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いちるを視認した不埒者は五人。どれもこれも後ろめたく被り物をして女神に群がっていた。邪悪な手が白い御首に伸びているのを捉えたと同時に、いちるは懐に忍ばせていた小刀を振りかぶる。黒い袋となって剣の風に飛び上がったそれらは、プロプレシアを乱雑に放り出すと、目を吊り上げるいちるの周りをかさこそを這って囲い込んだ。
誰何の声をあげずにいちるは力を使って相手を探る。名前とどこから来たのかが分かればここで見逃したとしても追い込むことができる。ここで事を構えるつもりはない。プロプレシアを守りながら戦うには、いちるには技量がなさすぎる。
だが、目を見開いた。
(読めぬ!)
見えない壁にぶつかり目と耳が弾き飛ばされてしまう。視界が阻まれ、靄のようなものがまとわりついてくる。払おうとしてもう一つの目を遮断するが、探れないということが感覚をなくしたようで不快だ。
背後に伸びた腕を懐剣で追い払う。だが背後を空けることになり、そこから次々に五人の不届者が迫り来る。髪を掴まれた瞬間、いちるは敗北を悟った。両腕を囚われて髪を引かれて胸を打った。首を無理矢理に逸らされて、声が出せない。そのまま首を打たれて昏倒する。
[プレシア……!]
目を細く開いた彼女がかすかに笑った。だいじょうぶ、と、何が大丈夫なのかも分かっていないだろうに、ただ、いちるを案じるあまりに、優しく。
そうして目が覚めて飛び起きたのは、許してもいない者に触れられたせいだった。だが両手は鉄の輪で縛められており、上へ持ち上げられて壁に繋がっている。
泥と水と汚物と錆のにおい。――牢獄だった。
鎖を鳴らして巡らせた視界に灯火が二つ揺れていた。壁の蝋燭と、奥にいる無礼者が捧げ持った洋燈。その光に照らされて、布を目深にし影を濃くした臆病者が笑った。頑然と顎を上げて相手を見下す。
「何用ですか。ならず者にくれてやるものなど何もありませんが」
「あなたは何よりもよいものをお持ちではございませんか」
相手が動いた。持ち上げられて光る赤いそれは、細く長い一振りの剣だ。なんともお粗末な脅迫道具に、いちるはつい笑ってしまった。
「あなた方の主人はその程度のもので何もかもが手に入ると浅慮な考えを持っているのですね」
ぴくりと、その場にいる五人が動きを見せた。いちるの目にはその挙動は大きく揺れて映った。せせら笑ってやる。投げ込んだ刃はそれぞれの癇に障ったようだ。
だがそこで、いちるは次の手を逡巡した。まだ力が働かず、この場所から周辺の状況はおろか、その場にいる全員の名前も人数も把握できなかったのだ。
時間をかければ牢から出ることはできるかもしれない。一人一人誑し込めば状況を探ることができるだろうが、手間をかけるのが惜しかった。プロプレシアがどうなったのかが気がかりになっている。水の城の神々が気付かないわけがないだろうが、かれらの首枷になる事態は避けたい。
やはり怒らせるのが最良か。慣れた手管を用いることを決め、鎖を鳴らしながら大声を張り上げた。
「女一人捕らえて何が手に入ると思うのか。わたくしが持っているものなどたかが知れているというのに。それともそんな些末な物すら手に入れることができない能無しがお前たちの主人だと言うのですか。例え何を手に入れても、それはその手から零れ落ちる。愚かな者たち!」
「おのれ……」
呻いた者と別の者が震える手で留める。
「縛められて何もできないと思いますか。喉を潰し、目を抉ることもできると優位に立ったと思うなら考え違いにもほどがある。この瞳もこの声も、幾度奪われようともお前たちへの呪いを吐き続けることができるのだから。――呪われなさい、お前とお前の大切な者たちにとって、幻滅し、裏切られ、秘密を吹聴され、時局は悪化する」
いちるは身じろぎを止めた。鎖の音がいんと響いて静かになる。不意の静寂が高音のようになって、荒々しく呼吸する者たちの震えが見えるようだった。
ふっと嘲笑するかすかな笑い声に沈黙が破られる。
刃が持ち上げられる。どこに落とされるか予測した。首か喉か、目か足か。痛みの絶叫はさぞかしこの者どもを喜ばせるだろう。
