第十九章
 紅雨、召されし君 こうう、めされしきみ
<<  ―    ―  >>

 薄暗い視界に光が差す。銀の光線。ゆっくりと闇を晴らす彼の輝き。思いを捧げた人が、横たわった自分を覗き込んでいる。少し怒ったような無表情を見て、私はそんなに具合が悪そうに見えるのだ、と思わず微笑んだ。心配されるような身ではないはずなのに、嬉しかったせいだ。
 オルギュットはそれを見て口を綻ばせる。
「思ったよりも具合がよさそうで安心した。それとも、笑うしかないほど悪いのかな」
「今日は、とてもいい気分です。夢を見ましたので」
 昔の夢を、と枯れた声で囁いた。
 まだ、イバーマに奴隷がいた頃。レグランスはその流れを汲む一族に生まれ、生まれる子も孫も、奴隷になることを宿命づけられていた。高貴な人々は奴隷を世話係や側仕えにするが、街に溢れている者の多くは、人がやりたがらない仕事をするために生かされていた。汚物の処理や、薬や医療に関わる実験台、あるいは特殊な嗜好を持つ人々に傷つけられ果ては殺される。幼い子どもや娘たちは欲望を果たすために使い捨てにされ、父母が言うには、レグランスは喋れるようになった頃から、そういう目的を果たすために売り物にしようと考える者がまとわりついていたという。
 壊れかけた石の家に、父母と弟妹たちと住んでいた。暖炉なんて贅沢なものは使えず、夜は家族で身を寄せ合って眠った。織物の工房で働く母はつんとした草の香りがして、農奴隷だった父は汗と土のにおいがした。
 十歳の時に、人さらいに遭った。女衒だった。しかし変わった商売人だった男は、攫ってきた子どもたちに数多くの習い事をさせた。一人減り、二人減りする子どもたちは、残った者の間ではどこかの娼館に売られたのだとか、夜鷹になったのだとか噂した。食べ物、着るもの、暖かい暖炉、それらは自分たちの才能の上に成り立つものだと気付き始めて、誰もが必死に食らいついた。戻ってきた女衒は、それぞれの子にふさわしい主人を見つけて高額で売った。彼女たちは、恐らく奴隷の中では幸せだったのだろうと思う。
 レグランスが売られたのは、とある高貴な女性のもとで。
「レアは還ったようだ。曖昧な形で留まっていたが、残っていたものがすべて消えたのを見届けた」
 かつての女主人の名を久しぶりに口にするオルギュットは、前妻の死の事実を淡々と口にした。仕方のない人、とレグランスは目を細める。そうでなければ、彼は深く傷ついただろう。
 私がその時を迎えたら、この人はその事実を、平坦に口にするだけだろう。
 そう願っている。
「思念だけが、首飾りに留まっていらしたのでしたね」
「そう。それを解放したイチルの巫女としての才能には目を見張るものがある」
 魔眸と呼ばれるものどもは、神々の手で処分される。そのようにして、神は人を守護するのだ。固着した強い思いは、時を経て魔に変ずることもあり、かの女性もいずれは異眸の瞳を持って影から形を得てしまうはずだった。それが歪まずにここまで保ち、ついに正しい流れに還ることができたのは、彼女が宿っていたのが、水の女神の首飾りだったからだ。
「千年姫様には、お手紙のお返事を、書けていないことが心苦しいです……」
「伝言があれば伝えよう。まあ、今は少し立て込んでいるようだが」
 レグランスは、予感が滑り込むようにしてやってきたのを感じた。
 ずっと待っていたようで、来るはずがないと信じておらず、けれど忘れたことなど一度もないその時だった。
 ――変化のときが始まる。
 オルギュット様、と呼びかける声は、想像していたよりも落ち着いていた。
「どうぞ、私をお使いください。その時のために、私は永らえたのです。最後まで、あなたのお役に立ててください」
 オルギュットは唇の端で微笑む。喜びの感情で浮かべていないことは明らかだった。
「何がどうなるか知りもしないというのに、軽々しくそんなことを口にしないでもらいたいな」
「では、お誓いします。あなたのために命も魂も燃やし尽くすことを、私は厭いません。元々長くはない命でした。あなたの大事な子どもとともに私は、」
「レグランス」
 手を打つようにして遮られる。
「私はその償いをしろと言ったか」
 光に縋った自分。凝った闇を飲み込み、生の正しい在り方から逆らって留まろうとした愚かな私。犯してもそこにいたかった。あなたしかいなかった。
「忘れないでいただきたいのです。私には、もうあなたしかいない。子どもも流れた。家族もとうにいません。あなただけです。あなた様が心残りだから苦しい。だから、あなたのために何もかもを尽くして消えることを望みます。死の国の番人の御方、もしも私に報いてくださるのなら、どうぞこの願いを叶えてください」



