第一階層は主に成績によって進学先を決める。自身の成績より上位の学校には、特別な試験を受けるか、政府から認可されなければ、志望することはできない。他の階層、第二は業種、能力別。第三は英才教育の巣窟で学校は一校しか存在しない。
 紗夜子の通う第一区第一高等学校は、全校生徒五百名ほどで、第一という意味の通り、第一階層第一区の高校では最高レベルにある普通科高校だ。

 今朝からなんとなくいやな予感がしていた通り、現国、現社、数学の抜き打ちテストが重なった。あんまりな事態に、次第にクラスは明るさを失っていき、五限の体育に至っては着替える気力すらない状態だった。紗夜子の場合は、これが終わったら『上』に行かなければならないので、段々胃が重くなってきている。
 五時限目の体育は、今日は床運動だ。体育館のあちこちでは、クラスメートたちの「できなーい、むりー」の声がしている。
「つーか、エリシアなんでできんの」
 クラスメートの一人が、練習の合図から逆立ちを続けている紗夜子に言った。
「小さい時に、いっぱい練習したからかなー」
「それで声出して辛くね?」
「つらい」
 じゃあ止めろよーと笑い、逆立ちを諦めた彼女たちは座り込んでだべっている。紗夜子は腕を曲げて前方へ一回転、勢いのままちょこんと座り込んだ体勢を取り、一拍置いてから立ち上がって、両手を上げてポーズを取る。拍手を貰ってちょっと嬉しい。期待に答えてマットの上で側転をすると、また拍手。ピースで答えた。
「エリシアって勉強もできるし、運動もできんだね。すげー優等生」
 それは教育の賜物だよーとは言えないので、あははと笑うだけに留める。どこで、とは言えないからだ。
 すると、フィオナがけたけた笑い、ナスィームが手を振った。
「まあ、どんなに優秀でも、あたしたち第一だし」
「そうそう。プロは第三に任せとけってね」
 ぎゃはは、という声がしてみんながそちらを向いた。
 男子がボールを使っている。床運動の授業のはずだが、倉庫を開けてバスケットボールを取り出してきたらしかった。ばあんばあんと、ボールが跳ねる音が響く。その間にうずくまった男子の呻きと、ぼこっとボールが身体にぶつかる嫌な音がして、女子一同は鼻の頭に皺を寄せた。
「みっともない。イジメかよ」
「あいつら最近調子乗ってるよ。UGに顔きくとか言ってさ」
 言いながらも、助けには行かない。ボールを繰り返し投げている彼らが、この学校の実力者であることは間違いないからだ。
「高校出たらUGになんのかな」
「それしかないんじゃない。あいつらの才能なんてたかが知れてるよ。UGになって死刑にされるのがお似合いだよ」
 UGは裏社会を牛耳っているらしく、不良たちは暴力団以上の支配力を持つ彼らの後ろ盾を欲しがったりするようだ。だがUGは、自ら名乗るか、犯罪者でも過度の犯行によってUGと認定された場合、死刑となるのだった。
「自分から落ちなくてもいいのにね」
 二人が会話を止めて紗夜子を見た。
 第一階層の人間はあくまで一般市民だ。それ以下にはなれても、それ以上にはなれない。
「明るいところにいられるんなら、それが一番幸せでしょ。……って、この前読んだ小説に」
「ってなんだ、小説か。相変わらずエリシアは変わったこと言うなあと思っちゃった」
「どんな話?」
「殺人を犯した男を追いかける、年下の幼なじみの女の人がいるんだけど、この男が『お前にはオレの気持ちが分からないだろう』って言うの。そしたら幼なじみが殺人を犯そうと計画を始めて、男がこれを必死になって止めようとする」
「へえ。面白い?」
「うん。面白かった」
 罪を犯して闇に落ち込んでいく男を救おうと、女は手を伸ばす。しかし手が届かないから、女は男と同じところに落ちて手を伸ばそうとする。彼女が光の中にいることが救いでもあった男は、女の計画を邪魔しようとする。もつれ合うようにして二人は追いかけっこを繰り返す。そういう話だった。
「あんまり面白そうに聞こえないよー」
 説明を聞いたフィオナがけたけた笑った。その笑い声を聞きつけたかのように教師が戻ってきて、男子たちのいじめに似たそれは終わった。



