「あなた!」
「あ?」
 柄の悪いその声は、今日聞いたから間違いない。綺麗な顔をしているのに目つきが悪いのも。
 今朝紗夜子とぶつかって、助けてくれた人だ。
 男はそれでも手を止めず、ライダージャケットを脱ぎ捨てる。二の腕から手首には黒い波のような刺青があった。
 男は、紗夜子の手を取ると走り出した。
「ちょ、ちょちょちょちょ、ちょい待ち!」
 引き止めようとしながら叫ぶ。彼はちょっとだけ歩調を緩めたが、止まってくれる気配はない。しっかりと手首を掴む指を引き剥がそうと、その骨張った指をこじ開けようとするが、全然、緩まりもしない。
「あなた誰!? 私をどうしようっていうの!」
「人質だ」
「味気ない返答! 分かってたけど!」
 彼は首を傾げた。
「じゃあ……飽きたらポイッとする予定の、人質だな」
 さーっと紗夜子は青ざめた。捨てられる。埋められる!
 すると、彼は肩を震わせ始めた。くつくつ、という声が、次第にけらけらと大笑いになっていく。
 思わず赤面した。
 こんな状況なのに、なんて楽しそうに笑うんだろう。
「ばーか。んなわけねえだろ。これでもレジスタンスだぜ」
 レジスタンス? そんなわけあるか!
「や、やってたのテロじゃんー!」
「うるさいな、お前。もうちょっと静かな奴にしとけばよかった。見た目と全然違うじゃねえか」
 紗夜子は顔をしかめた。
「褒めてるの? けなしてるの?」
「好きに取れば? おら、埋められたくなかったら俺と腕組め。離れるんじゃねえぞ、かっこいい彼氏くらいの気持ちでくっつけ。騒いだら承知しないからな」
 はあ? と言いたかったのだが、見下ろされて目を細くして睨まれるとどきりとした。殴られればただではすまないし、相手は銃を乱射したような人間だ。
 結局、言われた通りにする。
「っ!?」
 しかし、左腕に触って驚いた。びっくりするほど、冷たい。
「おら、行くぞ」
 指示した割には最終的に、自分で無理矢理紗夜子の手をつかんで、男は歩き出した。紗夜子はこわごわと、体温のない腕に掴まる。
 死人のような腕だが、冷たいだけで、触った感触も見た目も普通の人間の腕だ。
(生体義肢? にしては……すごくよくできてる)
 本物と変わらない義手や義足を作る技術は、エデンでは特に発展してきたテクノロジーの一つだ。専門家と定期的なメンテナンスを必要とするが、つけている人間は少なくない。かかる費用は高額ではあるが、一般的に普及している。
 でも今触れているこの腕のような、まったく作り物と分からない義手を見たことがなかった。
 路地は終わり、大きな通りに出た。白バイが数台通り過ぎていく。検問が行われているらしく、道路交通の流れは悪い。
「……なんでバスに銃乱射?」
 すれ違う人に聞き取られないよう、ぼそぼそと聞いてみる。
「エデンの【女神】がどう動くか見たかった」
 答えてくれないかと期待はしなかったのにすんなり答えが返ってきた。きょとんと問い返す。
「『女神』?」
「エデンの統括」
 理解した。
 エデン創設者の最大の発明が統制コンピューターである。一般的に、マスター、もしくは統制、統括と呼ばれることが多い。十年ほど前にアップデートしてからは【女神】の通称でも呼ばれる。急速に文明化した都市エデンの、すべてのネットワークを管理下に置くためのスーパーコンピューターだ。
「あのバスに乗ってたじじいが、俺らの個人情報とパスコード持ってったから回収。ついでに警察がどう動くかシミュレーションと、どんな風に情報が伝達されるかの確認」
 紗夜子は呆気に取られた。
「そんなにぺらぺら喋っていいの?」
「別に誰にも言わねえだろ? 俺たちクリーンなレジスタンスなんでね」
 特に公的機関に言う義務もない気がするので、納得する。
 ちらりと思ったのは、彼らが紗夜子の素性を知らないのだろうということだった。出自が知られれば大事になる気がする。でも、それもいいかもしれない。

 三つの階層と階級の都市エデンは、もう人々の求める楽園じゃない。
 世界は、変化すべきだ。
 ――その時は、退屈な日常に変化を求めるような気軽な気持ちで、そう思っていた。