     *



 藤の案内で麗光殿へ向かうと、前方からフロゥディジェンマが飛び出してきた。後から「女神様!」と追う声がして、大慌てで衣を持った花媛たちが飛び出てくる。無理もない、少女は小さな膝をむき出したまま、肌着一枚で出てきたからだ。さすがの藤も目を丸くしているが、彼女をすり抜けて、フロゥディジェンマはいちるの胸へ飛び込んできた。華奢な腕をいっぱいに広げて抱きしめてくる。
[オハヨウ!]
「おはよう、エマ。よく休めたか?」
[スズル、遊ンデクレタ]
 弾んだ様子で言うところを見ると、ずいぶん楽しんだらしい。その珠洲流の所在を尋ねると、後から来ると言ったそうだ。それまでに着替えを終えさせようと、彼に仕える女神たちは必死な様子でこちらを見ている。
[ばーしゅ、ドウシタ?]
「もう少し寝ていろと置いてきた。よっぽど疲れていたようで、ろくに反論せずに二度寝したよ」
 ことりと少女が首を傾ける。
[機嫌、直ッタ?]
「アンバーシュがか?」
[手紙ダケ、楽シソウ、ダッタ。後ハ、ズット、怖カッタ。イライラ。カリカリ。ツンケン]
 身体も精神も疲れているならそうなるだろう。余波を受けた、エルンストやセイラたちからは、後から山ほど苦情が来そうだった。いちるはアンバーシュの傍らになったクロードを思う。大神によって死に向かわされることがなければ、今頃彼はアンバーシュをよく助けただろうに。
(後で、ミザントリのことを尋ねなければ)
 置いてきてしまった友人を思い浮かべ、とりあえず、冷たい風に晒されないよう少女を室内へ入れた。
 花媛たちの苦労といちるの説得で、フロゥディジェンマは服を着ることに納得した。それでもずるずると重いものは好まぬだろうと、袴を着せて羽織ものをさせる程度にしてやる。それでも一番上の衣が長いのでやはり引きずることが気になるらしく、あっちに行ってはずるずる、こっちに行ってはばさばさ、と落ち着かない。おいでと手招きすると、ようやく膝の上で静かになった。
 珠洲流の訪れが告げられる。
 黒髪の青年神に、いちるは座したまま目礼した。フロゥディジェンマがいることを目にとめて、珠洲流は口やかましく言わなかった。人払いさせて、溜め息する。
「お相手いただいたと聞きました。ありがとうございました」
「役に立ったなら何より。紗久良姉上もお喜びになろう」
 尖った物言いは彼の心労を表している。いちるは微笑んだ。
「幼子の相手は、働き者と称される生真面目な男神には荷が重かったご様子」
「お前と変わらぬ。幼子とは言わん」
 いちるの膝に頭を置いて、丸まるようにしてフロゥディジェンマは目を閉じている。会話は聞いているだろう。だが、心に留めておく必要がないと判断しているのだ。
 薄紅に反射する銀の髪。粉雪のような銀の睫毛。白い頬は果実のような産毛に覆われて、触れれば柔らかく指を押し返す。艶めいた唇は傷など知らぬよう宝石のように美しく、零れる息はそよ風のようだ。その身体の持つ熱が伝わり、つい手を伸ばして髪を梳いてしまう。すりつけられるように身じろぎされると、愛おしさが込み上げた。
「望まれず生まれたとは信じられない」
 珠洲流が不意に言い、いちるは目を上げた。知らぬのか、と問われ、何がと思い眉を寄せる。
(否、そういえば)
 予想外の子、という言葉を聞いた。他ならぬフロゥディジェンマの口からだ。強ばった身体に気付いて少女が目を開ける。
「それは、大神が予想し得なかった存在だということを示しておられるか。彼女の口から聞かれたのか?」
「どちらも。彼女は神々の予知外として生まれ落ちたそうだ。本来なら、光の神狼フェリエロゥダも、豊穣の女神クシェレムローズも、子を持つことはなかったらしい。そのせいか、生まれ落ちたときから強大すぎたゆえにどの神も持て余していた、と本人から聞いた」
 よく会話が成り立ったものだ。フロゥディジェンマも伝えることを投げ出さなかったし、珠洲流は根気強くよく聞いたようだ。
「幾人か守役がついたようだが、アンバーシュのところに落ち着いたと。あの男、顔と喋り方を聞いていると忘れがちだが、そういえば先陣を切って我らと戦っていた者だった。ただ者とはいかんだろうな」
 そう言って珠洲流は溜め息した。
 いちるを西神に差し出した窓口になっていたのが、確か彼の遣わした昴という仙女だったが、その時は東神とは傲慢な、と思っただけだった。しかし、イバーマまで来たことといい、様子を見て滞在していたことといい、珠洲流という男神は、想像する以上に人好きのする、人間味のある神なのかもしれない。
「アンバーシュの滞在に御援助くださったのでしょう。御礼申し上げます」
「縁が繋がってしまったのだ。不本意だが、仕方あるまい。現状、この神域外の事情に通じているのは、私以外には数少ない。姉上方の考えも読めぬ今は、使われている方が手がかりを得よう。そう願う」
 衝立の向こうで珠洲流が呼ばれる。阿多流が彼に用があるということなので、礼を言って辞することとなった。すぐに起き上がったフロゥディジェンマに、珠洲流は目を和ませた。
[その衣、よくお似合いだ。贈らせていただこう]
[アリガトウ!]
 ぱっと表情が華やいだのは気のせいか。いちるの手を握っていたが、フロゥディジェンマは振り返って手を振った。珠洲流も振り返した。知らぬ間に不思議な繋がりが出来たらしく、喜ばしく思うべきか思案するいちるだった。
 またもや藤に先導され、今度は銀珠殿へ戻る。
「珠洲流が気に入ったようだな?」
 頷きが返る。
[似テル。しゃんぐりら]
「わたしと? ……黒い髪、黒い瞳だからではないか」
 アンバーシュの言い分を聞くに、東者は西と顔かたちが異なるので見分けしづらい、判別に慣れないのだという。それでもアンバーシュがいちるの美醜に判断を下せたのは「単に好みだったから」だそうだった。それこそ嘘か真か分かりかねるのですっかり忘れていた。
 気付けば、少女は不安げな目を真っ直ぐに向けてくる。
[エマ、しゃんぐりら、大好キ。しゃんぐりら、エマノコト、大事、シテクレル。呼ンデクレル。撫デテクレル。ダカラ、守ル]
 少女はいちるの手を小さな手で握った。
 いちるは、藤に向かって少し遅れることを身振りで示し、先に行くよう目配せをする。その上で、そこに膝を突き、少女と同じ目線を得た。

