第十三章
 女神の賞恤 きっさにーなのしょうじゅつ
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「だから、本当に見たんだって! 東翼の奥から、足音が響いてきて、壁に女の影が……」
「まさかぁ……」
「私も、東翼担当の友達に聞いたことがあるわ。夜になると、後ろをひたひたと足音が追ってくるって……」
「いやー! 止めてー!」
「……あなた方」
 決して強い調子で響いたわけではなかったというのに、娘たちはぴたりと口を噤み、素早く姿勢を正した。声の主は彼女らに怒りを見せるわけでもなく、感情の窺えない面持ちにふさわしい調子で「作業の方はどうなっていますか?」と尋ねる。
「ええと……」
 どのように言い訳をしようか、その隙に、レイチェルは彼女らの仕事を一瞥した。厨房に下げ忘れられたままの食器、繕い物として送るべき衣服、洗い場に持っていくはずだった敷布などが、彼女たちのおしゃべりのために捨て置かれてしまっている。
 レイチェルは一度頷くと、彼女たちに静かに言うのだった。
「後ほど、妃陛下が話を聞きたいと仰せです」
 その一言はふっくらした頬を萎ませ青ざめさせるのに凄まじい威力をもたらした。


 部屋に付いている女官たちに一通りの話を聞いたいちるは、最後の一人を下がらせた。不幸だったのは最初の一人で、どんな叱責を受けるのだろうと項垂れていたが、いちるの用向きが別のことだと知ると、たどたどしく求められるままに話を吐き出した。最後の者に至ってはどういう用件か知っているせいで、意気揚々と語り始めるのだった。その話の真偽は明らかでないのが正確であろうけれども。
 共に話を聞き終えたジュゼットは、鼻を膨らませて誇らしげにしている。
「私の言ったとおりだったでしょう? 今、お城には世にも奇妙な出来事が起こっているんです!」
「結婚式が近いって時に、あんたって子は厄介な問題を持ち込んで……」
 年上のネイサが呆れて言うと、だって、とジュゼットは頬を膨らませた。
「そういう心配事を一つでも減らしておくのが大事だと思わない?」
 一理ある、といちるは思った。
 現在、ヴェルタファレン王宮には怪異がある。
 その城内の怪奇現象のおかげで、新参の女官たちが落ち着かないのだ。話を聞いただけでも影が歩く、腕を引かれる、髪を引っ張られた、笑い声が響いた、扉が開かなくなるなど、ひたひたと後ろに寄り添う存在を感じるものがほとんどで、この宮はまだ静かな方だが、本館である東翼は日中でも一人で歩きたくないと言われているらしい。
「いったい、何がいるんだろう?」
 ジュゼットが首を傾げるが、いちるはそれが誰かを知っていた。
 その夜、いちるは宝石箱を取り出した。普段は鍵をかけていなかったが、他の者には触れぬよう厳命していた。恐ろしげな女が言うものだから気味悪いものとして近付かぬようになっているらしい。幸いなことだった。
 木の箱の縁に金の飾りを嵌め込み、小粒の宝石を散らした、可愛らしい印象の小箱。箱を開けると、巨大な青石の首飾りが現れる。それだけで市井の家族三人が二十年は暮らしていける代物だ。青石だけでなく細かな宝石が周囲に散りばめられているが、やはりひときわ目を引く石の表面に影が踊り、呼びかけた。
[レア]
 答えはないが、耳を澄ましているのが感じ取られる。滑らかな石の表面を撫で、そっと溜め息をした。
[聞こえているなら返事をするものだ]
 まだ声がしない。石を取り出し、机の上に置いた。宝石に向き直り、じっと待つ。今、ヴェルタファレン王宮を騒がせている、元イバーマ王妃の影が現れるまで。
 エンチャンティレーアの悪戯は今に始まったことではない。イバーマでも、女官たちが気に入らぬからと、些細な邪魔をして怖がらせていた。ヴェルタファレンで同じことをするのなら、何か気に入らないことがあったのだろう。
[構ってやれていなかったことなら、謝る]
[…………いいんじゃない? 婚約者と仲睦まじいことは、いいことだとあたくしも思ってよ]
 むっとした低い口調で返ってきて、それか、と頭痛がやってきた。
[僻んでいるのか]
[僻む?]
 ぴくりと起き上がる気配。次の瞬間、押し寄せる波動が、宙に影に満たない揺らぎを生じさせる。淡い姿だが、怒りを露にしてエンチャンティレーアは叫んだ。
[僻む。ええ、僻んでいるわ! あたくしはもう肉体を持たない影の身。二度と人には戻れず、レグランス・ティセルのように善なる方向へ留まることもできない! 死に向かおうとしても、その道を見失った半端者。いずれ魔眸に堕ちて、あなたに取り憑いて呪ってやるんだから!]
[レア。思っていても、口に出してはならない。言葉がそれを引き寄せてしまう]
[あたくしが怖いの?]
