第九章
 陰天に抗す いんてんにこうす
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 さんざん拒否していたくせに、自分の都合でやってくる。
 その性格は知っているはずだったが、目の当たりにするとうんざりした。自国ではとてもこんな態度には出られないと思いながら、アンバーシュは気怠く剣呑に「何の用ですか」と兄神に尋ねた。
 イバーマの首都の内にある、別宮と呼ばれる隔離された宮殿にアンバーシュは滞在していた。立ち入ることを許されたのがそこまでだったのだ。兄と弟の争いを知った多くの神々は立場を引いていき、味方は同行しているナゼロフォビナだけ。アンバーシュは、調停者そしていちるの保護者の役割から、オルギュットの越権を糾弾したが、回答は問いに問いを返すものだった。
 ――婚儀を終えていない、ゆえにいちるの所属は西神全体にある。自分のところに置いていても問題ないのではないか?
 屁理屈にもほどがあった。
「回復したから顔を見に来た。そちらこそ、私にさんざん面会を申し入れてきただろう? いい機会じゃないか」
「そのまま寝込んでいればよかったのに」
 アンバーシュは呟いた。オルギュットの後ろでレグランスが申し訳なさそうに微笑んでいる。側近を引き連れて、本宮からわざわざ出向いてくる用事といえば、嫌がらせしか思いつかない。だが、その構えも無惨に打ち砕かれた。
「その辺りは、君の花嫁に礼を言わなくては」
「は?」
 理解不能のことを言っている。今度こそ頭がおかしくなったのかと、笑う顔を見た。
「ずいぶん傲慢で自分勝手で扱いづらいが、綺麗で、純粋で、心根が優しい女だ。したたかであろうとするのに詰めが甘いところが可愛い。敵である私に情を見せてどうするつもりなのだろうね?」
 両手を組み合わせてとっくりと笑う。段々、これが本当のことを言っているのだと理解してきた。
「何を……」
「伝言を預かってきている。レグランス、伝えてやりなさい」
「はい。あのでも、よろしいのですか?」
 問題ないとオルギュットは鷹揚に頷いた。レグランスはそっと、ためらいがちに言った。
「では……『一発殴れ、アンバーシュ』と、」
 次の瞬間、アンバーシュは兄に向かって右手を繰り出していた。言いきることができなかったレグランスは立ちすくみ、オルギュットは何か気を取られたのか避けきれなかった。それでも、さすがと言うべきか、掠めた程度だった。だが相当な痛みになったはずだ。怒りに任せて震った拳なのだから。
 頬骨に跡を作ったオルギュットの目が、一息に冷たくなる。組み合うことを覚悟して拳を作ったが、それよりも早く「待った!」の声がかかった。
「てめえらが本気でやると怪我だけですまねえことを分かれ! アンバーシュ、挑発に乗るな! こいつが遊ぶことなんて分かりきったことだろうが。オルギュット、お前、ぼかして言うんじゃねえよ!」
 それまで黙って成り行きを見ていたナゼロフォビナが声を荒げて割って入る。アンバーシュは友人に免じて距離を取ったが、目を逸らさずに告げる。
「殺されたいようですね?」
「殺せると思うのか?」
「いい加減にしろ! 立場忘れんな!」
 ナゼロフォビナの方が爆発しそうだ。そう思うと、アンバーシュにも余裕ができた。オルギュットを眺め、自分のつけた傷が顔にあることを確かめる。そうすると、確信できた。
「無礼でした。すみません。彼女に手を出して、無傷でいるわけがありませんよね。見たところ無傷のようだし、その辺りはきちんとしているとは意外でした。毎度のように『王妃にふさわしい娘を見繕え』なんて馬鹿げた文書を送ってくるので、頭の螺子が緩んでると思ってました」
 すみませんでした、と慇懃に言うと、オルギュットは少し頭に来たらしい。低めた声で呟いた。
「よほど自信があると見える」
「ええ、もちろん。新婚ですから」
 にっこり、嫌味な笑顔を浮かべる。
「いい加減、返してもらえませんか。イチルはあなたにはうんざりしているでしょう? 言い合いと探り合いばかりで、疲れています」
 そう言うと、オルギュットは目をすがめて黙り込んだ。なるほど、ここに来てなお、いちるは己を失わず、彼女らしく過ごしているようだ。それも、どうやらこの男に手痛い何かを与えている。
 だが、オルギュットの答えは否だった。
「返すことはできない。滞在の了解は得たと、回答したはずだが?」
「彼女はどうしてあなたの目的に必要なんですか。彼女の代わりなら、いくらでも用意しますが?」
「イチルでなければならない。代わりは不可能だ」
「それはこちらの台詞なんですが?」
 オルギュットは笑う。
「そうだろうとも。すべての命は、唯一無二だ」
 では、と交渉を変える。
「ミザントリ・イレスティン侯爵令嬢の返還を願います。不当に滞在を強いられているのだとすれば、ヴェルタファレン国主としてイバーマ国主に注意を勧告しなければなりません」
「イレスティン侯爵令嬢は、個人旅行でこちらを訪れ、偶然、友人であるイチルに会い、共に滞在してくれることになった。私は、彼女自身からイチルは『お友達』であると聞いている」
 彼女自身の口から聞かねば真偽が明らかでないため、無駄すぎるやり取りだった。向こうが譲るつもりがないのならば、だったのだが、意外にもオルギュットは言った。
「イレスティン侯爵令嬢の行動を制限しているわけではない。世話係をつけているが、客人として許された範囲で出入りできるようになっている。彼女が街に下りる気があれば、会えるのではないかな」
 何が狙いなのか分からないまま、王宮以外の立ち入りは許可するからと言い置いて、オルギュットは去っていった。
 宮殿には結界を張り巡らせていることは確認済みだ。王宮を急襲し、いちるとミザントリを連れ去り、無事に国を出られたとしても揉めることは必至だった。西島の神が派閥争いをするのは避けたい。ただでさえ数が多い西の神が分けて争えば、それこそ大地が洗い流される。
(まだ時機を見なければならないのか)
「眷属を放ってるから、動きがあれば分かる。だから落ち着け。あの女は簡単には壊れねえだろう?」
 ナゼロフォビナが言う。
 思いだけが逸る。取り返しのつかないことがないようにと恐れる気持ちが足踏みをさせている。見ただけでは、ナゼロフォビナの言うような印象を人は口にするだろう。
 あの、本当は泣いてしまうのを堪えている少女の心は、分からない。触れなければ。
(泣かないで。もう少し、待っていて)