 朝の風が、太陽の光を受けて香る。少女の銀の髪が、美しい赤がね色を帯びている。

[エマ、生マレル、ハズ、ジャナカッタ。エマ、ハミダシモノ。ろぅ、れむ、困ッタ。居場所、ナカッタ。ばーしゅ、モ、困ッテタ。エマ、モ、ドウスレバイイ、分カラナカッタ]

 手は、少し湿っている。熱く感じられるのは、握りしめていた手に力を込めるせいだろうか。
 生まれるはずでない神などこの世にいない。西神の理ならば、座という役割を持つ者が生まれてくるからだ。だが、フロゥディジェンマは真実以外を口にすることはない。ならば彼女は言葉通り、誰にも望まれずこの世に現れたということになる。守護すべき土地も、司るべきものもなく、神狼の後継とだけ名付けられたフロゥディジェンマ。
(由縁を持たぬ者……この子も?)
[デモ、今、シタイコト、アル。しゃんぐりらヲ、守ル。出会ッタ時、分カッタカラ。しゃんぐりら]
 いちるは目を見開いた。
 エマが、笑っている。目元を和ませ、唇が弧を描き、微笑んでいる。

[貴方ガ、私ノ、オヒメサマ!]

 飛び込んできたものに目を見張る。
 そして、首を振る。笑みがこぼれた。柔らかい銀の髪を梳り、その毛先が光を零しても。果実のような紅の瞳が真摯な光を宿しても。少女神の、崇高な心を、気高い思いを受け取るには、いちるはただ人に過ぎない。誰をも損なってはならない。死すら遠ざけられる光の神狼の娘からこのように思われていたとしても。
 だからこそ、この子を失ってはならないのだ。
「だめだ、エマ。きっとそれは、わたしではない。わたしは、何者か分からないのだから」
[分カッテナイ、しゃんぐりら]
 笑顔のまま、不明確なものを、自信たっぷりに言う。
[エマ、ハ、誰ニモ分カラナイコト、分カル神、ダヨー]

<<  ―    ―  >>



―  INDEX  ―