彼は、しばらくその手を見つめていた。先ほどの感触を思い描き、それが確かなものか考えていた。
「どしたー手ぇばっか見て。さてはさっきの子の感触思い出してるな? わーエロー、セクハラー。確かにめっちゃかわいい子やったけどー」
「なあ。普通の女子高生って、筋肉あるか?」
真顔で聞いたことに、相手はサングラスの向こうの瞳を瞬かせる。けったいなこと聞くなあ、と彼は頭をかいた。
「スポーツやってたらあるんとちゃう? あとは、趣味かなあ? 身体鍛えるのが趣味の女の子もおるやろ」
それがどしたん、と不思議そうに尋ねられ、彼は振り返った。滞りない人ごみに、少女の姿はない。ブレザー越しの感触だったが、あの二の腕は細くはなかった。なかったが、ただの贅肉でもなかった。
「……あいつ、やけに身体が出来てた。まるで、鍛えてるみたいな」
*
毎回の待ち合わせ場所であるホテルのロビーには、もうすでにスーツ姿の女が座っていた。紗夜子が意識的にゆっくりと近付くと、彼女はぱっと光をまき散らすような優雅な所作で立ち上がる。
金髪と赤い唇の、スーツなどに収まっているのが不思議なくらい婉然とした女性。父の秘書のエリザベス・フレイザーだ。
「お待たせしました」
本当に待たせてしまったのだ。時計は、約束の時間をすでに一時間過ぎている。だが、エリザベスは華やかに笑うだけだった。
「いいえ。では行きましょうか」
そう言って歩き出した彼女は、すれ違い様にちらりと紗夜子に目をやった。目が合う。
「……何か?」
「いいえ……」
含みのある声で否定する。口元が笑っているので、嘲笑されているようで嫌な気分だ。
導かれたのは、第一階層の奥に位置する階層エレベーターだ。エリザベスがいるために、紗夜子はこれを使うことが出来る。彼女がいなければ近づくことすらできない代物だ。
四角い箱の中、エリザベスから離れた位置に立つ。電灯がつき、音楽が流れる。この嘘っぽさが気を重たくする。乗ると違和感を覚えるのは、エデンの掟に似た言葉に由来するからだろう。――『降りることはできるが、昇ることはできない』
音楽が鳴り止み、扉が開く。その光景に、紗夜子はいつも慣れることができない。
まるで空中庭園のような美しい場所。道路が広く取られて、木も植わっているが、人の姿はない。この辺りを徒歩で移動する人々がいないからだ。だからゴミも落ちない。清掃ロボットが定期的に巡回していることもある。
天空の庭。支配者の国。第三階層。
紗夜子は待たされていた車に乗り込んだ。エリザベスが隣に乗り、車は進み出す。中心部に位置する高遠氏の屋敷へだ。車中に会話はなく、憂鬱な気持ちなのを、フィオナの家で今日の夕食に出してもらえるだろうシチューを思いながら紛らわそうとする。
屋敷の門が開き、車はゆっくりとスロープを上がっていく。玄関前に横づけた車に、屋敷の者がやって来てドアを開けた。
紗夜子は大きな玄関ホールの中心に立った。紗夜子の身分では、この屋敷を自由に歩き回ることはできない。許しがなければ座ることすら許されない。エリザベスは恐らく主人のもとへ行ったのだろう。
だから一人きり、歩けば音が大きく響くような場所で待っていると、かつかつかつ、と音を恐れない靴音が響いた。
現れたのは妙齢の女性で、白衣の下にスーツを着ていた。階段を下りようとして、紗夜子に気付く。その顔はまず最初に不快感を表した。紗夜子は静かに「お久しぶりです」と口を開いた。
「……そう、もう一ヶ月ね。お前の可愛くない顔を見る日だわ」
紗夜子の方こそ、顔を見ないで済めばどれほどいいか、と思う。
上から、見下げた声が降ってくる。
「わざわざ顔を見せなくていいのよ。あたしたちに関わらないでほしいくらいなんだから。ねえ、『エリシア』」
「亜衣子姉さん……私は、紗夜子です」
「ええ知ってるわ。高遠を名乗れない、父さんに捨てられた子ども。『エリシア』」
反論は弱々しく、意味をなさない。亜衣子を前にすると、紗夜子は何も言えなくなる。
過去の事件は、家族を壊し、紗夜子の存在をこの第三階層から消し去った。紗夜子は高遠を名乗れず、父が手を回した『エリシア・ブラウン』という架空の存在になっている。
力なく項垂れる。
だから、自分が本当に生きているのかも怪しかった。
そこへ、重たい靴音がひとつ。続いて軽快なハイヒールの音。
「……約束の時間も守れん、愚か者の恥さらしが」
紗夜子は背筋を震わせ、拳を握った。言葉の杭を打たれ、磔にされた気分で、絶え絶えに息を吐き、なんとか見上げる。
現れたのは、三氏に数えられる高遠家、その現当主である父、クウヤ・タカトオだった。
高遠氏は階段を下り、亜衣子に「仕事は」と短く尋ねた。
「これから研究所へ戻ります」
「あまり無理はするな」
「はい」と答えた亜衣子は、優越を浮かべて紗夜子の横を通り過ぎていく。紗夜子はただ、父から視線を逸らせずに言葉を待った。父は、娘を上から下まで眺めて吐き捨てた。
「制服もろくに着れんのか」
みっともないと言われ、はっと気付いた。ブラウスのボタンを留めるのも、ネクタイを締め直すのも忘れていた。スカートは短く、とても校則に従っているとは言えない。
制服を整えながら、恨めしくエリザベスを見た。紗夜子の身なりに気付いていたであろう秘書は、愉快そうに微笑んでいるだけだ。
「成績は届いている。今以下の成績になることは許さん。高遠を名乗らんからと言っても、その血を宿して生まれた義務は果たすべきだ」
名乗らなければ、成績を保っていても意味はない。姉のように英才教育を受けて、都市運営にたずさわる研究者になるわけでもないのに、このままトップをキープしても、結局は意味もなく生きていくだけだ。生まれた意味なんてないのに、義務なんて、と笑い飛ばしたいのに、父を目前にすると、悄然と肩を落とす選択肢しかないのだ。この人の言葉は、紗夜子の自由な言動を奪う。
これは、罪と罰の枷なのだから。
「分かりました……」
肯定しか許されない。高遠は、そのままエリザベスを引き連れて紗夜子の前を去った。