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 玉座の間でなく応接の間に通されたのは、アンバーシュが個人的用件で呼び出したことを意味していた。東翼の下階にあるその部屋は、それでも軽く昼食会を行えそうなほど広い。壁に絵がかかった下に暖炉があり、窓辺に一人掛けの椅子と机が、中央には三人掛けの長椅子が向かい合うように、そして奥に上等なしつらえの一脚がある。座卓の上のお茶を見るともなしに見ながら、アンバーシュの用向きをミザントリは考える。
 イバーマでの件ならば、アンバーシュはすでに父と話し合いを終えているはずだ。本人に直接何かを言いたい王の考えは分かるが、きっとそれだけではないと承知していた。間違いなく、クロードとの件にも及ぶだろう。
 何度目かの溜め息をついた時だった。侍従が現れ、扉を開ける。アンバーシュ陛下のおなりでございます、と告げられ、ミザントリは立ち上がり、裾を持って頭を垂れた。静かに入室した国王ともう一人分の足音。扉が閉められ、奥の椅子に向かいながらアンバーシュが言った。
「どうぞ、座ってください。わざわざ呼び出してすみません、ミザントリ・イレスティン嬢」
「こちらこそ、ご準備でお忙しい最中にお時間を取っていただき恐縮です」
 言いながら、クロードの視線が静かに向けられていることを感じ、笑顔が強ばりそうになる。微笑みを浮かべて王の言葉を待つ。クロードのことは、意識から除く。
「遅くなってしまいましたが、イバーマでの一件では、あなたにずいぶん迷惑をかけたと思います」
「いいえ、そんなことは」
「おかげでイチルは安全に過ごすことができ、無事にこちらに戻ってくることができました。本当にありがとう。それから、我が兄に代わって謝罪します。イバーマ国主という立場上、彼はあなたに謝意を示すとこちらは拉致誘拐ということで喧嘩をしなければならないので」
「重々承知しております。わたくしにとって、あちらでの滞在はとても有意義なものでした。けれどもし望めるのならば、ヴェルタファレン王妃となられる方には相応の扱いを、お願いしたいだけです」
「伝えておきましょう。イバーマに行ったのがあなたでよかったですよ。イチルも、友人が近くにいて心強かったでしょう」
 実際には足を引っ張った。人質という足枷となって彼女の行動を制限させてしまったと知っている。アンバーシュの言葉は慰めだったが、本当にそう思ってくれていたらいいとミザントリは思った。
「さて、その件に関して、お父上のイレスティン侯爵とも話をさせてもらいましたが……」
 ミザントリの後ろに目をやると、控えていた者たちが出て行く物音がした。クロードまで出て行ってしまう。それを待ってから、アンバーシュは話を始める。
「失礼ですが、あなたは婚約者がいない。その予定の者もいない、と侯爵から聞きました。しかし身内の恥ながら……我が兄オルギュットは噂の通り、拾ったり攫ったりした娘を妃に据える悪癖があります。こちらが懸念したのは、そういう状況の国に攫われたあなたの経歴に何らかの傷が付き、以後、手に入れるはずだった幸せを失ってしまうのではないか、ということでした」
 ミザントリはわずかに赤面した。婚約者も恋人もいないという話題は直接的にすぎたが、背筋を立たせて言葉を聞いた。
「実際、影響はありましたか?」
「……話を聞きたがる方には、旅行の行ったものとしてお話しいたしました。そのようなことは一切なかったので、何の後ろめたさも感じませんが、やはり、想像される方はいらっしゃると思います。ですがそれも一部という気がいたします。実は……」
 エッドカール伯爵の次男との縁談が持ち上がっていることを話す。ミザントリの身からすれば下位だがしかし伯爵だ。その次男といっても人柄も仕事ぶりも称賛に値する人物だとも聞いた。双方共に願ってもない縁組みだと言われることは間違いない。
 ヘンディ・エッドカールについての人から聞いた評判についても話したところで、アンバーシュは椅子に背中を預けた。人がいないのでくつろいだ様子だった。
「それを聞いているとどうも、あなたはそのヘンディ・エッドカールに好意を抱いているように聞こえますね」
