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 死者はまず、肉体と魂の離反を確認しなければならない。これは医者か聖職者が行う。時々、翌日になって息を吹き返したという奇跡の事例があるからだ。死が確認されると翌日の葬儀の準備が始まる。この場合、送り出す側が裕福かどうかでものが変わる。縁故がいないなら神殿側が一切を行うし、街の人間が集まって神官に言をあげてもらうこともある。火の神がもたらしたあらゆるものを焼く炎によって、肉体は消滅し、骨が残る。その骨は墓に入るが、ここもまた、裕福かどうかで場所が変わる。
 ガストールの亡骸を前にして、セイラはようやく彼女の名を聞いた。
 ガストールの場合、縁故と言えば、血のつながらない彼女、カレーナだけらしかった。騎士の権限でもって知り合いの神官を呼びつけ、死を宣言させると、葬儀をどうするかと神官が問いかけた。
「遺言の類いはなかったんですのね?」
 カレーナは頷いた。セイラや神官、事情を知った近隣の住人が集まってきており、元々少ない口数がさらに減っていた。神官が来る前に、そういったものがないか探してみたが、覚え書きの類いすら見つからなかった。カレーナも何も聞いていないという。
「葬儀は神殿に任せます。骨はその後でいただきにまいります。共同墓地に埋葬しましょう。それでいいかしら、カレーナ」
「……うん。それで、間違いないのなら……あたしには、分からないから……」
 口にはしなかったが、葬儀にも埋葬にもお金がかかる。神殿にすべて任せると、故人を偲ぶのではなく、流れ作業になってしまうが、費用は少なく済む。共同墓地の埋葬も、他の故人と同じ場所に置かれるだけになってしまうが、維持管理費はさほどかからない。
 ガストールの蓄えは彼女に残してあげたかったが、施しをするつもりはなかった。カレーナがバークハード邸にまで走ってきたのは何らかの期待があったせいかもしれないが、彼女はこれから、しっかりと現実を見つめて一人で生きていかなければならない。
 亡骸は葬儀の日まで安置する。カレーナは家にいると言った。セイラは、そろそろ仕事に出なければならない。
「時々様子を見にきます。困ったことがあったら、憲兵隊に言付けていらっしゃい」
 現在至る所に配置されている憲兵ならば、気安く彼女の伝言を受け取るだろうし、迅速に報告を上げてくる。頷いたカレーナを見届けてから、セイラは一の郭への馬車を走らせた。


 ヴェルタファレン国主の結婚式は、実に三百年以上久方ぶりの祝い事だ。アンバーシュが王位について以来、初めての出来事で、華やかな行事と縁遠かった国民は、羽目を外すほどに浮かれ騒いでいる。一方、それら行事を担う宮廷側は、初めての事態に奔走している。何せ、半神の結婚式が人間の式と同等に行われてよいものなのかという検討から始めなければならなかったからだ。
 宮廷と神殿と神山の三方で問い合わせ文書が次がれている間にも、国外へ知らせを出さなければならない。調停国としての正式文書だ。王妃の立場が名文されている。
 アンバーシュが国王として機能できなくなった場合、王妃はヴェルタファレン国に限って権限を発動させることができる。国内外の防衛、大臣の解任、裁判など、国王が最終的に担っているものは思いがけず様々ある。その中で、先だって事を起こしてしまったティトラテス皇国との調停がイバーマ王に委任されたのは幸いであったかもしれない。
 セイラの仕事の一つは、いちるが王妃となった時の近衛騎士隊を置くことだった。諸外国には国王と王妃のために近衛騎士団が創設されているところもあるが、アンバーシュのそれは形式上のものだったし、新設するには至らないと会議結果が出た。近衛騎士団から王妃騎士隊を編成し、有事に当たればよい、ということになり、近衛や緑葉といった騎士団から選出、辞令が下ることになった。このくそ忙しい時期に辞令を出し、新部署を作るのにどれだけ細心の注意を払わなければならないか、当事者以外誰も分かってくれない。
 緑葉からはヘンディ・エッドカールが出たことも、セイラには頭が痛いことだった。
「あいつはうまくやると思うぞ。姫殿下、姫殿下って、他のやつに楽しげに言って聞かせてるくらいだ」
「物見高い連中をいなすのは得意でしょうね。けれど、そんな彼の特技も、発揮できなければ配属の意味がありませんわよ」
 緑葉騎士団団長クレス・オードワールは楽観的に言う。ヘンディとミザントリとの仲がこじれたわけではないが、やりづらいに違いない。どちらも頭の回転の速い人間だが、穏やかではいられないだろう。
「ヘンディはいいとして、ミザントリ様が来ないと困るんですの。わたくしにとばっちりがくるんだから」
「今はミザントリ嬢が姫殿下のお相手しているらしいな。美女二人で何の密談だろうか」
 人が目を回している間に、お嬢様方はのんびりお茶をしている。気楽なものだ。いちるなど、覚えることが山ほどあるだろうに。東でどのように生活していたのかは知らないが、肝の座り具合は高貴な人間のそれでも、勝手が違うのは食事や作法で見ている。結婚式でちょっと、どきっとする程度のへまをすればいいのに……と少し呪ってしまうセイラだ。
