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水の少女

 神々の意向か、結婚式は夏を感じさせるからっと晴れた日だったが、それが終わるとつけを返すかのように土砂降りの雨が二日続き、しばらく不安定な空だった。雲間から覗く日の光と、蒸した空気で暑いと感じるようになった直後、晴れの日が続き、もうすっかり夏だとみんな口々に言い合った。
 結婚式が終わっても毎日は続く。偉い役人たちは後始末に追われているらしいが、日々に必要な仕事に従事している者たちはいつも通りに働かなければならない。食事を作り、洗濯をし、掃除をし、馬や家畜の世話をし、縫い物をし。タリアもその一人だった。今日も、アディの理不尽な叱責に涙を呑まなければならない。
 思い出すだけでつんとする鼻をすすり、何度も瞬きして、悔しさと悲しさと情けなさを消そうとした。抱えた籠の中には汚れた衣類。終えたはずのタリアの仕事は、別の洗濯女中の仕事になって、アディに言わせるとタリアは「仕事を怠けて玉の輿に乗ることしか考えていない馬鹿な娘」なのだそうだ。
(私は、ちゃんとしたもの……)
 タリアは自分の仕事をした。入れ替わったのは、先に尋ねられた方の女中が自分の仕事は終わったと嘘の主張をしたからだ。せめてアディが最初に自分に尋ねてくれていたら、その子が叱責されていただろう。それが正しいのに、その子はアディの後ろで自分は関係ないという顔をしていた。その場にいた者たちは仕事をしていない、何をしていたと叱られた。口答えは出来ない。長引くのが分かっているからだ。洗濯女中をまとめるアディの機嫌が悪くなれば、他の者たちへ悪い影響が出るし、もっとややこしい問題になりかねない。結局、きつい言葉で指示され、タリアは涙を堪えて洗濯をせねばならない。
 仕事場である洗い場は、今は別のことに使われて、「怠けていた」自分もそこで作業することを許されない。籠を抱え、井戸に行き、盥に水をくんでそこで一人水音を立てなければならなかった。唯一よかったと言えるのは、一人にしてもらえることだった。けれど、時間がかかればまたアディが怒り出す。別の理由で泣いてしまう前に、忘れるようにしてこの洗い物を終えなければならないのだ。
 井戸で組んだ水を盥に入れた。時間が惜しかったので、井戸の側で仕事をするつもりだった。汚れた水は近くの掘に流せばいい。籠を置いて、どれから手を付けるべきか物色したときだった。
「あっ……!」
 風が吹き、籠の中から一枚がすり抜けた。ぽかんと抜ける青空にはためいた布は、まるで矢のように鋭く落下した。
「ああー!」
 タリアの声が井戸の中に反響した。ぱしゃん、と音がした。慌てて滑車を回すも、井戸の中に落ちた洗いものは引っかかって来ない。タリアは真っ青になった。
 王宮勤めで、水場にいない官僚や女官、貴族たちの持ち物を洗濯するのが洗濯女中の仕事だ。高価なボタンなどを盗めば鋭く詰問され、職を失うことだってある。例え汚れた布一枚でも、タリアには何ヶ月分の給金になる絹だ。
「どう、しよう……」


