三つの扉を抜け、鳥かごに足を踏み入れる。
　雷雨が来るために、中は薄闇に包まれていた。明かりもない。ライトもないのは、恐らく白い鳥の趣味だろう。闇に沈んでいる草木は、眠たげというよりどこか虚ろで、薄気味悪く見えるが、今はその不穏さが馴染んだ。
　中央に近付くにつれて、落ち葉が多くなってきた。落ち葉だけではない、枝や、花びらや、土が、荒らされたように撒き散らされている。一瞥すれば、人の手によって折られたものと分かる。がり、と不自然な感触に足をどけると、陶器だった。復元すればカップになるだろう。
　鳥かごの中がそれまで保たれてきた平和を失っていても、ジャンヌは恐れなかった。この姿の方が、むしろ安心できる。彼の心を表しているもののように思えるからだ。取り繕った平穏より、素直な荒廃の方がいい。
　テーブルは横向きに転がり、椅子は横倒しになっていた。むしったのか、鳥の羽や昆虫の羽が散らばっている。カップと組みになっていたソーサーの破片が、この闇の中で光っている。天蓋の布は引き裂かれ、シーツは乱れ。その上に人はおらず、探してみると、床の上に髪を流して、疲れたように縮こまる人間がいた。
「ついに狂ったの？」
　応答はない。そうだろうと思ったので、ジャンヌはヒールを鳴らし、ベッドに腰掛けた。マットレスが弾む。足を高く組み、手に顎を載せた。
「癇癪を起こして、子どもみたいね。鉄格子を掴んでがくがく揺さぶるだけの動物。鳥かごの中で手足をばたつかせる鳥。どっちにしたって、物に当たるよりましかもしれないわね。あんたは運命にあらがえなかったの？」
　さっと首を傾ける。避けたところを、食器が通り過ぎていった。　
　投げた人物は、髪を垂らし、床に這いつくばるようにしながら、こちらを睨んでいた。銀の瞳が獰猛に光っているが、狂っているわけではなかった。ただ、どうしようもない怒りとやるせなさがある。
「知った口をきかないでもらえますか」
「この期に及んでその口調なの？　あんたの理性ってどっか間違ってるわね」
「……うるさい」
　ジャンヌはにやりとした。
「そっちの方がいいわね」
「うるさい！」
　今度はフォークが飛んでくる。

「人間を模した薄気味悪い人形が運命を語るな！」

　それがあんたの本音か。

「あたしは【魔女】よ。魔女が気味悪くなくてどうするの。古今東西、魔女は悪しき者と相場が決まっているのよ」
　嫌悪に銀の瞳が光る。ジャンヌは高慢に笑った。
　そんな人間が、あたしのことを愛が知らないと言うのなら。
　あたしは決してそうでないと証明してやる。
　右手を差し伸べた。
「来なさいよ」
　筋組織に命令して、笑みを浮かべる。
　母のように。
　姉のように。
　妹のように。
　恋人のように。
　娼婦のように。
「愛を教えてあげる」
　瞳をすがめて、彼は初めてジャンヌを異物と見た。ロボットでも組み敷きやすい人間でもなく、訳の分からない何かとして認識したのだ。
「……お前に、何が分かる？」
「あんたの分からないこと」
　当然でしょう、とジャンヌは笑う。
「あたしとあんたは別の存在。同一個体、同一意識でなければ、認識の不一致は確実に存在し得る。って、あんたが聞きたいのはそういうことじゃないわね」
　本気で怒らせるぎりぎりのラインから飛び退いた。
「あたしはある分野における愛の定義をそらんじることができる。あんたができるように。でもあたしには愛の定義ができない。あんたにできないように。でも、それでもあたしは、あんたを救いたいと思う」
　だから。今度は左手を上げた。
　愛について語る箱庭の二人。ああ、どこかで聞いたような話だ。ジャンヌが携えているのは、さしずめ罪の実か。この無垢を装った人間とともに堕ちていくだけなのか。
　いいえ、あたしはそうはならない。
「――いらっしゃい」
　そうして、ジャンヌは手招いた。

　抱き合った。堕ちていくのか、昇っていくのか。それすらも分からず。ベッドの中で、ジャンヌは一言だけ呟いた。

「訂正。悪しき者なのは、女ね」



　　　　　＊




　起き上がり派手なスーツを身に着けたジャンヌは、いつものように髪を手で軽く梳いて、襟を正した。気だるげに起き上がったオメガ＝フォーに言う。
「ほら、さっさと準備して」
「……準備？」
「髪は長過ぎて面倒だから置いておいて、服くらい着てよ。でないと外に出られないでしょう？」
　男は訝しげになった。「早く！」とせき立てるとのっそりと身体を起こし。
「……不感症のくせに、もう女房気取りですか」
　と言ったので、ジャンヌに背中を蹴り飛ばされる。
　大人しく着替えを終え、嫌みなくらいもつれのない髪を流して、「それで？」と彼はジャンヌを睥睨した。
「何をするつもりです？」
「あんたをここから出すのよ」
　その回答を予測していた顔だったが、うんざりしているようだった。ジャンヌは言った。頭の中でエリザベスと接続し、彼女の目が見ているものを見ながら。
「できるのよ。今、エリザベスがここのカメラを切ってるわ」
「【女神】に造反するのですか？」
「ちょっとした子どもの反抗よ。あたしたち、反抗期まだだしね」
　もうどうにでもなれという顔を、男はした。

