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いちるたちはひと際巨大な天幕まで連れられ、中へ投げ込まれた。内には煙となって香が充満し、その匂いを発しているのではないだろうかという小さな置物があった。しかし置物ではなくそれは老婆で、三角の頭巾を被り、ちんまりと座っているがためにそう見えるのだった。まるで岩から削り出した石のような佇まいで、刻み付けたような細い目をちらりといちるたちに向けた。
テギアラたちは稀人がもう一組み来たがどうすればいいのかを尋ね、老婆は黙考していた。やがて軽く頷いたので、彼らはいちるたちを彼女に託すことにした。やってきた時と同様、慌ただしく外へ出て行く。
老婆の答えはそれこそ小石から読み取ろうとするかのような小さな仕草で、真意を読み取ることは困難だったはずだが、彼女に任せれば問題ないという、村独自の信仰が透けて見えた。恐らくは能力者であろう老女を前に、いちるとアンバーシュは目を見交わさず、相手の出方のみを窺った。ふっと笑い声がした時、相手がこちらの素性を悟っていることを知った。
[よう来られました。雷の]
[無礼をしました。申し訳ない]
こちらの台詞、と老女は声なき声で言った。
[地と風が呼びました。御方の花嫁が繋がりを得るためでありましょう。楔を打つがごとく、あなた方は縁を持たねばならぬ。峻嶺の者との縁を結ばれるとよろしいかと]
[自由にしても?]
[咎める者のなきように致しましょう。ご自由に歩かれませ]
続いて、老女はいちるに言葉をかけた。
[御方は水のさだめとお見受けします。水は流れるもの。とどめようのない形のもの。変化を恐れなさいますな。御方は、また、変化を受け入れるさだめの持ち主でいらっしゃるゆえに]
[山の賢女の祝福に感謝申し上げる]
いちるが頭を下げると、老婆は深く笑った。
[神々が喜ばれましょうな。婚姻とはいつも心躍る出来事]
今日婚姻を迎える者たちへ言祝ぎの言葉を置いて、二人、天幕を出た。村中の者が結婚式に参列するらしく、岩棚は人で溢れている。どのような様式か興味があったが、アンバーシュは人目を避けるようにして村の奥へといちるを誘った。アンバーシュにはこの土地に関わる者について心当たりがあるらしかった。祭りの騒ぎを遠巻きに眺めている者たちや、人の騒ぎなど気にも止めず鼻を鳴らしている犬や驢馬などからも遠ざかる。
気配が、音が静まり、山の重みに吸い込まれていく。白い霧に、黒っぽい岩肌。天を目指すのではなく地を這う羊歯のような重い緑の木々。花の匂いよりも水の香りがする。布を被ってすり足で歩いていると、迷い込んでいるという気が強くなる。ここは下界とは違う理で動いている。貴族などという枠組みは存在せず、人の決まりよりも、ただ在るものが尊重される。ここでは思考すらも軽い。感じるものがすべてという気になってくる。
吐く息が、白くなる。
「冷えますね」
「拒まれているのでは?」
「だったら立ち入らせまいとするでしょう。ここでは彼らの方が強いんです。兆候が見えれば分かりますから、様子を見ているんじゃないかな。とりあえず、上まで行ってみますか」
馴れぬ山道に、手を引かれて行く。森の奥深くに住んでいたことはあるが、山奥は初めてだった。
アンバーシュの手のひらは熱い。
そこにある思いを考えると、特異な体質を指摘された身としては、あまり歓迎したいことでない。何をしても虚しいと思うようになってしまった。我が身を誇らしく思っていたものが、そういう体質なのだと言われれば落胆もする。結局成果は己の助けになるのだが、繋がりとはそれほど容易ではないからこそ、積み上げ結びつける価値があるのだ。アンバーシュの手すらも、このように繋ぐまでに時間がかかったというのに。
「お前がこの地の守護者ではないのか」
「俺は後から割り振られたんです。元々ここを守護地にしている者がいて、俺は上に乗っけられただけなんですよね。構うなと言われていて、挨拶する程度しか付き合いはないんですが、そういえばあなたを紹介していませんでした。不義理をしてしまいました」
古い神なのだと察せられた。気難しくなければいいが、と進んでいると、前方で甲高い鳴き声がした。鳥、大きなものを想像させるしゃがれ声だ。
「眷属が来ましたね」
霧の中に影が出来る。巨大な翼を広げた、鴉のような黒鳥が、やってくるこちらに向けて口を開けた。がああ、と鳴き、飛び立つ。その下に、黒い岩がきらめいていた。