     *


「何をなさったのですか?」
 ミザントリが来たので、本を置いた。彼女はいつものように挨拶を述べると、少し不機嫌な顔でいちるに尋ねた。
「オルギュットと交渉して、あなたにある程度の自由を認めるように、と言いました。その様子だと、彼は義務を果たしたようですね」
 ミザントリは深々と溜め息した。
「姫……そんなことをしては、姫が余計に動けなくなるのでは」
「あなたがこの場所のことをよく見聞きし、教えてくれればいい。それに、外に出ないことには慣れています」
 彼女の視線が、いちるの座る椅子の側に積み上がった書物に向けられた。一冊を手に取って、その重みに目を開く。令嬢の細い手首では、革表紙のそれらを支えることは難しいかもしれない。
「分かりました……では、辺りを散策してみます。どうやらアンバーシュ様が宮殿の外の、別宮にいらっしゃるようです。お会いできたらよいのですけれども」
「頼んでみなさい。撥ね除けるようなら、わたくしに言いなさい」
 ミザントリは肩をすくめるようにして笑い、女官を連れて出て行った。いちるは、それまで読んでいた聞いたこともない心理学者の思想文を置いて、塔になっている書物から目的のものを引き出した。
(別宮……)
 情報は絞られているが、イバーマの都の遠景図は、簡略的なものだが描かれているものを発見してあった。文学者の紀行文に、さらさらと筆を走らせた落書き程度のものだが、目的の別宮は、街の西にあると記されている。北東にある祭事宮と同じように、離れた場所に設置されている宮廷の一部だ。
 いちるは自分のいる奥宮から、それが見えるのかを確認しようとした。だが、すぐに力の膜に押し返され、目は曇りから抜け出すことができなかった。厳重に結界を敷いているのだ。
(向こうからは見えぬのだろうか)
 しるしくらいは投げかけられるかもしれない。別宮にいる者に見えるように、何かできたらいいのだが。そうして、あまりの拙さに呆れ返る。椅子に身体を投げ出して、己の愚かさを笑った。
(……気晴らしがしたいな。ここの者たちに、妾は侮られすぎている。少し振り回して、優位に立ってやりたいものだ)
 オルギュットの件では少し見方を変えた者もいるようだが、不寝番や遅番以外の者には、下に見られたままだった。得体の知れない、高飛車に見えて王にやり込められた、怪しい東の女。それはそれで快い評価だったが、いちるのやり方には合っていない。恐れられ、遠ざけられ、気味が悪いと言われる方がいい。自嘲は、安堵だった。
(妾には、アンバーシュがいるからな)
「失礼いたします。レグランス様がお越しです」
 不意を打って居丈高に告げられる。用意する間もなかったので、レグランスはだらしなく椅子に身体を預けているいちるに少し驚いた顔をし、背けるようにして目を伏せた。
「おくつろぎのところ、失礼しました」
「構いません。何か?」
 レグランスは振り向き、女たちをすべて外に出した。いちるは身体を起こす。人を下がらせるほど重大な用件ならば、礼儀があるからだ。向き直ったレグランスは、両手を合わせ、深々と頭を下げた。
「オルギュット様を助けてくださったと窺いました。ありがとうございました」
「貰うものは貰っています。それに、礼を言うべきはあの男の方です」
 困った様子でレグランスは微笑んだ。そうしていちるは、昔の彼女を見たことを思い出した。あれは本人の感情に彩られていたが、今と同じように真っ直ぐな目をして、その人物のことを思っているようだった。
「あなたは今でも」と、誰も聞いていないのをいいことに、不躾に聞いていた。
「あの男を愛している?」
「はい」
 すぐさま答えがあった。微笑みは変じ、誇りになっていた。他者を愛することで、まるで崇高な聖者のような顔になったレグランスを不思議に思った。いちるは、まだその感情について、哀願と受容というものしか知っていなかったからだ。
「嫉妬に駆られることはないのですか」
「もちろん、あります。心がありますから。ただ、心はうつろいます。私はもう進むことも戻ることもありませんが、オルギュット様は生ける方ですから。誰かを愛されても、仕方がないことだと考えています。私が、間違わなければいいのです」
 まるでレグランスは、オルギュットを崇拝する信者だ。何をしても揺るがない思いが、彼女に芯を授けた。恐らく、レグランスはオルギュットを失ったとしても、己の思いを貫き通すことができるのだろう。
(喪失の過去を乗り越えてなお、ここにいるように……)
 泣き声の消えた、あの赤子は。
 そこまで考えて、いちるは謝罪を口にした。心底悪いと思ったのだ。レグランスは照れた様子で固辞した。

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