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 王宮の勤め人には区分が存在する。国王と王妃という天に近いの人々。それを補佐する大臣と補佐官、各官吏。それより下の長のつく各部署の責任者。侍従と女官。それらをうんとうんと下っていくと洗濯女中になる。
 だからその日、制服と密かに呼ばれている官吏が現れた時、何を叱責されるのかと全員背中を丸めたものだった。
「この手巾を洗ったのは誰だ」
 長であるアディが怒鳴った。
「タリア!」
 タリアはびくりとし、青ざめて前に出た。官吏は貴族がなる場合が多い。教育を受けるのに先立つものが必要だからだ。そうして、そういう人々は下働きに厳しく当たる場合が普通だった。だから、いくら粗相したものが戻ってきたといっても、機嫌を損ねてタリアを詰りにきてもおかしくはない。
 だから、肩に強く手を置かれ、恐れで歪んだ顔でその顔を見上げても、それが心底喜んでいるなんて、信じることはできなかった。
「君が、あの素晴らしい魔法の布を贈ってくれたのか!」
 タリアはぽかんとした。
「あ、あの……?」
「夜中に水音がするのでどこからしているのかと探してみたら、あの布だったんだよ。返ってきたあの布、一見するとただの手巾なんだが、水を映すようになってね。美しい波紋を映し出すんだよ。いったい、どんな魔法を閉じ込めたというんだ?」
「タリアが魔法使い?」と見守っていた人々から囁きが交わされる。タリアはぶんぶんと首を振った。それしか出来なかった。井戸に落としたなんて言えないし、けれど。
(あの女の子……?)
 とにかく、官吏は上機嫌だった。彼は、その布を見せてくれた。
 本当にただの絹の布地で、ひんやりと冷たく、輝いて見える。ただ、どこからかちゃぷんと水の音がし、勧めに従って影のあるところに行くと、布が光を反射し、天井や壁に水の波紋が浮かび上がるのだった。歓声が上がるが、タリアは呆然とした。
「もっと大きな布だったらなあ。妻に素晴らしいドレスを仕立ててやれるんだが!」
 そんなことを言い出すものだから、タリアは彼に、必死で同じ布を作ることはできないと訴えなければならなかった。
 何とか説得して、タリアが普通の洗濯女中であること、自分でも何が起こったのか分からないと納得してもらい、休憩に入った途端、門へ走っていった。馴染みの行商人に何か貰おうとし、素早く考えて目についた、焼き菓子と釦を少ない給金から購入し、井戸に走っていった。
 あの少女が何かしたと思えなかった。真っ青な瞳をしたあんな美しい子どもが、下働きの者の子どもなわけがない。だが、何と呼んで探したものかと思案し、結局、井戸を覗き込んで囁きかけた。
「あの……」
 タリアの怯えた声が小さく反響する。薄暗い、湿ったにおいのする穴。
「……水の神様、お願いを聞いてくださって、ありがとうございました。あの、お礼を……差し上げたいんですが、どうしたらいいでしょう……?」
 声が返ってくるわけがなかった。
 溜め息をついて、井戸の側にでも置いてみようと考えたときだった。「ふふっ」と笑う声がし、飛び上がると、そこには青い瞳の少女が、にこにことタリアの足下で笑っているのだった。
 タリアは息を呑み下し、この不思議を何でもないことだと考えることにした。ここは半神であるアンバーシュ王の城だし、何かあれば王や官吏たちがなんとかしてくれるだろうと思い込もうとした。こんな小さな子どもが(ただの子どもでないかもしれないけれど)自分を傷つけることはなかなかできないだろう。膝をついて、そっと声をかけた。
「あの、この前はどうもありがとう……」
 敬語を使うべきか? と思って言葉が詰まったけれど、やりづらいのでいつも通り、小さな子どもにするように言う。
「とても助かったわ。本当にありがとう。これ、お礼。よかったら、貰ってくれる?」
 受け取った少女は、ちょっとどうすればいいのか考えていた。袋が開くものだと知って中を覗き込み、それで終わったが、もう一つ、釦の方は目を輝かせてじいっと見ていた。みるみる、目が笑って、輝いていく。どうやら気に入ってもらえたらしい。
「よかった。それじゃあ、またね」
 そう言って離れてから、ふと己の言葉に蒼白になった。
 またね、という言葉は、何らかの約束になってしまわないだろうか。人の世に深く関わる神々はそうでないけれど、古い土地の神や神霊は、ささいな言葉を契約と見なすのだと、タリアも祖母から聞いた覚えがあった。
 振り向いた、そこに、少女はいなかった。


     *


「魔眸の出現んん?」
 クゥイルという名の宮廷管理官はいちるの言葉にひどく胡乱な返答を寄越した。あまり目がよくないのだろう、補正器具はつけていないが、よく見るようにして目を強く細めた。
「魔眸でなくとも。何らかの存在の気配を感じる旨は誰の報告すべきなのか、教えを請いたいのですが」
 クゥイルがいちるの顔をじろじろ眺めている最中、部屋に詰めている官吏たちが必死になって目配せや手振りで指示をしているのが感じ取れる。初任の官吏であるいちるは、実際は王妃だ。今のところ権限はないが、必要とあらば彼らの首を飛ばせる。横暴をする人間だと思われている己の素行の悪さを強めるつもりはなかったが、寛容でもない。これ以上クゥイルが無礼をするなら、静かに威圧し謝罪を口にさせるつもりだった。
 だが、幸いにも、男はひとつ頷き、冊子から書類を引き抜いた。
「出現の場合は、普通、話を聞いた時点で管理官を派遣してこういう調査報告書を作るようにしてます。各地方の神殿に在籍している者がその仕事に当たるんですけど、何かお聞きになられたんでしょうか?」
「城内に何者かが現れた気配を察知しました」
 クゥイルは動きを止めた。背後の者たちも、息を止めて耳を澄ましている。
「……なんですって?」
「特に騒ぎを起こしている様子もなく、あなた方も気付いていない様子なので、昨日は様子を見ていました。今日、再び来訪を感じたので、そういう場合はどのように処理しているのかと思い、尋ねました」
 ロレリアと、珍しく代わりを務めるくエシも席を外しており、副責任者だというクゥイル、ジェファン、エルネという三人の管理官のところに足を運んだのだ。
 いちるが部下に従えることになった宮廷管理官たちは、おおよそ従順で『王妃』の顔色を窺い、距離を取る官僚だったが、一方で他の管理官たちをまとめていた古株、責任者格の者たちが気になっていた。突然現れて最上に押し上げられた得体の知れない王妃を、快く思わぬのは仕方のないことだ。それでも、異能を感じ取れる者はいちるに表面上の敬意を置いたが、クゥイル、ジェファン、エルネの三人は、組という結束もあってか、いちるを軽んじる気配があった。気付かれても構わないと、見えないところでおしゃべりをする始末。別にそれそのものは構わぬが、その影響は他に及ぶのは避けたい。
 そして、どうもこれは好機になったらしい。クゥイルは顔色を変え、真剣な顔をして言った。
「……エルネ。来訪記録を調べて。陛下のお客人が来ていないかどうか。ジェファン、情報収集。妃陛下、どのように感じたのか詳しく仰っていただけますか……あっと、ちょっと待ってください、紙、筆!」
 聞き取りを始めるらしい。その騒ぎの中で、黒髪のジェファンが「探知機か」と呟いたので、頭の中の記録用紙にその旨をしっかりと留めておくことにした。

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