思うままになると思ったら大間違いだ。
「あなたは何もお分かりでない。何故、我らがリリルの女神ではなく、あなたをお連れしたのだとお思いですか?」
「耳を汚す許可を与えます。おっしゃい」
「――我らの窮状を憂えた者が知らせてくださったのですよ。東国より来る千年姫、その肉体、髪や爪、歯に至るまで、神々に匹敵する力があるとね!!」
射る光から目をそらさなかった。
ざくりと音がした。
いちるは動かなかった。目にかかる髪先が邪魔で瞬きはしたが、床を引きずるほど長かった髪がどれほど斜めになり長さもまばらで乱れようとも、鼻で笑った。
「くれてやりましょう。それだけでいいのですか?」
「そうですか。では、その邪魔な目もひとついただきましょうか!」
目に向いた切っ先は、よく研がれていて鋭い輝きを放っていた。
思った痛みは来なかった。意気地がないのではなく、突然忍び寄った第三者が制止したのだった。
暗がりに白い手がぼうっと浮かび上がっている。女の手だ。いちるは眉をひそめた。こんなところにあるには違和感を覚える、白々とした手。何がそれを感じさせるのだろうと、指先、爪先、少しの動作を細心に見る。
「そんなことをしてはだめ」
軽やかな娘の声だった。だが、その娘も素顔ではない。
「痛いのは可哀想だわ。いくら化け物だからといって、痛い思いをさせるのはわたしも辛い」
化け物。
はっきりとした断定を、十代二十代の娘が出来得るか。自問した瞬間、女の目が人ではあり得ぬ形と色を発した。いびつに歪んだ瞳孔、暗くてなお血塗れたような禍々しい視線。――魔眸。
(この女が唆したか)
「こんなところへお越しとは、魔法の姫」
「無闇にそんなことを言わないで。化け物が聞き耳を立てているわ」
剣の持ち手は頭を垂れる。
「仰せのままに。森と湖の高貴なる方」
不愉快そうに目を細めたが女はいちるに微笑みを向けた。
「こんにちは、千年姫。くれてやると言ってもらえたから、髪はありがたくちょうだいします。髪も爪もすぐ伸びるもの。そんなことくらい些末ですものね?」
闇の中で目が光る。
「頃合いを見てあなたをいただくわ。その時は彼らも相伴できるでしょう。かすかな肉でも五十年は寿命が延びると思うわ」
下品で陳腐な高笑いではなく、あくまで優美な声と微笑みを残し、刻んだ髪を手に去っていく。影と同じように続く者たちは、いちるに嘲笑の気配を投げかけて消えた。
灯りが絶え、暗闇が訪れる。反響する音。耳障りなそれが、己の焦った呼吸だということに、いちるは強く目を閉ざした。まことの闇が訪れ、いちるの願った外の気配も敵が何者かも見定めることはできなかった。
(助けが来るか。来ないか。……妾にはそれすらも)
神々が集っていたことが幸いした。ビノンクシュトを鎮めるのは他の水を司る神や話術や歌といった心を慰める術を持っている神々、原因を取り除きに走ったのは女神の子たち。医術の心得を持っているあらゆる者がプロプレシアの治療に当たり、戦神カレンミーアの指示のもと、敵の探索が行われている。風の神とその眷属が連絡役に走り、分かったのは、ビノンクシュトの源であるビナー大湖に穢れが投げ込まれたことだった。
「魔眸に取り込まれた者たちの躯だそうだ。あるいは呪いをかけられ、そのまま身投げさせられた者。風が集めた情報だと、周辺から人がいなくなっていたそうだ。守護神たちが疑問に思わない程度に、近くからも遠くからも少しずつ」
「周到ですね」
カレンミーアは頷いた。
「大湖が穢されたのとプレシアと千年姫がおびき出されたのが恐らく同時。そんな離れた場所で機を逃さずに活動できるモノは限られてる」
魔眸。常闇の者が動いているのなら。
「人間を、操っていますね」
魔の眸を持っている、人の心の闇に付け入る影たちは、ヴェルタファレンよりも周辺国に濃く顕れる。それは決して、血で血を洗う戦いなどではない。感情や関係を破壊する、傷や血で計れない争いなのだ。
それにアンバーシュは手が出せない。調停王としての権限は、この世に多大すぎる影響を及ぼすものに対してのみ働くものでしかない。今回、魔眸が人間を操ってプロプレシアを襲い、いちるをさらわせたのは、このティトラテスという国の人間に、何か黒い火種を抱えた者たちがいたというだけなのだ。
