ねえ、私たちは、生きていくんだよ。
 生きていくしか、ないんだよ。

















 街に、うっすらと朝靄のかかる午前六時。明けきらない空の下、影は青く、吐く息は空と同じで白くなる。
 布団の中で身じろぎした時、デジタルの時計が鳴り響いた。秒針が遅れているアナログ時計がじりりと鳴り、続いて携帯電話がアラーム機能で歌い出す。
「…………う……」
 部屋は音の大合唱で、寄せ集めてこんもりとさせた布団の中で、紗夜子は目を覚まして呻いた。
(……るっさいなあ……)
 半覚醒状態の思考が正直に呟く。
 毛布にくるまっていても分かる気温の低さにぶるりと身体を震わせ、鼻をすんと鳴らして、手を伸ばす。携帯電話のボタンを叩き、デジタル時計の頭をたたき、アナログ時計の後ろのアラームのスイッチを切った。男子が見たらドン引きするであろう眉間の皺のまま、ずるりとベッドから足を投げ出す。床が冷たい。
 どうしてこんなに世界の朝は早いのだろう。
(今日……授業なんだっけ……あー現国と現社と数学あるよね、へこむー……フィオナとナスィーム誘ってなんか食べに行こうかな……お金あったかな…………………………っていうか!)
 がばりと起き上がった。顔をうわあと覆う。
「……今日『上』に報告に行く日だった……」
 逃げたい。逃げ出したい。でもそうもいかない。驚きのあまり、ばっちり目が覚めてしまった。それでもぐずぐずとベッドに座っていると、携帯電話がスヌーズ機能で再び歌い始めた。きつい目つきのままそれを止めた後、むしゃくしゃとベッドのマットレスに向かって投げつけた。

 階下へ折り、キッチンへ行ってパンをトースターに。水を入れた鍋を火にかけると、洗面台で顔を洗い、髪をとかして、制服に着替えて戻る。ネクタイを結びながらリビングに来ると、ちょうどトースターが鳴った。
 トーストにバターを塗り付け、ちょっと考えた後、スティックシュガーを持ってきてパンに振る。代わりに、コーヒーはブラックに。
 表に出て新聞を取り、朝食を取りながら一面記事を眺める。
 一面には『三氏会合 新システム導入決定』の字が大きく書かれていた。
 三氏の一人に数えられるサイガ氏が、『新システムはすでに開発に着手、完成の見通しが立っている。このときのために日々皆さんのお力を借りている。よりよい『楽園(エデン)』のために、どうかこれからもご助力賜りたい』と述べたようだ。
 紗夜子に言わせると、「あれだけゼータクな生活してるんならこのくらいは言わないと体裁悪いよね」だ。第三階層の人々は税金で生活しているようなものなのだから。
 続いてざっと目を通したその片隅に、事故の報道が出ている。こちらはもちろんエデン運営関係とは扱いが違うが、大きい方ではあるだろう。『運搬車両事故 UG犯行か』とある。場所が近い。通学路だ。
 一つの事故の記事がこういう扱いをされるのは、今日が五年前、UGによる大規模な同時多発テロが発生した日だからだ。第一階層の色々なところで、たくさんの人が死んだという。
 十二歳だった紗夜子はおぼろげにしか覚えていないが、UGが何を考えているか分からない人たちだと思った記憶はある。大量虐殺をしたいだけだったのか、エデンを騒がせたいだけだったのか。しかし、この事件以降、UGは以前にも増して忌み嫌われる集団の称号となった。
 新聞を畳むと、コーヒーを飲み干し、鏡を持ってきて化粧を開始した。そして髪型を整える。
 今日は後ろにまとめて全部アップにして、少しだけ値段の張る髪留めで留めることにした。こうすると顔が少し大きく見えるのが悲しいが、印象は『きちんと』して見えるはずだ。『上』に行くときは、今緩めているブラウスもネクタイも、腰で折っているスカートも直さなければいけない。

 そうこうしているうちに七時前。戸締まりをして家を出る。二階建て5LDKの我が家には紗夜子以外の住人はいないから、挨拶もなしだ。
 紗夜子の通う、第一区第一高等学校までは、徒歩十五分。通勤する人々、登校する学生に混じり、あくびを噛みつつ歩く。
「おはよう、エリシアちゃん。いってらっしゃい」
「おはようございますーいってきまーす」
 近隣の家の奥様方が好奇心に溢れた目で挨拶をしてくれ、返しがてら愛想を振りまいておいた。一軒家に一人住まう女子高生、家族の影が見えないのはさすがに知られていたから、あくまで普通の女子高生として、無害な顔をしなければならなかった。
 住宅街を抜け、ビルの立ち並ぶオフィス街を突っ切っていく。もう開いている飲食店からおいしそうなにおいが漂ってきていた。放送局、銀行、郵便局と通り過ぎる。
 信号待ちで風に遊ばれる前髪をいじっていると、向こうの方に車止めが置かれているのに気付いた。そういえば事故現場なんだっけ、と見えはしないが一応首を伸ばしてみると、昨日の出来事のはずなのにまだ警察官がうろついている。UGを警戒しているのだろう。
(この前髪はねるなあ)
 苛々と目を上にやると、空が見えた。今日は少し湿気ているからだろう、薄く雲のかかった、第二階層の段々が眺められる。その上は風の加減でもなかなか見通せず、存在するはずの第三階層ははっきりと捉えられなかった。

