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 暁の離宮は、代々妃の位に相当する女性に提供される部屋である。その部屋付きの女官になることは仕事を認められた証であり、また先王の時代には、愛妾となる可能性を秘めた、卑しからぬ出自の行儀見習いたちにとって最大の好機の場であったという。
 アンバーシュ王の治世が始まって、三百余年。王は正妃を迎えたことはないものの、しばらくは、部屋を与えられることは女の栄誉であるという物語は崩れ去らずに存在していた。その風向きが分かったのは十年前。
 ジュゼットはその詳細をよく知らない。先輩にあたるネイサも、噂ではこういう感じ、という程度にしか聞いたことがないようだ。
 城で語り継がれる十年前の事件。
 要約すると、暁の離宮のひとは何らかの不興を買って城を追い出され、以来、離宮は女の墓場になったという悲劇、なのだそうだ。
 以降、離宮にやってきた女の誰もが短い期間に城はおろか街をも後にしている。そうして、離宮に配属された女官は出世街道を外れたも同然という見方が広まっていった。離宮の人は愛妾となる機会はあるものの、一時の栄華を誇ったその後の失墜を恐れる者が多い。果たして、セイラ・バークハードの栄光はいつまでか。その後釜に座るのは。
 ……というのが娘たちの共通認識だったのだが、そのアンバーシュが婚約者を連れてくるという知らせを受けて、にわか色めき立った。
 才媛と名高かったレイチェルを筆頭とし、ネイサとジュゼットを配属した女官長の人事に、しかしジュゼット本人は首を傾げた。ネイサはいいとしても、失敗だらけのジュゼットに何故暁の離宮、それも見たこともない異国の女性の世話を任せるのか。
 問いかける時間もないまま、離宮の主が外出し、レイチェル、ネイサ、ジュゼットは部屋を整える仕事に追われた。久方の住人を迎えることで、一応の体裁は整えたものの、お世辞にも完全に行き届いているというわけではなかったためだ。
 そして、恐ろしいことにそういうところを新しい主は見抜いているのである。
「ちょっと、時間が足りないんだから! 同じ棚いじってないで次行きなさいよ!」
「だって、ネイサ! あの方、着替えの最中、じーっとこの棚見てるんだよ!? あれ絶対気付いてた! この棚の飾り板が一枚だけ違うの、絶対気付いてたよ!」
 棚の飾りにあるはめ込みは、実は最初のしつらえとは違うものだ。正しいものをジュゼットが派手に汚したために、修繕に出していたのである。それを慎重に、何事もなかったかのように設置し直すには、ジュゼットにとって細心の注意を払う必要があった。
「あはは! まさかぁ。そんな細かいところ気付くわけないでしょ!」
「元はと言えばあんたたちがー!」
 本宮から手伝いに駆り出されてきていた同僚たちに叫ぶが、彼女たちはどこ吹く風だ。仕事の速度も緩みがちで、他の部品を損なわないよう手を震わせるジュゼットの必死さを笑っている。
「細々した嫌がらせをしすぎなの! この飾り板とか、お茶碗のひとつだけが微妙に違うとか、部屋履きが濡れてるとか! 必死になって隠してるこっちの身にもなって!」
「飾り板はあなたの不注意でしょ。あたしはぁ、大声を出して脅かしただけ!」
 けらけら笑う声に、似たような笑い声が続く。
「だって、あのアンバーシュ様にお妃よ? 『事件』の後にあの方がそんな気持ちになったなんて、そりゃ何か理由があるんだろうけど、わたしがそのお妃様候補について聞いたのは、ネイゼルヘイシェ夫人の格好で大臣の前に出たっていう奇行なんだから」
「私、すっごく髪が長いって聞いた。大蛇みたいだって。ほんと?」
「長いわよ。身長よりも長い」
 ネイサの返答を聞いた女官はうげっと呻いた。
「きもちわるーい」
「そんなこと言っちゃだめ! 聞いてるかもしれないんだから!」
 ジュゼットの剣幕に、さすがに三人は不快な顔をした。
「まさか。馬鹿なこと言わないでよぉ。ありえない、ありえない!」
「あんたたちあの方にちゃんと会ったことないでしょ。見たら一発で分かるよ。『ああ……このひと、何人か殺ってるな……』って!」
「ジュゼット、あんたの発言も暴言だから」
 ネイサが冷静に諌めるが、ジュゼットは身体を震わせるあまり聞いていなかった。