     *


 足下まで隠れる官服は、紺地に銀の縁取りをしてある。厳めしく見えるよう、肩を張り出す形にして、章と房で飾ってあった。手を出すのは前の合わせからで、ならばこの上着の意味はと尋ねれば、正装にはこれをまとうのだと答えがあった。下に着るものは青地、または灰色地のものが好ましいという規定があり、いちるはそれに従って、青灰色の地味な色と形の衣装を選んだ。飾りも縁取りも何もなく、頭から白い飾り編みの襟を付けるのだ。それまでの習慣から、いちるは首元を露にしたくないという思いがあり、衣装はなるべく首の詰まったものが揃っている。果たして、色気も素っ気もない暗い雰囲気の娘が姿見に現れる。
 官服の裾を揺らして、いちるが向かったのはヴェルタファレン城の最奥。魔石で覆われた屋根は日の光を受け、きらめき、地上にもまだらな光を落としている、結晶宮だ。まばらな硝子を踏んでいくようだ。真っ直ぐに宮殿内に足を踏み入れれば、さっそく迎えがあった。
「おはようございます、妃陛下」
「おはよう、ロレリア宮廷管理長官。皆の者も、おはよう」
 いちるの言葉を受けて、挨拶があちこちで上がる。
 あまり内部に足を踏み入れたことはなかったが、そこは本宮とほとんど変わらない様式になっている。
 磨いた木の柱と、金で象眼された細部。壁には布や巨大な絵画がかかっており、人の手の届かない天井には、森と丘の風景が続きで描かれている。床は石でできており、摩耗して滑らかに光っていた。天井を高く取り、二階建てにし、奥と左右に廊下が広がって部屋がある。ただ、奥と二階に人の出入りはほとんどない。選ばれた者がその扉を開閉する。
「妃陛下の執務室は東翼、最奥の部屋にご用意してあります。その隣が、わたくしどもが詰める部屋です。奥にはわたくしが在中しております。宮殿内は自由に行き来して構わないと陛下よりお言伝をいただいております。しばらくは、エシ宮廷管理補佐官がご案内させていただくことなりますが、よろしいでしょうか?」
「構いません。慣れた者がいてくれると助かります。しばらくはあなた方の仕事の様子を見たい。肩書きを貰ったが、内実は伴っていないから。今までの仕事をまとめた資料室を見ても構いませんか」
 率直に「仕事ができない」と言ったいちるに、ロレリアは少し微笑み、頷いた。
「妃陛下には、わたくしと同等、あるいは高等の裁量と権限がございます。いくつか、お話しておきたいこともございますゆえ、資料室へ共に参りましょう」
 時計が鳴る。奥から響いて来る巨大な鐘の音だ。
 始業の鐘の役目を果たしているらしい。ロレリアは管理たちに仕事に行くよう命じ、いちるを連れて西翼へ向かった。近くの出口を通って廊下を行き、別に備えられた資料室へ行くが、部屋という規模ではない。いちるが使っていた、離宮ほどの建物だ。
「資料館と呼ぶべきですが、資料室と呼んでおります。西島の神々にまつわるあらゆる資料、および、我が国の宮廷管理官が対処した事案等の資料をまとめております」
 言って、ロレリアは苦笑した。
「これでも、専門の司書官がいるので整理した方なのですが、お恥ずかしいかぎりです」
 壁に添った足場が、ぐるりと三重になっている。ぎっしり書物が詰まっているようだ。地上には入り組んだ形で本棚が並び、どうやら紙束は背表紙をつけて形を整えるらしい、その途中のまま放り出されたものが机に点在している。しまいきれなかった書物は本棚の隅に塔となり、元通りにできなった本は棚の中で横並びに積まれていた。非常に雑だった。
 その資料室でロレリアが話したことは、いちるの仕事の領域についてだ。
「差し出がましい口を利くことをお許しください」
「構いません。わたくしもその話をせねばならないと思っていた」
 いちるは、国家間の事情に明るくない。また、人事についても権限を持つには不安要素が大きすぎる。ロレリアと同じ権限があると言っても、下せる決断の重みが異なる。いずれはそうならねばならなくとも、今は危険だ。しばらく状況を知る猶予が欲しい。ロレリアもそう思っていたようだった。
「神事にまつわることは、妃陛下の方が迅速で的確な判断を下せるかと存じます。いつか、魔眸の襲撃時、法具の発動やその他指示をなさいましたでしょう。妃陛下の権限ならば、わたくしが用意せねばならない手順も飛び越えることが可能ですので」
「あまり褒められたやり方のようには聞こえませんが」
「失礼いたしました。ですが、調停王をいただいているとそういったことは手順を踏まねば各国の非難を浴びる事項なのです。濫用ととられてはならないのです。妃陛下ならば、緊急時に国主代理として立つことが可能、従って、国防のためと弁明も立ちます」
 いちるもそう考えていた。ロレリアもそうだし、アンバーシュもそうだ。
「あれも危険な権利をわたくしに与えたこと」
 ほんのり笑うと、ロレリアは震うのではなく、ゆったりと微笑んだ。
「よき王妃をいただき幸せでございます。ただ者では、陛下はこのような権限をお与えにはならないでしょう」
 後悔することがなければよいがな、といちるは溜め息を禁じ得なかったが、すべきことがあるのは安堵するものだ。食客の身で怠惰に過ごすよりは、知識を貯え、出来ることを増やしていくことは有意義だ。責任は伴うが、冠を載せた者の役目ならば行うのは当然のこと。
「三日ほどは資料室で資料を読みたい。何か予定があるならそちらを優先しましょう」
「かしこまりました。ならば、エシでなく、司書官のベラをつけましょう。しばらくわたくしどもの仕事をご覧になってください。折りをみて、わたくしも覚えていただきたいことをお教えする時間にいたします」
 了承し、いちるは書物の場所を聞いた。まずは近年の報告書や検討書、議事録などを読み、適宜質問を加えていくことにする。ロレリアは場所を示し、ベラ司書官を呼んでくると告げた。

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