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滝のような小さな粒が連なった珠の帳をくぐると、「きゃあ!」と悲鳴が聞こえた。実際には「きっ……」とほとんど聞き取れなかったのだが。
室内も青で統一されている。半透明の壁は分厚く外は見えないが、窓に当たる部分に水泡のような透明な膜が張ってある。椅子も机もあるが鉱石を磨き上げた銀色をしており、見た目は冷たそうだ。背もたれや座る部分にはこれもまた透明の、枕らしきものが置いてある。
ナゼロフォビナはずかずかと部屋の片隅の、巨大な水草の鉢に近付いていく。室内を飾る植物でも高く伸び幹のたくましいその影にいる青い髪の人物を引っ張り出そうとし、相手の抵抗が強いらしくなかなかに苦戦している。ううう、と小動物めいた唸り声。
「おい、プレシア」
そうしてしばらくの時間をかけて現れたのは、半泣き顔の娘だった。べそをかいた顔で、眉は垂れて眉間に皺、声を堪えるために唇は引き結ばれて、まるきり童女のそれだ。青い髪が涙か汗でぺたりと張り付いて、美しいのに非常に残念なことだった。
いちると目が合う。初対面のいちるに彼女は涙を浮かべ、今度はナゼロフォビナを盾にした。
「プロプレシアだ」
諦めたナゼロフォビナが紹介した。
「に、に、ににに、兄さまっ」
「ちゃんと挨拶しろ、プレシア」
「どう、どどどう、して!」
震える指をいちるに向ける。(不興を買ったか?)と内心で首を傾げるいちるの視界の片方を、アンバーシュの背中が覆った。
(…………)
庇ったつもり、なのだろうか。しかしプロプレシアの絶叫に何もかも忘れてしまった。
「どうしてっ! わたしの前にそんな綺麗な人を連れてくるのよぅーっ!!」
わあっと泣き崩れるところをナゼロフォビナが抱きとめながら、アンバーシュにうんざりと首を振った。どうやら近頃はこういうことが続いているらしい。
「ひどいひどいひどい兄さま! わたしがっ、わたしがちゃんとお迎えできないことを知ってるくせにー!」
いちるが(そんなに気に病むことか?)と目で尋ねれば、アンバーシュは肩を竦めてそうでもないと答えた。礼儀を欠かれたわけではない。城に到着して我が物顔で歩き出したのはアンバーシュなのだから、原因はどちらかというとこの男の方にあるように感じられる。
しかしこの荒れ様を見るに、なるほど、弱っているというのは事実らしい。膨らんだ腹部を見て、いちるは言った。
「お荒れなさいますな。お腹の子に障りがあっては大事です」
子どもと聞いてプロプレシアは大声を止めたが、しゃくりあげるのが止まらない。いちるはその場に膝をつき、遠くからそっと呼びかける。
「どうぞ、女神のご都合のよろしい時にご挨拶をさせてください。それまでわたくしはお目通りがかなっていないことにいたしましょう。ご拝謁の際には美しい女神にお言葉をちょうだいできることを心待ちにしております。それでは、失礼いたします」
言うだけ言って踵を返す。ぽかんと口を開けるナゼロフォビナとプロプレシアの視線を感じたが、追ってきたのはアンバーシュだけだった。回廊を行き、適当なところで曲がり、声が届かないであろうと判断していちるの肩をつかんで止める。
「イチル」
[妾は謝らぬぞ]
振り向き様だった。言葉を飲み込む。頭を下げられたからだ。
「すみませんでした」
勢いを削がれた。ため息をつく。
[致し方あるまい。機嫌を損ねたのは妾じゃ。原因が目の前から消えるのが望ましかろう]
事実のみ伝える言葉は、幾分か優しくなった。頭を上げたアンバーシュが、出てきた部屋を気にするそぶりで言う。
「普段は恥ずかしがりなくらいで、あんなに泣きわめいたりはしないんですが、子どもがいるせいで荒れているようですね。すみません、驚きましたよね」
[お前の謝罪は必要ない]
「ナゼロの代わりです」
ならば受け取ろう。頷いた時だった。するりと冷たい思考が忍び込んで、囁いた。
[わたくしからも感謝を。我が娘への気遣い、ありがとう]
辺りには誰もいない。直接呼びかけられたのだ。アンバーシュが撫瑚で行ったのと同じ術だった。アンバーシュが声の主を呼ぶ。
[ビノンクシュト]
[広間へおいでなさい、アンバーシュ。あなたの婚約者を連れて]
せせらぎの中に鳴る鈴のような声と気配はそうして遠ざかった。
女神ビノンクシュト。この城の主で、ナゼロフォビナとプロプレシアの母。雨と水と川の女神で、ビナー大湖とそこから流れるビナー大河を治める。生まれはアストラスに近いという格の高い西神だ。
連れられるままに城の中央部分に当る広間に足を踏み入れ、その絢爛さに目を見張る。
円形の部屋の奥に、水の柱がある。飛沫を散らし、魚が泳ぐ本物の水だ。天上を突抜け床の下へ流れているその流れの豊潤なこと。水の雫で青の床が光り、金の象眼された柱を青白い輝きで照らしている。ただそれだけの部屋だというのに、どんな調度を置き、描いたとしてもこれほど美しい場所はないだろう。
その水の柱が急にうごめいた。しゃらしゃらと紗を引く波の音がして、流体が人の形を作る。水の人影は、分かりづらいが笑ったようだ。水そのものが彼女の髪であり、手であり、足である。水の女神ビノンクシュトの姿だった。
[ようこそ、わたくしの城へ。そして、我が娘への祝いに駆けつけてくれてありがとう。アンバーシュ、あなたへのお祝いが遅れていてごめんなさい。この通り、プロプレシアの振る舞いに追われていたの]
[こちらの事情をあなたもご存知かと思います。詫びるには及びません]
アンバーシュが跪くのに習い、いちるは頭を垂れた。
[シャングリラの娘。あなたを歓迎します。西島に来てくれてありがとう]
水の女神の眼差しが深く注がれるを感じる。
――……よかった。血は、濁っていないか。
何、と思った顔を上げたが、女神はすでにアンバーシュに顔を向けている。
[アンバーシュ、あなたが東から妻を連れると聞いて、わたくしたち西島に残ったものは期待したのだけれど]
アンバーシュは笑いながら肩を竦めた。先ほどの呟きは聞こえていないらしく、軽口を叩いている。
[ナゼロあたりが何か言いましたか?]