黒い石はこの岩と緑と霧の中では、異物として捉えられた。人が立ったほどの大きさに、無数の細かな断面によって常に光を反射している。鏡のように銀色に光っていることもあれば、何も通らせぬほど漆黒に沈んでいる。これが本来の石柱様と呼ばれる神体なのだ。
――ふれて。
木霊が言った。山向こうから響くような、遠い声だった。ふれて。一言が大きくなり、耳の奥に滑り込んでくる。ふれて。ふれて。神々が下りるときに取る人の姿はなく、石のその様々な断面で、こちらの様子を見て取ろうという魂胆らしかった。
いちるは黒石柱に近付いた。美しい黒石だった。このようなきらめきを宿した黒を身につけたいと感じる、孤高の輝きだった。この石は、世から隔絶したところであらゆるものを感じ取ってきたのだろう。
触れた最初の感触は、思ったよりもあたたかい、ということだった。
途端、耳の奥にあったざわめきが質量を増した。滑り込んできていた石の声が、内側で膨張し、脳髄を叩く。石と土地の主が感じていた孤独と、人への思いと、いちるとの接触による喜びがない交ぜとなり、個人的なものも神としての達観も入り交じった混沌としたものが溢れていく。それらが、会えて嬉しい、という気持ちに集約していくと、急速に何もかもを見失う。
辺りは濃い闇に包まれている。何も見通せない深い黒。深遠のただ中に、声が降る。
――神の望みを叶える者。
――神の望みを壊す者。
――さだめを愛するときに裏切られ、さだめを憎むとき祝福されるだろう。それらすべてを経たときに、あらゆるものが新たな絆と名を与えられる。そのときを、わたしたちは長らく待っている……。
黒は溶け消え、灰色へ、白い霧へと変わる。石を踏む音はアンバーシュのものだった。いちるは無意識の内に石柱から離れ、そのすべらかな黒を見上げていた。
「何を持ってきたんですか?」
指し示され気付く。
握り込むようにして黒石を持っていた。石柱から零れ落ちたと思われる、同じ石だ。どうやら、贈ってくれたものらしい。一握りほどのそれは、手の中にあると熱を通さず冷たいままだった。声と同じ、熱のない、突き放したような印象の石だった。
(神の望み……?)
それはアガルタではないのか。大神や古神が待っているのはその地と三柱だろう。しかし、新たな絆と名を与えられるときとは、一体何を示すものなのか。
石に問うても教えてくれない。アンバーシュもそうだろう。先ほどの声は、いちるにしか囁きかけられなかった独り言なのだった。それでも道すがら、アンバーシュに伝えられたことを話すと、彼は歩きながら振り向き、いちるの目をじっと見つめた。いちるの足が追いつくほどに歩調が緩やかになり、立ち止まることになった。
「アンバーシュ?」
「何も分からないままだけれど、一つだけ確かなことがある。みんな、あなたの行方を見ている。あなたと、この世界の行く先を重ねようとしている……」
言いながら、胸の中に閉じ込められたいちるは男一人の身体に包まれるほどの身体だった。ただ、己でも知らぬうちにはち切れそうなほど何かを抱えているらしいことを、このような形で感じ取らされる。世界など、抱える身の程ではなかったはずだというのに。
「世界に盗られてしまいそうです」
アンバーシュが囁き、笑ったようだった。だからいちるは、その腕を伸べるのだった。
このまま人の目に触れるのも居心地が悪い気がし、出来ることならば二人のまま帰りたいという気持ちがどちらにもあったので、アンバーシュは馬車を呼んだ。雲間の近いところから、彼らはすぐに車を引いてやってきた。昼の光は沈んで久しく、藍色の空を星が彩っている。浮き上がった馬車は、炎が焚かれ、歌声と楽、酔いの声が聞こえている上空へ飛来した。テギアラ族の婚姻の儀式の最中だった。風が起こったことに気付いた者たちが何気なく上を見、あっと口を開けた。中には、あのアザリーの姿もあった。いちるはアンバーシュと二人、口元に笑みをたたえて手を挙げた。これがなにがしかの伝説になるのなら快いことだった。半神の王と妃を招いて手違いで返したとは、滑稽な笑い話になるだろうから。
「奇妙な休日だったな」
「今度は、ちゃんと観光しましょう。石は、首飾りにでもしましょうか」
テギアラ族は、風が吹けば正しいのだと考える。アザリーはそのように言った。ならば、天空の馬車で風を受けているいちるは、まだ間違っていないのだろう。世界は進む。今はまだ。
「わたしは誰にも奪われはしない」
アンバーシュの腕に手を添えると、うん、と男は言った。
「誰にも奪われないでいて」
いちるがこの手が包み込むのは、身勝手で卑小な、ただの半神。
アンバーシュただ一人だ。
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