ゆえに、狙いは、いちるの身柄の可能性が高い。
(ビノンクシュトとプロプレシアを狙ったものではないのかもしれない。イチルの懸念は真実になってしまった……)
戦を司るカレンミーアのように穢れに強い者もいるが、水に属する者は血や病に強い拒絶反応を示す。二人の女神の絆は強固であり、ビノンクシュトが倒れるとプロプレシアにも影響する。ナゼロフォビナは彼女の同腹の兄だが父であるシッチロクタの傘下にあることもあって妹ほど強い影響を受けずにすんでいた。だが、彼らも守護地に血が流れ、死を持ち込まれれば無害では収まらない。
カレンミーアは不安げにたたずむ水の眷属に声をかけた。
「プレシアの具合は?」
眷属は首を振った。保護され治療が始まっているものの、ビノンクシュトからの影響もあってよくならないのだ。
「周辺に散っていた眷属や、森の者、動物たちに声をかけて回ってるけど、誰も彼もそんなものは見ていないって。むしろリリルには誰も近付いていないって。なあ、それっておかしくないか? ありえないよな?」
「アティル」
悄然と肩を落とした風の少年神アティルをアンバーシュは労った。
「あなたはよくやってくれています。確かに、『誰も近付いていない』なんて答えは返ってくるはずがない。ということは、彼らの目や耳に捉えられない処置を施して、相手はことに及んだということになります」
「魔の者の術にあたしらが劣るわけがない。ということは、何かを使って力を底上げしているかもしれない。……魔封じの石でも使ってるのか」
「その可能性は高いでしょうね。こんな事態になって彼女が痕跡を残していかないわけがない。呼びかけても答えませんが……最も恐ろしい可能性は、イチルが、敵に報復するために邪魔が入らぬよう、助けを求めてこないことです」
ありうるのが痛い。彼女は他人からの心配や情に疎すぎる。自分のことを誰も案じるわけがないと、かたくなに思い込んでいる。しかも己のそれに鈍感になっている。そのことが両手を強く握りしめるくらい腹立たしい。
(俺を呼ばないのではなく呼べないのではないですか。もしも取り返しのつかないことになったらどうするつもりです)
魔封じで痕跡を消されているが、何か辿れる方法があるはず。誰の目に届かないということはあり得ない。神々や眷属の目から逃れ、動植物から気配を閉ざしながら、隠せないもの。
「アンバーシュ、どこへ行く!」
「聞き込みにいきます」
「アティルが何も聞けていないと言ったばかりじゃないか」
「俺たちは万能過ぎるんですよ、カレン。風の眷属は島の端から端まで物を聞き、動植物たちは大地の神の眷属として見守ることがさだめ。敵は俺たちに万全の対策をしいています」
「そんなことはお前が一番分かってるだろ」
そうですね、と肩から力を抜いて、微笑む。
「だから、魔法を持っていない者から隠れることは可能か、と考えたんですよ」
カレンミーアは目を見開く。
「まさか、人里へ降りるつもりか!」
周辺に住まう人々に直に話を聞きにいく、というのがアンバーシュが導き出した策だった。
「あなた方は生粋の神ですが、俺は半神です。ヴェルタファレン王の座にいますから、神というよりは人に近いよう力を制御してあります。人に与える影響は少ないですよ」
例えば戦女神が降りればちょっとした武器が法具になってしまうような大事になるし、水の神がやってくればそこは水の気が強くなり生態系に影響を及ぼす。彼らが自然の中に異界を作って住まう理由はそのせいだ。
「確かにそれはお前の長所で短所だが」
「あなたらしくないですね。使えるものは何でも使わせるくせに。舟を漕ぐ櫂の両端に刃を取り付けた変な武器を人間に作らせたのはあなただったでしょうに」
「あれは、絶海の孤島の人間だったからだ。あんなところでは使える材料は限られてた」
「そういうことですよ。では」
上着を片手に歩き出したアンバーシュを止めるカレンミーアは決して笑っていなかったが、アンバーシュは笑顔で振り返った。
「やりすぎるな」
答えなかった。嘘をつきたくなかったからだ。
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