[あの子が言うのはあなたの悪口に似た褒め言葉ばかり。わたくしたちは、あなたがそれほど渇望した者なのだから美しい物語が聞けるのだろうと、それは楽しみにしていたのです。けれど、ヒムニュスはまだ歌ができていないという]
渋い顔をしたいが笑うしかないという様子で、アンバーシュは言う。
[太陽と月に近しい父のきょうだいたちは、皆そればかりを仰る]
[神は物語あってこそ、とは兄神様のお言葉。ですが、わたくしたちはあなた方に幸多からんことを願っていますよ。ただでさえ東から来た花嫁には苦労があるでしょう]
目が向けられ、いちるはようやく口を開いた。
女神に、裏はないかもしれない。そうは見えないようにしているのか。
[お気遣いありがとう存じます。ですが、わたくしのことを守ると夫となる者が申しましたので……その成り行きに、いつかご裁決をいただきたく思います]
ぎょっとアンバーシュが目を見開くのと、ビノンクシュトが笑うのが同時だった。
[ええ、見守っていましょう。アンバーシュ、イチル。プレシアが落ち着いたら顔を見せてやってください。あの子との巡り会いが、あなた方にとって意味のあるものなればいいのだけれど]
部屋を案内するのはビノンクシュトの眷属で、水の者たち、水人だ。女神が人の形をとるのと同じように、淡い霧が人形になっていちるの前を先導する。声は聞こえないが淡い意志が伝わり、青石に緑と金の色彩がまだらに混ざった部屋が、しばらくの滞在場所だと知った。
広すぎる部屋、一つの巨大な寝台。いちるは振り向いた。
[どうしてお前と同じ部屋なのか]
「俺に聞かれても」
略装の上着を脱いで椅子に放る。襟を緩めるのにちらりと目をやって、いちるはその端に座った。
「何なら部屋をもう一つ用意してもらいますか?」
[手間になろう。客も多いようだし、仕方がない、許容する。…………なんだその顔は]
額を指先で掻いている。
「それって、俺に信頼を置いているということでいいんですか?」
いちるは思いきり嫌な顔をした。
[下種な想像をするでないわ。それ以外に何があるというのじゃ]
「……あの夜みたいなことになったら、今度こそ逃げられないと思いませんか?」
足を組み、足に肘を置き、とくと男の顔を見る。穏やかな微笑に隠れているのは、あの日垣間みた嗜虐の牙。だがいちるは、これがそれを使うことはまずあり得ないだろうと考えていた。
[逃げるための口実を与えるとは思えぬ]
ふ、と零した息が聞こえた。アンバーシュはいちるに近付くと、背もたれに手をかけ、いちるに迫り来る。見上げる男から目をそらさずに睨みつけていると、視線が己の顔をゆったりとなぞるのが分かった。
「お退き」
音にしてはっきりと告げた。
そうして、アンバーシュから答えに、いちるは目を吊り上げる。
「……うーん。あのですね、イチル。キスしてみていいですか?」
たっぷり考え、微笑んだ。
「ぼけたか」
「大真面目ですよ。今すごくキスしたいんです。自分があなたを好きになっているか確かめてみたくて」
思いきり眉をひそめて、手近な枕を掴み、思いきり後頭部に振り下ろす。
「あたっ」
[馬鹿かお前は。いちいちそんな愚かな戯れを繰り返すつもりか]
扉を指差す。
[早うお行き]
「はあ……分かりました。すみませんでした。ナゼロと呑んでますから、何かあったら人を使って呼んでください。独り寝が寂しいとか言うのは、みんなの前では恥ずかしいので遠慮してくださいね?」
[早うお行きったら!]
投げた枕は開いたままの扉にぶつかって落ちる。手をひらりとさせ回廊に消えるアンバーシュに歯を剥き出しにして追いやってから、いちるはむかむかと長椅子に身体を倒した。
残りの枕を引き寄せて、椅子の上で身体を転がす。綿のそれに顔を埋めていると、身体が鼓動の振動で揺れるのが分かった。
(熱い)
どきどきしている。いや、むかむかというべきか。
じっとしていても収まらない動悸に、いちるはたまらず、最後のまくらを扉に向かって思いきり投げた。
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