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ロッテンヒルから西へ下った、湖沼地帯。大河のただなかにある小さな島の館に馬車は停まった。水の流れる低い音が満ち満ちて、月の光は水面に青ざめている。船着き場が造られているが、船はなく、館には明かりも人の気配もない。
いちるの言葉を聞き入れたのは意外だった。
馬車は、城とは逆の方向へ走った。強情に帰還するかと思ったのに、彼は馬車を別のところへ駆けさせたのだ。
アンバーシュが内部に足を踏み入れると、一斉に明るくなった。そこかしこでかすかな気配がする。目に見えぬ神の眷属が、どうやらこの建物を管理しているらしい。床に埃はなく、窓も磨かれていた。
後ろをついて歩く必要はないように思われたが、勝手をすると言い合いとなることが分かっていたため大人しく従う。そう、ここに向かうと言われることも、その後も、二人の間には一言もなかったのだった。
広い一室に入る。いちるの背後で静かに扉が閉まった。
内装は、巨大の言葉に尽きた。広さも、天井も、必要ないと思えるほどに大きい。城の謁見の間ほどの規模がある。そのため、寝台や机と椅子といった家具が、ままごとめいた違和感で据え付けられている。何の力か、道具もないのに手の届かない中空に無数の蛍火が灯っており、均等な蔓薔薇を描く床の輝きが眩しい。簡素すぎるが、趣味のいい部屋だ。何もなさが心地よい。
アンバーシュは寝台に上着を放った。疲れたように後頭部を撫でる。髪が翼を畳むに似た音を出した。
いちるは、きっかけを作ってやらなかった。黙り続けて、疲れてきたので椅子に腰を下ろそうと考えた。これでも大骨折の治癒直後なのだ。
「座ってもいいですが」
アンバーシュが睨んでいた。
「話があります」
[聞こう]
腕を組む。こう言われて座ることができないのが惜しいが、仕方あるまい。手が届かない距離でなお見上げねばならないアンバーシュの顔をとくと見る。
「何故あんな真似をしたんです」
[複数ある。寝所に忍び込んだことか、耳飾りのことか、それとも魔眸のことか]
「どうして、己の身を危険にさらすようなことをするんです」
問いを訝しく思った。これは心配か、それとも何か別の怒りの原因なのか。
[己が所有物に勝手されるのは気に食わぬか]
手が伸び、いちるの顎を掴む。
「っ!」
強制的に上向かされ、険悪に、青の瞳が白く光っていた。
「誰が、そんなことを言いました?」
地鳴りを思わせる低い、怒りの声。喉が潰されるほど握られてはいないが、声と目の温度に言葉を刹那見失う。
いちるは抵抗を試みて、ようやく、自分がかなり危機的な位置にいるのではないかと疑い始めた。ここは他の者たちがいる城ではなく部屋でもなく、アンバーシュの私的な館で、何を叫んでも聞きつけて飛んでくる者はない。いちるに逃げ場はない。
男は目を細くする。
「耳飾りはどこから持ってきたんです」
[……エマが持ってきた。あの子が隠していたらしい。あれがあると争いの元だと考えて秘匿していたのだと言っていた。……無垢な神を苛んだうぬらの不徳を恥じよ]
姪の名前が出たことにアンバーシュはわずかに顔をしかめた。
[エマは妾たちが婚姻関係を結ぶことを望んでいるらしい。それほどまで気に入られたことは喜ばしいが、妾はお前に疑いを抱いていた。ゆえのあの夜じゃ]
「疑いとは」
[お前の態度、言葉の真否。確かめた甲斐があった。偽りだと分かったのだから]
言い訳もできまい。手段を講じたとはいえ、この男がいちるを拒んだ事実は揺らがない。いちるはようやく我を取り戻し、いつものように相手を詰った。
[魔眸の件は、妾が負うべきことだと思ったゆえのこと。影の者どもはどうやら妾に関心を抱いているらしい。一度出向いて理由があるならば聞こうと思った]
わずかに斜に構えて、最後に、とアンバーシュは問うた。
「何故ヴィヴィアンと一緒に」
[使い魔に振り落とされて負傷したところを助け出されたらしい。だから、ただの偶然じゃ]
やりとりはそれで終わったようだった。アンバーシュは沈黙し、いちるは男の言葉を待った。
彼は、ゆっくりと笑みを形作った。
「……ええ、よく分かりました」
[だったらこの手を、]
「あなたは何も分かっていない。だから離しません。分かってもらわなくてはね」
振り回されるようにして寝台に投げ出され、いちるは手を振り上げた。爪先が頬にかすり、汚れた指を相手の手のひらに握り込まれる。
「この髪も」
アンバーシュの目が乱れた髪に。
「この目も、声も、唇も」
そうして身体の隅々を辿る。
「俺のものにはならないのにどうして他者に与えたりする」
びりり、と肌が焼かれるほどの衝撃が走った。発せられるのは感情を殺しても抑えきれぬ激しさ。唇が近付き、いちるは反射的にぎゅっと目を閉じていた。かすめる吐息に背中が粟立つ。
[言っている、意味が分からぬ!]
