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[しゃんぐりら]
身に着けているものを、いつの間にか最初にまとっていた薄物の一枚にして、フロゥディジェンマはこちらにやってきた。いちるは、贈られてきた衣類を前に顔をしかめている最中だった。
[エマ、一度、帰ル。ばーしゅニ、知ラセテクル。スグ、戻ル]
[大丈夫なのか。危険が及ぶようなことはないのだな?]
こっくり、少女は頷いた。
[多分。平気]
[多分、で送り出したくはないのだが……]
[スズル、エシュウ、付ケテクレル、言ッタ]
いちるは目を瞬かせる。珠洲流が恵舟を付けると言ったのか。あの男神もなかなか、こちらの事情に振り回されて苦労されていることだった。
だが、彼は事情を知っているゆえに一応の信頼を置くことができるはず。幼い女神に危害を加えるようなことはないだろう。
[フロゥディジェンマ女神様、それならば、しばしお待ちくださいますか。花媛殿の紗久良姫様から、アンバーシュ神にお手紙をお送りするご予定があると窺っていましたゆえ、お届けいただければ幸いにございます]
[待ツ]
いちると同じように衣を広げていた藤が、そう言って席を立つ。葵がいちるに微笑みを向けた。
「時間が出来ましたね。いちる様も、お手紙をお書きになられますか? いちる様は西の言葉も堪能とお聞きしております」
フロゥディジェンマは偽らないが、疎通が難しいことがある。この経緯を知らせるには直筆の手紙は効果的だ。東に来てすでに一日、置いてきたミザントリから事情を聞き、いちるに懐いているフロゥディジェンマの姿が見えないことで何が起こったか大まかなことを察しているとは思うが、やはり急すぎた。今頃、周囲に当たり散らすほど荒れているのは想像がつく。
葵は紙と筆記の道具を持って現れ、文机の上にかけてあった布を取り払った。いちるは久方ぶりに己の手で固形の墨を摩り、筆先を浸す。フロゥディジェンマが興味深げに覗き込み、鼻を鳴らした。墨の香りが違うことが興味深いのだろう。ほんのりと甘い、幽かな香りが立ち上る。
文様を刷り織った紙に筆で対しても、筆記は横書きで、西の文字だ。書き味が柔らかいため、常のように続け字で書くことが叶わない。一文字一文字、丁寧に綴る必要があった。
挨拶は省き、事情を話す内容になったものの、段々と不安になってきた。思えば、アンバーシュに手紙を書くのは初めてのことだった。締めの文句が思いつかぬ。案じるな、で終わっては心配しないわけないだろうと言われるのが目に見えている。相手を宥め、かつ穏やかな気持ちにさせて余計な心労をかけずに済む言葉でなければ。
[何、書ク?]