「とにかく、わたくしからの選出は以上です。細かいところはあなたがお決めになって。長く近衛にいたのはあなたの方ですから」
「了解した。それで、式の準備はどうだ?」
「どうもこうも。拝礼は基本の型なのに、いまいち緊張感がなくてばらついてます。新年の時のあれはいったいどこに置き忘れてきたのかしら。あの時は拍手喝采の出来だったのに」
「本番に強い近衛だからなあ。昔からそうだった。訓練のときは今ひとつぱっとしないんだが、見物客がいるとものすごいかっこよくなるんだよな。何がしかの神がご加護くださっているんだろうか……」
「運の神とか? だったら、今回は大盤振る舞いかもしれませんわね」
 それでは、とクレスと分かれ、馬車に乗って三の郭へ下りる。カレーナの様子を見に行かなければならい。食事をさせなければ。
 裏街の、集合住宅の階段を上がっていく。街の喧噪とは裏腹にこの地区は静かだ。人の祝い事も祭りも、誰かの死さえ、日常だから。そう思った時、セイラはふと足を止めていた。
 生きる者があれば、死する者がある。祝いの日が近付いても、どこかで誰かが生まれて誰かが死んでいる、至極当たり前のことが、不意にセイラの眼前にれっきとした形となってあるように感じられた。
 誰かが喜びを胸に抱いている時、その倍の誰かが胃を空にして踞っている。幸福と不幸の数は必ずしも一致しない。常に、不幸の方が多い。だからこそ、人は這い上がろうともがくのだ。
 扉を叩くと、物凄い勢いで開いた。驚いたセイラの前に飛び出したカレーナが、赤い目をほっと和ませて中へ招き入れる。室内は、思いがけず花の香りがしていた。鼻をすすりながらカレーナが言った。
「隣とか、下の階の人が持ってきてくれた。死んだ時くらいって」
 生きてるときは無関心だったのにね、と無理に笑う。ガストールが眠る枕元には、住人が持ってきた質素な花束がいくつか置かれていた。花屋で買ってきたものも、野花を摘んできただけのものもある。密な交流はなかったが、隣人として存在していたことを証すものだった。
「食事はしたの?」
「朝貰ったやつを、ちょっと」
「そう。新しいのを持ってきたのだけれど、少しだけでいいからお腹にお入れなさい」
 日持ちがしそうな焼き菓子などを置くと、お茶を頼んだ。薄い出がらしが出されたが、ここでは普通の飲み物だ。持ってきたものをお茶請けにして、自宅のように座っていると、カレーナは何か言いたげな顔をした。
「どうしたの?」
「……国の、偉い人が……こんな風に家にいるのって、不思議」
「ガストール氏から聞かなかったのかしら? わたくしは、元々こういう育ちだというわけじゃなくってよ。裏街の孤児だったわ。屑拾いと掃除で生活していたの。今でもそういう親方がいるでしょう?」
 カレーナはセイラの素の口調を知っている。それが実感できたらしかった。頷いて、あたしも、と口を開いた。
「親方のところで、使われてた。それを、ガストールさんが拾ってくれた。小間使いになれって。給金は出ないけど、住んでいいし、食事もお前が作ったものを食べればいい、じじいとの二人暮らしでいいなら来いってさ。あたしが、有り金奪って逃げるかもしれないって、思わなかったのかな……」
「思わなかったのよ」
 セイラは言った。
「あなたの目がとても綺麗だから、信じてやろうって思ったのでしょうね。それから、多分、自分のことも信じてみたかったのだと思うわ。この地区にいると、自分が日陰だって分かるものなのよ。そういう卑屈さはね、生きる力を奪うことの方が多いの。何も出来やしない、どうせ……って。でも、あなたの目はきらきらと輝いていたから、まっとうな人生を歩ませて、自分もそれにあやかりたいと思ったのでしょうね」
 ガストールはカレーナでなければならなかったし、彼女もそうだ。そういう風に、不思議と縁づいた者同士が、ありふれた日々よりも素晴らしい記憶を作ることがある。
 ヴィヴィアン様は、わたくしをそうして信じてくれたのかしら。
 あなたを救うことができなかったあたしだったけれど。
「これから、どうするの? 言っておくけれど、汚い仕事は止めておきなさいね。あなたの心身を食いつぶすし、誰も幸せにはなれないわ。わたくしに出来るのは、あなたの決めた道の手伝い。道をあげることはできないの」
「分かってます。今の仕事が続けられるなら、どこか、新しい部屋を見つけて住むつもり。ここは、広いし……」
「仕事は何を?」
「表街の商家で、洗濯婦をしてる。ベドナさんってお家」
 完全な棲み分けが行われている貴族の邸や城と違って、人が少ないことをいいことに、目下の者に関係のない用を言いつける古参や主人が商家には多い。ベドナ家は商売人としては大きいが、人が足りていないと聞いたことがある。
「忌引きは許していただけた?」
「午後には戻ってこいって言われた。……大丈夫、だよね?」
「午後には終わるわ。何もなければ。九時には火葬が始まるから、お祈りをするならその時間に神殿にね。それから骨をいただいて、一緒に墓地に行きましょう」
 順調に行けば午前中には埋葬が終わる。人の死が、次の日には日常に変わることに、静かな寂しさがあった。悲しむ暇もなく、カレーナは生きていかなければならない。それが現実なのだ。

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