「分からせる方法があることをあなたは知っているでしょう。どうしてそう挑発するんです。耳飾りのことも、忍び込んできたことも。もし俺が『その気』になっていたらどうするつもりだったんですか?」
最後だけ、熱を帯びて甘くなった声色。
ぞっとした。ここまでの屈辱は、受けたことがない。
[痴れ者! 馬鹿にするな。哀れみをかけるでない! お前は……]
咄嗟に浮かんだ言葉は、本心であるという。思考を巡らし、選んだ言葉が心の一部で集めることによって本質をすべて語り尽くそうとするものならば、刹那の言葉は足りないながらも掘り出された本質の原石だ。
ゆえに、いちるのそれは、初めて知った己の疑念だった。
[お前は、妾を愛してなどいないだろう!?]
アンバーシュは、笑う。ただ笑う。
耳元に近寄ってきた唇が、囁いた。
「――それが、何か支障ありますか?」
頭が真っ白になる戦慄を味わった。
これほどまでとは思わなかった。何を考えているか分からない、剛胆でいて繊細な人物だとクロードは評した。物柔らかで自制心があるように見えていた。なのにここまでする意味合いは――挑発、それとも本気でいちるを所有するつもりか?
失望と絶望の味が、苦い。
いちるを何者にもしなかったアンバーシュが、ここにきていちるを所有物にしようとする。
手を握りしめた。アンバーシュの手に押し付けるようにすると、相手が何かを感じてわずかに力を緩める。その指の間に己のそれを滑らせて、強く握り込んだ。
「……イチル?」
深く。深い場所へ向かう。溢れる力の殻を突き抜けて、見えぬほど細い予兆を捉えた。こよったその糸は、やがて奥底の記憶に結びついていることを知る。男の内側、何を思い、何を刻み、どれほどそれを重く抱えているか。
いちるは心のすべてを読むことはできない。それをするには時間と集中力が必要なのだ。ゆえに、異能を使った時まず最初に読み取れるのは、相手が最も強く思っている過去。
それは、この場で最大限扱える最大の武器。
[……『苦しむ姿を見たくなかった。だから放逐した。そうして探さなかった。耳飾りなど惜しくはない、それが自分のできるせめてのことだから』]
アンバーシュが目を開く。
[……『物語のように、絵巻のように、人の口に羨望を持って語られた。満ち足り、幸福だった。ゆえに俺たちは自らの醜い感情から逃げ出した。彼女は、自分はあなたにふさわしくないとでも言い出した』……]
「イチル、止めなさい」
[『結婚を考えた女性だった。だがアストラスの反対にあったせいで、踏み切ることができなかった。よくない運命が見える……全能の大神にそう言われては、さすがに押し切れなかった』]
アストラス? といちるの内心が疑問をあげる。西の神は、恋愛も結婚も自由で寛容なのだとばかり思っていた。
だが己の意志で口が動かせない。アンバーシュの神力があまりにも強く、接続されてしまった感情と過去が、いちるの声でみるみる溢れて止まらない。
[『月日が経つうちに、みるみる彼女は外に出て行けなくなった。一緒にいるのを嫌がった。俺はそれを察した。それが悪循環になって、気持ちがないのだろうと言われるようになった。最後には、彼女は俺の目を恐れた。『見ないで』と叫んで、壊れた』]
「イチル!」
[『その時、俺は絶――』]
ばしっ、と音がして、つながりが断たれた。血相を変えたアンバーシュが、肩で息をしていちるを見下ろしている。強制的にアンバーシュが深層を閉じたのだ。衝撃でいちるは精神的にも肉体的にも投げ出されたが、まだ彼の残滓が漂っている。
落胆。失望。深い悲しみ。痛み。無力感。
黒い色、雨が来る空。彼女が去った後の風。
己を笑い、慰める、知己たちの声。
彼女に触れた感触がもう思い出せない。
言葉が突き刺さる。
「見ないで」。
アンバーシュは息を継いだ。
「……見なくていいものを見ましたね」
目だけを向ける。
[……絶望したと? お前が、己に?]
静かに、感情を殺した乾いた笑い声がした。
「そうです。俺はそれでも彼女を愛しているとも、一緒に死のうとも言ってやれなかった。失望したんですよ。ああ、俺はその程度しか彼女を愛していなくて、深く思いをかけてやれない残酷なものなんだ、と」
アンバーシュはくつりと笑う。虚勢だ。笑うしかないのだ。
「彼女は俺に永遠を誓ったのに、簡単に違えた。でも、俺は」
声も、目も、飢えた獣のそれだった。
「永遠なんてことは絶対あり得ないのに信じてしまった自分に絶望したんです」
傷が疼いて痛み、それを開いて見せている。顔を背けるアンバーシュはみっともないほど無惨な有様だった。常から弱い姿を見せることができない、男とはつくづく面倒な生き物だ。男に限らずかもしれぬ、と打ち消したのは、いちるも同じことをするだろうと思い至ったからだ。
泣くことはない。顔を歪めて痛みを訴えない。平然として立ち続けねばならない。弱さを知られれば、その場所から失墜してしまう。王とは、力ある者とはかくあるべきもの。
――その時胸に疼き広がった甘味は、初めて感ずるものだった。近しい物に喩えるなら、何度も相手方とやり取りして創らせた髪飾りをようやく手にした時、その実物を初めて目にした時。水の中に色が溶けていくがごとく、指先にまで染み渡る生温い痺れ。
いちるの腕よりわずかに届かぬ距離が、急に、遠い、と苛立ちを覚えた。
これでは顔を覆う髪を掻きあげられない。悄然とした肩を押すことも、疲れた頬を掴んで引くこともできない。相手をそこまで疲弊させたことに、いちるはつかの間目を逸らした。
アンバーシュの告白が響く。
「はっきり言います。――あなたが愛しているから、この国へ連れてきたわけではないんですよ」
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