ぐいぐいと頭を押し付けるようにしてフロゥディジェンマが問いかける。無垢な瞳に見上げられ、いちるはとりあえず少し離れてくれるよう頼んだ。字が読めるか確認したことがないが、彼女を責める内容ではないとはいえ、私信は見られて嬉しいものではない。
言いつけを聞いて、少女はいちるの背中に己の背をつけて、裸足をぶらぶらさせている。床に爪が当たる、かりかりという音がする。さっさと手紙を書き上げてやらねば機嫌を損ねてしまいそうだ。しかし、締めの文句が。
(……喜びそうな、言葉は、分かる、のだが……)
それを素直に記していいものか。安易ではないのか。機嫌取り、と思われないか。
「エマは、父母に知らせるべきことはないのか」
少女の感心を逸らすため尋ねる。
[困ラセル]
いちるは瞬きをした。そして眉をひそめた。
「誰が」
[ろぅ。れむ。父、母。エマ、予想外ノ子、ダカラ]
いちるは筆を置いた。膝を揃え、向き合った。
「詳しく聞いても、いいか?」
フロゥディジェンマは首を傾ける。表情はない、目に悲しみもない。聞いてどうするのだろうと不思議がっている。
[エマ、予想外ノ子。生マレルハズ、ジャ、ナカッタ。ソレダケ]
そう言うが、そんなことがあるのか。すべての理は、大神の手の中にあるのではないのか。
「エマ」
名を呼ぶと、顎を上げて異なる方向に首を傾げる。手を伸ばし、その頭をゆっくりと撫でた。髪を混ぜるように、形をなぞるように。何度もそうした。長い銀の睫毛を羽ばたかせていたフロゥディジェンマは、しばらく首が揺れるままにそうされていたが、くっと唇を結ぶと、いちるの腰に抱きついた。ふむうと喉を鳴らしているのは、多分甘えているのだろう。そのままにして、いちるは筆をとった。
考えるための種は撒いた。後日尋ねれば、フロゥディジェンマはそこから新しい自身の思いを見出すだろう。それまではこのままにしておく。
[お待たせ致しました、フロゥディジェンマ女神様」
藤が戻ってきた。いちるは筆を立てたまま、今しばし考えたが、その時間が少ないことは明らかだった。
やがて、フロゥディジェンマは二つの文箱を抱えて飛ぶことになった。紗久良姫の用いる異界の扉をくぐり、一度地上に近い珠洲流の宮に向かってから、恵舟をつけて西島に渡るということだった。少女の小さな手のひらを抱いて、無事を祈った。アストラスの手が彼女に及ぶことがないと信じる。紗久良姫の手紙を持っているのならば、彼女は正式に東と西を繋ぐ使者だ。手は出されぬはず。
[キッサニーナの約した時間が、エマの無事を保してくれるように]
[スグ戻ル。ダイジョーブ]
抱えられていた手を、少女は自分の近くに引き寄せ、頬にやって擦り寄せた。フロゥディジェンマの頬は、桃の果のような柔らかさだった。そうして、紅の目を一度瞬きすると、一瞬にして姿を消した。後には小さな風が、消えていくところだった。
ふっと、凝っていた息を吐き出す頃合いを見計らって、藤が言った。
「では、お衣装を改める作業に戻りましょう」
いちるはまた、少し困って眉根を寄せた。
紗久良姫からいちるの着替えが贈られていた。打掛もあれば、重ねるための単衣もある。紗久良姫は単衣を重ね、緋袴を履いていたが、これは地上では高貴な人間が祭事などに着用するもので、普段着にするには時代遅れだ。いちるはかつて威光を示すべく好んでこの型を身につけたが、身軽さで言うなら、打掛姿が最も楽だった。
しかし、花媛殿へ招かれるのならば、楽だからという理由で選んでは無礼に当たる。それは、揃えられた衣装に、単衣が多いことからも明らかだった。紗久良姫は、いちるに己と同じように身支度をすることを望んでいる。
秋にふさわしい美しい朽葉色、黄金、銀の色。青紫。文様は、紅葉や菊。これからの季節に向けての、白や茜、紫。雪や水仙など冷たい季節の花の文様が描かれている。秋冬の衣装が櫃に入れて運び込まれ、銀珠殿で最も広いはずの間はまるで小屋のように見えてしまう。何故に高貴な人々は、このように衣装を贈るのが好きなのだろうといちるは嘆息した。義兄オルギュットもまた、いちるに山ほど衣装を送りつけてきたことがあった。
「明日の登殿は、紫紺の衣に致しましょうか。紗久良姫様は赤、満津野姫様は青、燐姫様は黄色をお召しだと思われますゆえ」
