<<  ―    ―  >>

 水の城は静寂に包まれていた。悲しみの波が溢れて寄せて、この手では押し返そうもない。そこに勇ましい歩調で現れた金の髪の女神を、アンバーシュは「カレン」と呼んだ。だが、彼女の表情は動かない。
 アンバーシュ、と告げた彼女の声は、冷えた鋼の音だった。
「プロプレシアが死んだ」
 いちるはアンバーシュの腕をほどいて走り出していた。すすり泣く眷属たちの突き飛ばして回廊を走り抜けると、魔石たちが輝きを潜める。己の無様を騒ぎ立てる足音に、いちるは、自分が、神はおろか何の力も持たないことを思い知る。歯を食いしばりながら感覚に従うままにビノンクシュトの広間に辿り着くと、そこには大勢の神々と眷属で埋め尽くされていた。
 足を踏み入れようとしたところで、制止の声がかかった。
「ここからは神の秘技。そなたを立ち入らせるわけにはいかぬ」
 男ほどの体格をした、厳格な顔つきをした、名も知らぬ美しい女神だった。断固とした物言いにいちるは首を振る。それでも女神はならぬと繰り返した。人外の目をした瞳は鋭くいちるを睨みつけ、周囲も同じような目をしていちるを拒んでいた。
 疎外感と失望が溢れた。
「わたくしは、己のために命を落とした方と別れを終えることもできぬのですか」
「人の死と神の死は違うのだ。千年姫。プロプレシアは尊い死を迎えたのだから」
 狼の瞳の女神が視線を後ろに投げると、ふくらかな女神が腕に赤子を抱えていた。穏やかな眠りにたゆたう、白い肌の子どもだった。
「リリル川の座は、プロプレシアの子リューシアに譲られた。これに限らず神の死は、次代への継承を意味する。時と運命の両神が、役目を果たしたプロプレシアを大地の女神の御元へ送ってくださることだろう。だから人の悲しみは無用なことだ」
「死とは終です。満ちずに断たれてしまうことです。そこには死者本人の幾重の後悔が存在します。わたくしは女神を死なせました」
「そなたの罪ではない」
「わたくしは己の所行に後悔したことは一度もありません。ですが間違ったことがないというわけではない。プロプレシア女神は己の望み得ぬ死を与えられました。その一因がわたくしにないとは言えませぬ」
「ではそなたはどうしたいのだ。償うのか。どうやって? 言葉を繰り、己の正しさを主張し、間違いを認めていると公言することが、高潔で強いということに繋がらるわけではないのだよ」
 いちるは奥に目を向けた。
 低い、呻きのような泣き声が聞こえる。川がうねり、激しい悲嘆を押し隠すが、地の底で激しい流れが生まれている。ビナー大河は、溢れる水で川幅が増しているだろう。岸は洗われ、土は飲み込まれ、人が遠ざかる。
 泥のように重い水が目前に降る。神々が下がり、黒い大波となった悲哀の女神を見つめる。身体を持たないこの水の女神の表情を読み取ることはできなかった。悲しみと、苦しみと怒りが、常に流動して表面に現れる。
[プロプレシアが去りました。未熟で幼い子でしたが、いくら何でも早すぎる……]
 水は降り積もった腐葉土の色をしている。
[永の命を約束された者が去り、何者でもないあなたが残った。わたくしは、プロプレシアの母としてあなたを許せませんが、神としては新しい神の誕生を喜んでいます。ああけれど……]
 ごぼりごぼりと、煮えるように泡が噴き出す。
[どうして……どうして、プロプレシア。わたくしの呪いのせいなの? 時の神と運命の神が、このようにさだめられたというの。アストラスよ! あなたは存知だったのですか!]
 水が燃え上がる。
[シャングリラの姫……! お前ならばプロプレシアを、]
「ビノンクシュト!」
「鎮まれビナーの女神! 人の世に災いが降るぞ!」
 一度和らいでいた悲しみと怒りが膨れ上がり、辺りに燃えたぎる雨となって降り注ぐ。牽制の声をあげる神々の中で、いちるは後ろから肩に置かれた手に黙って手を重ねた。
「わたくしは負わねばならない」
 呟く。
「今までもそうしてきたのだから」
[わたくしの呪いを受けよ!]
 女神は宣告する。
[この先お前に訪れる愛は、お前の身を食いつぶし、滅ぼすだろう! 花は零れ、望みは潰え、お前は故国を失うだろう!]
 かつて、いちるの小さな世界であった東の撫瑚。二百年の月日に、いちるは影で君臨した。そこで生きるすべての命を両手に持っていた。彼らのためとうそぶきながら、取りこぼしたものは数多い。それが今のいちるを作り上げた。
 ならば守るだけのこと。
 固唾を呑むすべての者たちに聞こえるように、言った。
「望むところです」

 その場から強制的に引きはがされ、いちるは部屋に押し込められた。押し問答を繰り返すアンバーシュも多勢には逆らえず、話し合いの場に戻されようとする。ただ一言。
「彼女は俺の妻です。手荒な真似をすればどうなるか、分かっていますよね?」
「分かっている」と男の同胞は苦々しく告げ、アンバーシュを連行する。[妾なら案じずともよい]と声を飛ばしたが、聞こえているだろうに周りを波立てないためか答えはなかった。
 アンバーシュが戻ってきたのはそれから半日近く経った時間だった。更けた夜が明け、朝日が昇ってしばらく。微睡んでいたいちるは他者の気配に目を覚まし、寝台から起き上がった。
「帰りましょう」とアンバーシュは言い、いちるも異存はなかった。
 見送りには誰も来ないと思っていたが、馬車が待っているそこにナゼロフォビナの姿があった。腕を組み、静かにアンバーシュと目を交わすと深いため息をついたまま、友といちるが車に乗り込むのを見守っている。
「……怒鳴られそうな気もするが……姫に礼を言う。お前たちの祝いのおかげでリューシアの命が助かった。逆に言えば、どっちかしか助けられなかったわけだが……」
 ナゼロフォビナは、いちるの視線から目を外す。まだ整えていない不揃いな髪は、女神の祝いのために切り落とし、そしてまた魔眸に奪われてしまったものだ。
「プレシアはリューシアを望んだ。だが例えプレシアが自分の命を望んでも、ビノンクシュトも俺たちもリューシアを選んだだろう。プレシアがいなくなったのは寂しいが、仕方ねえことだと思ってる。俺たちはそうでもしないと終わることができねえからな。次の世代に譲るのは大事なことだ」
 もう一度見上げた目は苦く笑っていた。
「そんなの関係あるかってあんたは言うだろうから、俺はもう何も言わないことにする」
 けれど最後にひとつだけ、と彼は言った。
「プロプレシアと友人になってくれてありがとう」
 一歩下がって馬車を促した。二人とも別れの挨拶をせずに。アンバーシュは無心に手綱を操り、水の城から飛び立った。

<<  ―    ―  >>



―  INDEX  ―