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 ようやく会談の切れ端を見つけ、いちるは足を止めた。穏やかな森の降り注ぐ木漏れ日に、後ろ手を組んで小首を傾げるイレスティン侯爵令嬢は、それだけ見れば水彩画のように淡く優しい。
「どうしてわたくしの招待を受けたのか、聞いてもよろしいでしょうか?」

 周囲の地脈に聞いてしまったのは癖のようなものだ。人の気配を察知するのではなく、周囲の木々や空気や土のささやき声で状況を拾うことができるいちるは、周りに何者も潜んでいないことを感じ取る。ミザントリの追従たちが交わす声が耳に届く…………。


「ミィ様、大丈夫かしら? あのひと、すごーく恐いんでしょう?」
「机を叩いて怒ったりするって、聞いたことがあるわ。食事もまずいから下げろって言ったとか」
「ミィ様が懲らしめてくださるわよ。ふん、あんな派手な色を着て、私たちより目立とうたって、私たちに睨まれれば生きていけないって、思い知らせてやらなくちゃ」


 …………さて、小雀たちが交わす中身には誇張された噂も混ざっているようだが、ではミザントリはいちるを牽制するためにこのようなことを言うのか。けれどいちるの目に映る緑の瞳の可憐な娘は、彼女の権力を追い従う少女たちの印象とは裏腹に、もっと腹に一物抱えた賢しい女だと見える。
 ならば「懲らしめてやる」というのは人を遠ざけるための方便か。ミザントリが何を求めているのか読み取ろうと、いちるは口火を切ることにした。
「この国の未婚女性の中で、あなたが最も支配力を持っていると聞きました」
「そうかもしれません。でもそれはあなたが来る前の話。妃候補から落とされたせいで、多少なりとも被害を被ってしまったわ」
 嘘だと分かったので、笑うことで流した。
「いやですわ、本当のことです。かすかな王宮への伝手が分断されてしまったのですもの。簡単に登城することは出来なくなってしまったから、とても困っているのです」
 ねえ、と彼女は言う。
「わたくしが招待状を差し上げたのは、わたくしの親切心からということをお知りになってね。わたくし、とても心配しているのですわ」
「アンバーシュの膝元なのに?」
「陛下のお膝元だからこそです。暁の離宮に、以前お住まいだった方がいたことはご存知でしょうか?」
 いちるは慎ましく微笑んだ。
 内心は、当たりを得たという感触でほくそ笑んでいる。表には出さない。そのように運んだのだから当然の成果だ。
 知っているとも知らないとも答えず、戸惑いを隠すような微笑みで、沈黙を持ってミザントリに対する。可憐な侯爵令嬢は満面の笑みで、害のない小動物のように首を傾げた。
「取引をしませんか?」
 うす桃色の唇からは到底出るとは思えない陰気な囁きだった。
「あなたの知らないことをわたくしは知っている。あなたはお部屋をお城に持っている。わたくしは自由に城に出入りしたいのです。そのためだったらあなたに情報を開示してもいいし、他の方にあなたの評判を流すこともできますわ」
「城に何があるのですか?」
「憧れの方がいるのです」
 存外素直に答えたのは、いちるが普通の女子のように恋愛事を喜ぶと判断したからかもしれない。理由としては妥当なところだ。城に行かなければ会うことができない何者かというのが気になるが、これはそのうち、暇になった頃に調べてみればいい。
 思考を巡らせていたいちるは、続けられた言葉に不意をつかれてしまった。