「もんのすごいまっくろくろの、鴉か常闇かって目で、じーっと見られてみなさい。見透かされるみたいでぞーっとするんだから。なまじ綺麗な方だから、ちらっと笑った唇の赤さなんて、ほんと、魔物めいてて……」
「クロード様は、普通の方じゃないからって仰ってたよね。それって人間じゃないってことでいいの?」
「でもさでもさ、綺麗かもしれないけど田舎の女なんでしょ? 食事の作法も知らないって聞いたけど」
「それは仕方がないって! 私たちだって東の食事作法なんて知らないんだから」
「めずらしくジュゼットの勝ちだわ」
「めずらしいってなによネイサ!」
 何かと負けることの多いジュゼットを全員が笑った。ちょうど本宮の女官長との会議を終えて戻ってきたレイチェルがちょうど通りかかり、「仲がいいこと」と呟いて整え終えた部屋の点検へ向かっていく。
「そうなると、ミザントリ様はどうなるのかしらね。あの方、候補の一人だったでしょう」
「イレスティン公爵家のミザントリ様かあ。あの方が王妃になられた方が平和だったよね。適齢期の姫君方では、家柄も性格も教養も一番だし、私たちの仕事もすっごく楽だったにちがいない!」
「でもアンバーシュ様が満足しない気がする……」
 誰が言ったその一言に、しばし沈黙が漂った。
「……ミザントリ様は、穏やかで慎ましい方だしね……」
「バークハード騎士団長を愛人にするんだから、ミザントリ様が王妃だと絶対に浮気しそう」
「ああ、それ絶対ある。絶対」
 低い声で苦笑いを浮かべている若い娘たちは、その中で十年近く勤めている一人が、息を詰めて黙り込んだことに気づいていなかった。
「そういえば、本宮の子が、休みだから街に行くって言ってたよ。もしかしたら陛下に会ったりしてー」
「さすがに会わないでしょう。ここは主都よ。そんな偶然があるとしたら、姫様はよっぽど運があるのよ。『持ってる』ってやつ」
 ネイサは言い、ジュゼットはなんとなく想像してみた。
「私、出くわしそうな気がするなあ……。それで結構な騒ぎになりそうな……」
「ジュゼット。馬鹿なこと言ってないで。レイチェルさんが呼んでるわよ」




「ねぇねぇ、アンバーシュ様の行かれたところ聞いてないの?」
「でも見るところって大体決まってない? 女子ども連れて出掛けるっていったら、普通買い物でしょう」
 東と南のちょうど境に当たる通りは、比較的上品な商店の並ぶ地区だった。この辺りにはすでに道に石を敷いて舗装してあり、馬車が行き交っても派手に砂埃を巻き上げられずに済んでいるし、水を撒いていないから、泥で服の裾が汚れない。一の郭からやってきた貴族の子女たちの姿も見られ、二の郭にいる武人たちが、休日の散策に降りてきている。彼女たち二人に気付いて、彼らは意味ありげな目配せを送ってくるが、二人は微笑みながらつんと顔を背けた。王宮勤めの自分たちに、尉官の低い男は不相応なのだ。
「変に白い肌で、真っ赤な唇で、とぐろ巻くくらい長い髪なんでしょう? まだ全然見たことないけれど。そんな変わった見た目に、ネイゼルヘイシェの格好をするなんて、本人はアンバーシュ様との結婚に納得してないんじゃないの?」
「納得なんてしてるわけないって。東神の生贄だって誰かが言ってたもん。向こうでも嫌われ者だったんじゃないの」
 やだぁと口では言いながら相反する顔をして笑い合う二人は、布地屋の前まで来て硝子窓を覗いた。上の郭に住んでいる人々を相手にする店だから、色とりどりの布が並ぶ店内が見えるよう、透明な窓は大きく取ってある。他の店も似たようなもので、帽子の店や糸の店の前で、娘たちが足を止めている。
「……あらっ」
 と、一人が声をあげた。
「あれ、本当にアンバーシュ様じゃない?」
「え!? どれどれ!」
「ほら、あの女の人。この辺りの人じゃないでしょう。噂の暁の離宮の方じゃないの?」
 彼女が見つけたのは琥珀髪のアンバーシュではなく、噂し合っていた女性らしき人だった。頭の上で巻いてあるあの髪はつけ毛だろうという重量なので、まず間違いはなさそうだ。
 二人は顔を見合わせ、意志が共通しているのを確認し合い、その扉を開けることにしたが、先手が誰かというところで数秒悶着してしまった。

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