 せせら笑う。長く留まりすぎたせいで、彼女はすでに暗きところを見るようになっている。己の欲望のままに行動し、周囲を破滅させることを厭わなくなるだろう。
 いちるは頭を振った。
[妾の元に留めている責任がある。これ以上騒ぎを起こし、処罰が下ることになれば、お前は否応無しに跡形もなく消滅させられるのだ。それは、よき終わりとは言えぬ]
 欲を言うなら、送り出してやりたいのだ。宝石に宿り、影として焼き付けられた存在は、やはり苦しいだろう。元々精であったならともかく、エンチャンティレーアは人として生き、悔いを残して肉体を失った。思いを残したオルギュットは、彼女を顧みることはなかった。
 揺れる灯火の向こうに、女の影が頼りなく揺れる。もし己も何かに思いを残すのならば、このように留まることがあるのだろうかと思いを馳せた。強い執着でそれを想い、いつまでも側で見ていたいという心残りを、進み続ける時間への焦燥と相手に対する不許に変えて、魔眸となるのか。
 その暗闇は慕わしいのかいとわしいのか。まだ、感じられない。
[どうすれば、お前を解放してやれるのか]
 エンチャンティレーアは揺れていたが、分からないとでも言うように首を横にし、椅子に音もなく腰掛けた。彼女自身も見出すことができず、疲弊しているのだ。項垂れた女の姿が感じ取れ、哀れに思った。
[……あなたも疲れているのね]
[妾か?]
 だが言葉をかけたのは女の影の方だった。思いがけずそう言われ、首を傾ける。確かに、結婚式が近付き、覚えること、果たさねばならぬことが重みを増してきているが、困憊して寝入るということはない。むしろ、周囲の方が張りつめて感じられるのだが、エンチャンティレーアの言うのはそういうことではないらしい。
[だって、あのアンバーシュなのだもの]
 含む言い方だった。
[アンバーシュがどうした?]
[あの雷霆王なのでしょう。ひどい乱暴者だと聞いているわ。あなた、時々口喧嘩をしているでしょう。終わった後、ひどく疲れて寝てしまうみたいだから。ねえ、手を出されたりしていない?]
 数日を思い返してみる。
(……口喧嘩。したな、確かに)
 笑いながら応酬し、ひどい時は相手の傷を抉りながら勝敗を決めるのだ。もう定番のやり取りになっているが、よく考えればあの言い合いでは懸念を呼ぶかもしれない。彼女でそうなら、実際に耳にしている者たちは仲を疑っているのだろうか。自分への胡散臭げな視線のせいで流していたが、由々しきことだった。
[本当に、愛されている?]
[殴られてはいない]
[今のところは、でしょう?]
 あまりにも心細そうに案じられ、笑ってしまった。驚いたエンチャンティレーアに言う。
[妾を殴る度胸はあれにはない]
 それらしい出来事があったことは言わない。怒りに支配されていたアンバーシュをいちるは覚えているし、忘れぬだろう。だが、簡単に手を挙げられるほどアンバーシュは軟弱にあらず、強くもない。エンチャンティレーアは信じられないというように反応を窺っていたが、いちるが微笑みをたたえていることを知ると、それでも己の中のアンバーシュ像と一致しなかったのだろう、だって、と不安そうに呟いた。
[幸せそうには見えないもの。本当に、アンバーシュはあなたを愛しているのかしら?]
「それは私も聞きたいなァ」
 第三の声にはっと顔を上げると、窓の内側に見知らぬ女の姿があった。色を洗ったかのような薄赤の髪。金色の眼が猫のように細くなり、しなやかな腕を後ろにしている姿は優美な一輪花のようだ。小さな顔を縁取る巻き毛が柔らかく、微笑みは優しいが、どこか老成した雰囲気がある。
 いちるは立ち上がり、相手を探った。こんな場所に突如現れるのだから何者かは知れているようなものだが、敵意を持っているのならば取るべき行動があるからだ。
「やだなァ、そんなに警戒しないで? ちょっと遊びにきただけなんだから。私の領分である『結婚』を行う同族がいるんだったら、西神のよしみとして確かめにくるのが筋でしょう?」
 彼女のまとう衣が、まるで霧のように重なって揺らめいた。風の塊に似たものを身につけ、それが自在に色彩を変化させるらしい。夜の灯火の中できらめくそれは橙色の火と同じ色をし、藍色の闇の中で祈る神官の白い衣が染め上げたようになっていた。
「私の名前はキッサニーナ。愛を司り、愛を祝福する者。突然お邪魔してごめんなさいね。アンバーシュに知られたくなかったの。あの子、今すごくぴりぴりしているみたいだしねェ?」
 注意深く女神を見つめる。視線を受けて、艶めいた唇で弧を描いてキッサニーナはいちるに言う。
「ねえ、イチル。ちょっと私と遊んでみない?」

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