 エデン。あるいはオブ・イースト。それがこの街の名前だった。三段重ねのケーキのようになった、階層都市である。
 第一階層は、一般の、多くは勤労者が暮らしている階層。第二階層は都市運営勤労者といって第一階層より都市運営に関わる者たちが暮らし、第三階層は都市運営者と呼ばれる政治家たちの富裕階層だった。
 この階層社会に不満を持たない者などいないというのは、第一階層者の共通認識だった。上から見下げられていると思う者もいる。そういう言葉はインターネットに流布している。紗夜子もそうだった。だが、このように都市が運営されてすでに何百年も経っており、それまで細々と山奥や森中で暮らしてきた人々が、機械化の恩恵を受け、社会的にも文明的にも発達し、それを享受してきたのだから、大きく不満を口にすることはできなかった。

 ざ、ざ、と足音が聞こえるのに気付くと、人の群れが背後から押し寄せてきていた。低い、擦るような足音による行進と、プラカードを持った人々だ。
 マジックで強調するように荒く、太字にされた文句は「UGの殲滅を!」「第一階層の平和をとりもどせ」「『犯罪者』を許すな!」といった内容のものだ。時折、その言葉を叫び、遅れて人々が合わせて繰り返す。五年前の事件の日が今日だというのが理由だろうデモ行進に、事故現場の警察はちらちらと目をやっているようだ。
(……UGって、何がしたいのかな)
 エデンを乱すような犯罪をして、暴れたいだけだというのが理由だろうか。人の命を奪って、憎まれて、その先に何を目指しているのだろう。
 エデンというのは名前ばかりで、第一階層は搾取され、第二階層は道具扱いで、第三階層はそれらを踏み台にして生活している。UGは安定を乱すように犯罪を犯し、紗夜子は、不満を持ちながらこうしてそれでも豊かな文明の恩恵を受けて生きている。
(この世界って、何なんだろう)
 大切な何かを奪われたような、暗い足音を聞きながら考えていた。

 ぼうっとしていたのだろう、後ろから押された。信号が青に変わったのだ。思わずよろけると、前からも人が来ていて、ぼんっ! とひとさまの胸にぶつかる。
「……たたっ! すみませんー」
 鼻をぶつけたので顔を押さえながら見上げ――笑顔が引き攣ってしまった。
 ものすごく、目つきが悪い。
 ぶつかった相手は男の人だった。金色の髪に、鋭い目つき。着ているものはチェーンがじゃらじゃら下がっただぶだぶのズボンとタンクトップで、肩に軽くジャンパーをかけているが、袖を通していないために剥き出しのむきむきの左腕には大きな刺青が入っているのが目に入ってしまう。その姿と目つきさえなければ、ちょうかっこいい! とフィオナとナスィームと叫んでしまいそうなのに。
「あ?」
「ごっ、ごめんなさい!」
 短くも不機嫌で暴力的なものを感じる一声に、一気に青ざめながら咄嗟に頭を下げて走り出した。
 と、腕を掴まれた。
「っ!?」
 ぎょっと振り向いた。しかし背後の横断歩道で、クラクションを鳴らしながらトラックが通り過ぎていく。慌ててもう一度そちらを見ると、信号は赤になっている。
 手が離れた。
「あ、あの……!」
 道路に飛び出そうとしたのを助けてくれただろう。けれど刺青の男は振り向きもせずに行ってしまった。
「あ……」
 紗夜子は伸ばしかけた手を下ろすしかなかった。
 ああ見えて、実はいいひとだったのかもしれない。
(それにちょっと……けっこう、かっこよかった)
「エリシア!」
 胸が暖かくなるくらいどきどきしてちょっとだけ気分が上向きになったところで、そう呼ばれた。明るい巻き毛の少女が、にこにこと駆けてやってくるところだった。顔が緩んでしまった。
「フィオナ! おはよう!」
「おはー。どうしたの? 信号待ってるんじゃないの?」
 進行方向を見ていなかったことを指摘されて、紗夜子はさきほどのことを説明した。
「刺青で目つきの悪い、でもかっこいい男? ふうん、刺青ねえ」
「ちょっとどきっとした。因縁つけられるんじゃないかってさあ」
「まあ、みんな、おとなしーくしてるのがエデンだし。わざわざ悪そうに見せてるそのひとって……」
 道を横断しながら、フィオナはきらきらグロスの口ににんまり曲げた。
「アンダーグラウンドだったりして」

 三つの階層があるエデンには、もう一つの階層の噂がある。犯罪者の掃き溜め、表に出てこられない者たちの巣窟。犯罪と暴力と不秩序の世界、アンダーグラウンド。その世界の人間が、時折エデンに現れては秩序を乱す。彼らは、自分たちをその世界と同じ名称UGを名乗って、犯罪、殺人、テロを繰り返す。

 紗夜子は自分もリップを塗った唇を歪めた。
「UGだったら、都市監視者がどこかにいるんじゃないのー?」
 これまた都市伝説のひとつ、人々の行動を監視して報告しているという噂を口にするとフィオナはあははと笑って、あくまで噂を口にする紗夜子の肩を叩いて走り出した。待って! と叫びながら、紗夜子もそれを追いかける。


      



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