「人伝ですが、好ましく思えたことは確かです。もったいないお話だとも思っております」
 すると、アンバーシュは片手に頬を載せて複雑そうな笑顔を見せた。
「……これは一応、一部の者にも話をして承認を得たことなんですが、ミザントリ」
「はい」
「イレスティン候の領地は、ロッテンヒル西部以西、ラフディアなどの重要な河川地域です。水質の保全や、動植物の保護など、侯爵はよくやってくれていると思います」
 ありがとうございます、と言いながら、アンバーシュの話の着地地点が見つけられない。跡継ぎがいなくなると困るから、結婚相手を斡旋してくれるつもりだったのだろうか。
「あなたはよく出来た人です。あなたがいれば領地のことはきっと上手くやってくれるでしょう。しかしイバーマの件が理由で、例えば、あなたが望む相手と結ばれなくなった(・・・・・・・・・・・・・・・・・)などの不利益を被るのならば、ミザントリ・イレスティン、アンバーシュの名の下に、あなたの生涯の保障を約束します」
 ミザントリは目を見開いた。
 詫びの品として、ミザントリがミザントリ自身として生きる一生の保障をしようと言っているのだ。
 有力貴族の誰かとの結婚ではなく、一個人の一生の保障とは、途方もないことだった。あまりの大きさに言葉が出ない。王妃でもない人間の一生を面倒を見ると言っているのだから。
「ただ、条件があります。あなたが本来得るはずだった相応の相手がいなくなってしまったこと。つまり、あなたが未婚であること――です」
「陛下っ!」
 ミザントリは無作法に声を荒げた。今、彼は恐ろしいことを言おうとしたのだ。血の気が失せるミザントリを前に、アンバーシュは泰然としている。落ち着いて座るよう促して、蒼白なミザントリに優しい声をかける。
「怒らせるようなことを言いましたか?」
「陛下……陛下、そんな、恐ろしいことを仰らないでください。陛下の思うようなことは、何もないのです」
「あなた方に何も起こらないのならば、起こさないよう注意を払っているから。俺は、何か起こればいいと思って動いただけですよ。あなたは懸命な人です、ミザントリ。波風起こさず、周囲と上手く付き合えるあなただからこそ、逸脱を極端に恐れている。人の口の端に昇るような振る舞いを、善きにしろ悪しきにしろ、あなたはいつも怖がっていますね。そうして平凡であろうとする。あなたにはイチルのような生き方はできない」
 知っているのならば何故。
 一つであるはずの道が、二つになってしまったことに、ミザントリは唇を噛む。
 これまで通り、普通の貴族の子女として父親の決めた結婚をするのか。
 それとも、王の保障を受けた上で己の思うままに生き、結ばれ得ぬ相手を思っていくのか。
「わたくしは、侯爵の娘です。それ以外の、何になれと仰るのですか」
「あなたが決めることです」
 ひどい人だとミザントリは思った。道を作っておいて、好きに進めという。犠牲も代償も厭わない、ただ可能性を指し示しただけで心に欲しかった保証を与えてくれない。その上で、彼はそろそろ時間だと立ち上がる。
「イチルのところに顔を出してやってください。難しい顔で本を読んでいたので。クロードに送らせましょう」

 アンバーシュが退室した後、のろのろと部屋を出るとクロードがいた。会釈し合い、並んで歩く。東翼の建物を抜けると、離宮は近い。
 クロードが言った。
「北側の花がとても綺麗なので、ご覧になりませんか」
「……はい」
 断る理由を見出せずに、遠回りを選んだ。東翼の建物と建物の間にある、小さな場所に花が咲き群れているのは知っていた。段になったところに植わっており、重たげな花の集まりを垂らしているので、よく誰かが隠れて話をしている。自分たちもそんな風に見えるのだろうか。
「紫陽花ではなくて、繍毬花というのだそうですよ。東の花神がもたらした、東の花です」
 ミザントリの重たい足取りに、クロードはそんな世間話を短くして、付き合ってくれていた。長い歩みに見える、わずかな景色の違いを目にとめているようだった。罪悪感がもたげ、ミザントリは口を開いていた。
「長く……大変失礼をしてしまって、申し訳ありませんでした」
「いいえ。こちらこそ、無礼を働いてしまって、申し訳ありません」