「丸紋のものですわね。明日はそれでいいとして、神在の儀のものはいかがいたしましょうか」
「神在の儀とは……神々がお集りになられる秋の会議のことでよろしかったか」
各地を守護する神々が一所に集まるひとつきがある。神山がある周辺ではその月を神在と呼び、他地方では神無といった。神在、神無の月には、神山の麓にある神域に詣で、願掛けをする習慣が地上にある。
いちるの無知を花姫たちは笑わなかった。然りと頷き、説明を始める。
「はい。一年のことを話し合うために、各地の神々が神山に集う、そのことです。また、紗久良姫様は、花を司る女神であらせられると同時に、豊穣を司る御方でもいらっしゃいます。ゆえに、各地の神々が紗久良姫様にご挨拶に参られるのです」
「何よりもわたくしどもが楽しみにしておりますのは、花媛殿に女神が集い、露台から御簾越しに、男神の行かれる様を拝見することですわ。そうでなければ、三女神にお仕えする花姫を初めとした眷属女神たちは、男神に近付くことすら許されないのですもの」
この層は男子禁制なのです、と葵は言った。なるほど、この空気の清浄さは、男神の不在が一端であったらしい。姿は見えないが、武器の所持を許された武人の女たちがいて、ここを守っているのだろう。
この領域は、紗久良姫の世界。古い神の取り決め通り、神々は人に交わることもなく、神々同士が縁付いて新たな神が生まれることすら稀なのだ。だから、葵の言うような行事が女神たちの楽しみになる。恐らくはそこで、許された者だけが結ばれる。
「だから、いちる様のことが羨ましゅうございます。きっと、姫神様方もそれについてお聞きされることでしょう」
いちるは首を傾げた。
「羨ましい? どのことが」
「西の神に求められ、嫁がれた東の娘。そのように皆が言っております。西の神に請われて婚姻を結ぶなんて、とても素敵ですわ。きっと熱烈に愛されていらっしゃったんでしょう?」
「これ、葵。失礼な」
年上の藤がたしなめる。葵は年下の愛嬌で肩をすくめると、いちるが呆れて目を大きくしているのに向かって身を乗り出した。どうなんです、と尋ねられても、どうなのだとはこちらが聞きたい。何を持って『熱烈』と表するのか。女官三人の顔を思い浮かべ、彼女らがどのように評価するのか想像してみると、所構わずだとか、周囲を見ていないというようなことが浮かび、いちるは唇を結んだ。葵は、深く頷いた。
「その様子なら、間違いなさそうですわね」
「葵、本当によしなさい。……でも、恐らく姫様方も眷属たちも、その辺りのことをお聞きになると思います。婚姻は、女神たちにとって憧れですもの。お覚悟をいただいた方が、よろしゅうございますわね」
いちるは言葉を挟まず、衣を撫でる。
(……今頃、アンバーシュは何をしているだろう)
手紙ではなく、己を運んでいけたらと思うが、それでは身の危険はそのままに、我が身が狙われたままなのだから無理な話だ。
思えばあの男も、いちるに衣を贈ったのだった。耳飾りも冠もいちるのものになったし、黒い石で首飾りを作ってもくれた。花嫁衣装は当然己のものだし、その他、瞳に色に合わせた衣装を仕立てている。記憶よりもしっかりと贈り物をされていることに、いちるはほんのりと口元を緩めた。その一つも持ってきていないのが、僅かに寂しい。
(耳飾りくらいは、常に着けておくべきだったか)
東の衣に、西の金の飾りを着ければさぞかし風変わりな装束になっただろう。耳元に揺れる重みに、いちるの性根も今よりは据わったに違いない。
自分が不安であることに気付く。思ったよりも、ヴェルタファレンに居場所を作り上げてしまっていた。ここでは、また、自分は何者でもないのだ。ただのいちる。なれども、アガルタと呼ばれる何者かである存在。
しかしそれよりも、紗久良姫の呼んだ「アンバーシュの妃」という言葉を思い返す自分は、その呼び名を心に取り込んでしまっているのだろう。
出来ることなら、女神たちに語るアンバーシュという男が、彼女らにとって良き印象になるよう、心を尽くしてみようと思った。
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