 だから、にやっと笑った。
「分かった。共犯になる」
 驚いたように目を見開いた彼は、次にふっと唇を歪め、眉を上げると、腕を組んで堂々と警察が検問を行っているすぐ側の歩道を歩く。彼にわざとしがみつくようにして、紗夜子はくすくす笑った。
 すると、今朝見たのとは違うデモ行進とでくわした。こちらの人々には勢いがあり、声が大きく、道行く人たちが少し恐がったように避けながらすれ違っている。
「UGに権利を与えるなっ!」
「犯罪者UGを許すなー!」
「平和を守れーっ!」
「エリシア・ブラウン……第一区第一高校の二年か」
 デモ行進に目を奪われていて、え、と思ったら、彼の手の中には小さな手帳がある。はっとして胸のポケットを探ると、ない。
「いつの間に!」
「手癖が悪くてな。勝手に動くんだよ。おお、がきんちょの顔だ」
 投げられた生徒手帳を慌てて受け止め、ポケットにしまう。ちょっとだけほっとした。本名で登録されていなくてよかった。でも、証明写真がいただけない。二年前のものなのだ。
「……ずいぶんフリーダムな手ですこと」
 顔写真を見られたことをちょっと根に持つと、ふふんと男は笑い、指をぱらりぱらりと動かしてみせた。
「そりゃあ、こんだけ鍛えれば、なんでもうまくこなせるぜ。銃も撃てりゃ、小遣い稼ぎも出来るし、女を喜ばせることだっ、」
 ばふん、と紗夜子の鞄が脇腹にヒットする。咄嗟に掴んで持ってきてしまった通学鞄だ。「うぐ!」と悲鳴を上げた男は、恨めしそうに紗夜子の鞄を見た。
「セクハラ禁止!」
「何入ってんだそれ」
「教科書及びノート、国語辞典と英和辞典」
「そんなん下げて歩いて、腕でも鍛えんのか。おら」
 二の腕をぷにっと握られ、紗夜子は再び鞄を振り上げたが、今度は防がれてしまった。紗夜子は指先の感触で真っ赤のまま「さわるなー!」と叫んだ。

「……えらい楽しそうやなあ、トオヤ」
 紗夜子はまばたきをした。
 気付けば隣に立っていた男を、「ジャック」と傍らの彼は呼んだ。
(……うわー、派手なひと)
 ジャックと呼ばれた男は、背が高く、ドレッドの髪をまとめて、サングラスをかけ、派手なシャツを着た人だ。少し荒っぽい雰囲気があって、この人もかっこいい。でも、しゃべり方のイントネーションがちょっと変だ。
 その人は、じいっと紗夜子を見下ろし、顔を近付けてきた。ちょっと恐くて首を竦めると、にこおっ、と嬉しそうに笑われてしまった。
「かっわいーお嬢さんやなあ。あと二年もしたらすっごい美人になるで。俺が保証するわ。今から俺が予約してもええ?」
「よ、予約?」
 鸚鵡返しに尋ねると、顔がすっと近づいて、頬に温かなものが触れた――気がしたが、触れたのは、唇ではなく、手袋に包まれた堅い手のひらだった。
「おい、ジャック。お前、人質口説きにきたわけじゃねえだろ?」
 寸でのところで紗夜子の頬の上に手を置いた彼は、呆れたように言いながら、紗夜子を庇うように半歩前に出た。ジャックは、悪びれない顔でにこにこしていた。
「まあな。そろそろ終了やって。おっさん回収完了。お嬢さん解放していいんちゃう?」
「おっさんはいらねえけどなあ」と言いながら腕が解ける。二人の顔を見比べていると、彼はすでに背を向け始めており、代わりのようにジャックがにっこりした。
「連れ回してごめんな。お嬢さんの素性は警察に知られてないみたいやから、見つからんうちに帰ってな。これでなんか食べ。協力ありがとさん」
 大きな手がお札を押し付ける。見れば万札が三枚もあった。
 デモの声が遠くに聞こえる。
「また会いたいけど、もう会わん方がええやろうしな。ばいばい」
「ちょっと! ねえ……!」
 耳を掠めるように別れの言葉が囁かれた。手の中のお金と、突然の別れに戸惑って声を発したのに、手を上げるジャックが見えただけ。トオヤと呼ばれた刺青の彼は、背中も見えなくなっていた。
「…………なんなの、もー!」
 なんだかとんでもないことに巻き込まれかけた気がしたが、それに突っ込む前に、あちら側から押し返されたような気がした。


      



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