「だから……わたくしを、『お友達』にしてくださらない?」

 単語を聞き間違えたのかと思った。
「……お友達」
「お友達です」
 協力関係とか利害一致というのなら、もちつもたれつだとか共犯だとかいう表現を用いぬのだろうか。
「……あいにく、西の言葉はまだ不慣れです。『お友達』とはどういうものか聞きたいのですが?」
「東では違いますの? わたくしが言うのは、目的のために情報交換をしたり、協力したり、たまに作戦会議と称してお茶会をしたり、状況を打破するために作戦を立てようと突然押し掛けて食事を一緒にしたりする、そういう『お友達』です」
 それは共犯と呼ばないのか。細かな言葉がまだ分からないいちるは、とりあえずその場は流すことにして、ミザントリの出した条件を短い時間で熟考した。そうして、別段得はないが損もない、現状は同等ほどの条件だろうと結論付けて、頷いた。
「よく分かりました。それならばわたくしも異存ありません。わたくしとあなたは協力関係を結ぶ。何かその証が必要でしょうね」
 いちるは襟につけた真珠の留め具を外し、ミザントリに差し出した。
「お取りなさい。『お友達』になりましょう」
 ミザントリは笑みのまま、そのように形作られた人形のように留め具を受け取った。
 だが次の瞬間、いちるの手首に牙をむいた。弾かれたように手を引いたが、ミザントリの右手はいちるの手を掴んでいる。直後、笑う声。
「あははは! おかしい! 変わった方ですね! こんなものを与えられて喜ぶほど、わたくし落ちぶれてはいません。こういうときは、こうするのです」
 手首を握った手は、もう片方を添えながら、手のひらへ。手袋に包まれた小さく柔らかい両の手がいちるの右手を挟み込むと、強いが心地よい力できゅっと握られた。
「はい、握手!」
「…………」
 どう、反応していいのか。
 しかしミザントリはまったく気にしない様子で笑うと、歌を口ずさみながら機嫌良い様子で歩き出した。これは反応しなかった方が正解なのか。でも、相手を見くびってしまったことは、分かる。
(格下に見た振る舞いをしてしまったか。機嫌を悪くしている様子はないが……どうしたものか)
 考え込むいちるを、急に彼女は振り向いた。
「でも、本当に変わった方。噂とはずいぶん違うみたい。わたくしが聞いたのは、東の地でアンバーシュ様をたらし込んだ妖女、ということでしたわ。でも、別にアンバーシュ陛下を愛していらっしゃるわけでもないのですね」
 いちるは眉を跳ね上げる。
「どうしてそう思うのです」
「だって、もしわたくしの言う『憧れの方』がアンバーシュ陛下だったらどうするのです?」
 さすがに、これはしくじったと自覚せざるを得なかった。
「ご安心くださいな。アンバーシュ陛下ではありませんから」
 ミザントリは楽しげに声を高くして笑う。なるほど、さすがは高貴な娘たちの筆頭。己が認識の甘さに内心舌打ちをしながら、ある意味心強い味方を得たのも確かだった。
「噂を聞いているのなら、わたくしが恐ろしい女だということは聞いていないのですか?」
「そうですねえ……さすがに千年生きる人間はいません。そういう方々はみんな、神かそれに近しいものに召し上げられるものですから。あなたは東神の血を引いているわけではないのでしょう?」
「ええ」
 確かめようにも幼い頃に母は亡くなり、十七、八で見た目の成長が止まってしまってからは一人で生きていた。年齢も数えることを止めて、今は大体二百五十は春が巡ったかという程度にしか記憶がなく、そこまで月日が経つと周囲に事実を確かめることは不可能だ。生きる術を身につけてからは困窮することもなくなったために、いちるの中では出自はすでに重きを置いていない。どうしてこのように生まれたのかという過去何度繰り返した問いも、最近ようやく思い出したくらいだった。
「不思議な力を持っている方はだいたい神々だったり、その血を引く方々です。わたくしの知人にもいないわけではありません。もちろん、筆頭はあなたですけれど。そういえば、どういうことができるのですか?」
 興味本位そのものの目で語りかけられる。いちるは嫌な顔をしたのだが、ミザントリは弾んだ声で問いを畳み掛けてきた。
「お友達ですもの。わたくしたち知り合って間もないんですから、お友達のことは知りたいですわ。陛下のように雷を操れるの? それともクロード様のように変身できるの?」
 恐い者知らずの調子に、そろそろ痛い目を見てもらおうとした。

「――――!」

 頭の中に直接鈍器がぶつかったような痛み。覚えがある感覚に、いちるは膝を折って倒れ込む。

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