 逃げ回っていたのはミザントリだ。彼はずっと謝罪するために追ってきてくれていた。だというのに彼は決してミザントリを責めない。イバーマにいた時のように、穏やかに寄り添ってくれる。
「アンバーシュが、何を言ったのか知りませんが……」
 身体が強ばる。
「とても悲しそうな顔をされている。私は、あなたは自分が笑うことの出来るように振る舞えばいいのだと、思いますよ」
 知っている、それとも知らない? どういう意味だろうと鼓動が早まる。自分の気持ちを直接に言ったわけではない。幼い憧憬や思慕の念は思いがけず告白したが、自分が今どう思っているのかとは、知られていないはず。
 みんな、ミザントリがクロードを想っているのだと思い込んでいるけれど、ミザントリはそれをはっきり肯定できず、否定も出来ないだけなのだ。好きだと言えば好きだと思う。嫌いではないけれど恋ではない。ただ見ていると安心して、好ましく思う。ミザントリ・イレスティンはそういう生き物だ。一生恋に身を焦がすことがない貴族の女。
 それとも、とアンバーシュの言葉がよぎる。怖がっているだけなのか、目の前に、手にすれば一瞬にして燃え上がるかもしれない恋愛という火に触れられずに。
「ミザントリ様が、私のもう一つの姿の見分けがつくとは思いませんでした。よくおわかりになりましたね」
 息が、止まりそうになる。
 話は、触れずにいた過去のことに及ぼうとしていた。指先で頬を掻くクロードは照れくさそうだった。
 ――覚えているに決まっている。
 あの時、ミザントリは手に入るものとそうでないものを知った。
 幼いミザントリの天馬の夜の思い出は、誰にも触れられない心の中の箱に収めた大事なものなのだ。
「……十年ほど前、アンバーシュ陛下のお姿が突然見えなくなったことがありましたでしょう? その時、クロード様が自分が探すと仰って、その場で姿を変えて飛んでいかれた、その時です」
 数年経って、その時の出奔がヴィヴィアンに関わることだとふと気付いた。あの日、ヴィヴィアンが城を辞し、アンバーシュは消えて、しばらくして彼だけが戻ってきた。傍らに寄り添うクロードは戻ってきた時は人の姿だった。
 その時のことを思い出したのか、クロードは頷くだけに留めていた。
「私は、見た時にすぐに分かりましたよ。あの時のお庭のお嬢様だと。とてもお美しく成長されて、人とはこのように生きるものなのだと思いました」
 どきりと胸が鳴ったのは、そうなるように己に課してきた弊害だった。彼の言葉のいちいちに胸をときめかせたり浮き足立ったりしたのは、年頃の娘ならではの気分の高揚だ。そうしていれば普通の娘らしいという、作為ある自分だった。嫌な女だ、とミザントリは思った。この大きく打つ鼓動は、そんな自分が知られないかと恐れているからだ、きっと。
「……嬉しい」とミザントリは微笑んだ。
「クロード様に、そう言っていただけて、嬉しいです」
 始まってもいない、始める気もない恋を惜しむことに、意味はない。
 こうして微笑んでいれば、誰も傷つかない。自分自身でさえも。だからミザントリはそうして自分を守り、周囲を均してきたのだ。主義主張を突出させるよりも、何も起こらないように。
 いちるの部屋まで送ってもらい、挨拶をしてから帰るというクロードとともに、女官に来訪を告げた。暁の宮の調整を司るレイチェルは、紺碧の瞳でミザントリを見ながら「お客様がいらしておりますが、お通ししてよいとのことでした」と伝えた。
「あら、もしかしてバークハード騎士団長様かしら?」
「……どうぞ、お入りください」
 気の毒そうな気配を感じたが、話が通ったならば帰るとは言えない。だが、すぐに後悔した。着席したいちるの前で、両手を後ろに組み、起立している姿勢のいい赤毛の若者。
 ミザントリは、アンバーシュといちるが夫婦となることに目眩を覚えた。
「緑葉騎士団の者が、わたくしの護衛に就くそうです」
 気持ちのいい声と笑顔で彼は礼をする。
「ヘンディ・エッドカールと申します。初めまして、イレスティン侯爵令嬢ミザントリ様。国王補佐クロード様」
 いちるのなんということもない態度が、恨めしかった。

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