 更衣室で鏡を見ながら髪をまとめ直す。ブラウスのボタンをすべて留めようとして、ちょっとだけ考えて開けたままにする。
 身支度を整えるのは、直前で構わないだろう。みんなのいるところできっちり着込むのは、自分でないように思えてしたくなかった。
「エリシア、今日用事あるんだっけ」
 ファンデーションを塗り直しながらフィオナが言う。
「終わったら家においでよ。母さん、今日はシチューって言ってたから」
「いいなあ、シチュー。あったかそー」
 ナスィームが言い、フィオナは肩をすくめた。
「母さん、エリシアのことになると甘いからねえ」
「シチュー嬉しい。おばさんのシチュー好きだよ。おふくろの味って感じで」
 白くて甘い、優しいシチューのように、フィオナの母親もいいひとだ。あの人がいなかったら紗夜子はこうして育たなかった。
「あたしも食べたいなあ」
「じゃあおいで。ちゃんとおばさんに言ってからね」
 そう言っている二人も、紗夜子にとっては大切な友人たちだ。ふふっと笑うと、一人笑いはきもーいと言われて、更に笑った。
「エリシア。おせっかいかもしんないけどさ」
 フィオナが声を落として言う。
「気をつけなよ、エリシアちょっと変わったとこあるから。UGの肩持つとこあるよね」
 驚いた。
「肩持ってた?」
「持つってほどでもないけど、あんまり悪くも思ってないでしょ、違う?」
 ああ……と思った。そうかもしれない。
 憎まれるほどのことを彼らはしているけれど。その憎しみは向けられて当然だと思っているけれど。
「UGは、私たちの不満が固まったものに思えるよ」
 フィオナは変な顔をした。
「なに、それ」
「……私にも分かんないや」
 紗夜子は曖昧に笑い、ロッカーの扉を閉めた。

 終礼後、学校を出て二人と別れ、紗夜子はバスに乗った。階層が重なる中心部にほど近いところは、少しだけ発展しているように見える高層ビルが多く建ち並んでいる。それでもここは第一階層で、高いところの雲のかかる世界がどこからでも眺められる。
 落ちるのは簡単。昇ることは不可能。楽園とは名ばかりで、階層ごとに世界は完結しているように思えた。第一階層は人間の国。第二階層は巨人の国。第三階層は神の国。
(じゃあ、UGは……)
 眺めていた窓、車の横を大型バイクが唸りをあげて走り去っていくのに、考え事から気をそらされた。
 バイクは数台続き、物凄い騒音をあげていく。乗客が戸惑った刹那、バスは急停車し、ほんの少しだけ立っていた人々が大きくつんのめった。
 車中が騒然とする。聞こえてくるのはバイクの排気音だ。運転手も狼狽えているのか、何も言うことが出来ずただクラクションを鳴らすだけで、辺りは騒音の嵐になった。
 突然、ドアが叩かれる音がした。ヘルメットを被ったライダーが、開けろと迫っているのだ。乗客が悲鳴を上げて、バスの中央に集まる。ほど近い席の人も立ち上がって逃げ出した。
 すると、ものすごい音を立てて硝子が砕け落ちた。鼓膜が破れるのではと思うほどの音に、悲鳴が混じった。
 窓硝子が割れたのだ。
 煙のにおいが充満する。
 壊れたドアをこじ開けて乗り込んできたライダーは、入ってすぐ後ろの席で呆然としている紗夜子に目を向けた、ようだった。
 ヘルメットのせいで顔が分からず、紗夜子が反応しようとした次の瞬間、素早く近づくと手を掴んで飛び出したからだ。
 急行した警察車両が、滞った道路を縫ってやってこようとしている。紗夜子はバイクに乗るよう手で指示される。その後ろで銃を撃っている人間がいた。バイクが走り出したので状況が分からなくなったが、紗夜子の乗った二輪はあっという間に速度を上げた。
 ここまで、紗夜子は何にも考えることができなかった。考える暇もなく銃が乱射され、目が合い、いきなり連れ出されて、バイクに乗せられている。彼らが何者なのか、一体どうなるのかという不安は、膨れすぎて破裂したために感じられていなかったらしい。
 バイクは人気の少ない路地に突っ込んだかと思うと、しばらく進んでから、急に停車した。ライダーがフルフェイスのヘルメットを脱いだ途端、紗夜子は、あっと声を上げた。


      



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