、何とはなしに考えていることが分かったのでいちるは退いたが、アンバーシュは背を向けたいちるを抱え込み、耳元に口づけを降らせた。
「何だ」
「うん? ただ可愛いなって思っただけですよ」
 ちょっと身体冷たいですね、などと囁く。耳が火照った。
「べたべたと、物好きな」
 笑う息がくすぐる。
「定期的にくっついてないと拗ねるくせに」
「誰が拗ねた」
「あれ、願望だったかな。来ないときは連絡しろ、心配する、って言われたことがあるはずなんですが?」
「心配するとは言っていない!」
「心配、してくれないんですか?」
 詰まる。寂しい目をされて、口がわなないた。
「ば、馬鹿か……」
「あなたを好きでいいなら馬鹿でいいですよ。あなたのことが大好きで、愛してて、可愛がりたくて、そればっかり考えてるから、馬鹿なんですよね」
 いちるはアンバーシュから逃れようとしたが、柔らかく回っていたはずの腕はびくともしない。次にされることも分かっていた。口づけをしながら動いて怪我をしたいわけではない。相手が満足するのを待ってから、言った。
「お前は、本当に、馬鹿だ」
 アンバーシュはいちるの頬を包み込み、笑った。
「認めてくれて、どうもありがとう」

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