　パスワードはジャンヌが持っている。監視カメラを切り、映像をすり替えてしまえば、かごの中の扉は簡単に開けることができる。疑惑だらけの顔をしていたオメガ＝フォーも、ジャンヌが何の障害もなくパスワードを打ち込み、それが認証されていくのを見て、不思議そうな顔つきになった。
　最後の扉が開く。通路で真っすぐに吹く風に、髪をなびかせ、額を晒して、彼はそこへ一歩を踏み出した。
　空を見上げ、それが何なのかを確認するように眉をひそめ、手のひらで風を掴もうとする。地面を見下ろし、足を動かして土のざらつきを感じていた。肺に湿った空気を見たし、自分の鳥かごを囲む森を見る。
「僕を外に出して、それで？」
「どうしたい？　あんたに任せるわ」
　オメガ＝フォーは顎に指を添えてしばらく考えていた。
「……第一階層に降りたいと思います。できれば、そのまま戻りたくはないですね」
「だったらそうしましょう。でも、生活のあてはあるの？」
「パソコン一台と少々の資金と、この頭があれば、なんとかできますよ」
「大層な自信ね。落ちぶれたりしないでよ」
「あなたも」
「言うわね。……車が来たわ」
　乗用車が一台、道をやってくる。運転席に座っているのはテレサだった。二人の目の前に停車すると、不機嫌そうに車を降りて腕を組む。
「ありがとう、テレサ」
「【女神】に反するようなことはしたくないのですが」
　そうは言いながらも、一度ハンドルを切ってすぐに道に出て行けるように前後を入れ替えたのだから、テレサの几帳面さがうかがえる。
「分かってるわよ、ありがとう。あんたはここにあたしを迎えにきただけ。ここからはあたしが運転していくわ」
　行きましょう、と声を掛けて乗り込んだ。そのガラスを、手の甲でこつこつと叩いて、テレサが身をかがめた。
「ダイアナから伝言です。伝わっているとは思うがハッキングは五分も持たない、と」
「了解」
「まるで計画していたかのような速さですね」とオメガ＝フォーが言う。
「そりゃあ、あたしたちはお互いの感覚を共有できる機関があるからね。許可すれば、視覚と聴覚を共有できるのよ。あ、安心して、中でのことは見られてないから」
　オメガ＝フォーはむすっとする。
「……そんなことは聞いてません」
「はいはい、悪かったわね。それじゃ、行くわよ」
　滞りないスムーズな運転で、特に速度を上げるわけでもなく、冷静に道を走った。車の運転は学習させられたが、実際に道を走り、第三階層から第一階層へ降りることはジャンヌとしての経験では初めてだ。しかし、どこにでもある管理機器やコンピューターを順番に捉えていけば、初めてだが知らないところではないという認識ができるようになる。これから行く第一階層の地図も、風景も、カーナビやカメラによってジャンヌの知識となっている。
　車は研究所の専用で、ホストコンピューターに偽造の借用記録を作って持ってきたのだ。車中で、ジャンヌはわざと話しかけなかった。オメガ＝フォーの中では、自分の知識と実際の景色との照会が行われているに違いなかったからだ。晴れていたらそれなりに綺麗に見えたのにね、と思う。本当は、もっと長く見せてあげたかったのだが。
　表玄関に当たるエレベーターではなく、外側からは見えないように作られている作業専用エレベーターを使う。第三階層は、高いところにあるだけあって、崩れ落ちないよう万全の注意を払うために、常に整備を必要とする。そのため作業員の出入りが激しいので、記録を変えてしまえばばれにくいと推測したからだ。第一階層からやってくる働き手に混じり、エレベーターに車ごと乗り込んで降下する。五キロメートルほどを移動するエレベーター内は静かで、そして速い。続々と降車していく車に混じり、外に出る。
　しばらく道を走っていくと、高層ビル群を見ることができるようになる。この距離ではまだ上階層をはっきりと捉えることはできないが、後部座席でオメガ＝フォーは後ろを振り返っている。
　やがて、ジャンヌのバックミラーにも階層が見えるくらいの距離ができた。信号に引っかかり、大勢の人々が道路を横断していく。その服装、髪の色などの違いなどは、第三階層から降りてくれば、とても不思議なもののように映る。ジャンヌがそうなら、オメガ＝フォーもそうだったはずだ。お互い何も言わずにいても。
　何の変哲もない町中の、マンションの前で停車する。セキュリティも万全の高級マンションだ。階を上がっていき、吹き抜けになった内側の風に吹かれる、四階の一室の前で鍵を差し出した。
「言われたもの、揃えてあるわ。ここの契約はあんたの名前になってる。必要なら書き換えて。住民票は適当に偽造したわ。証明書とかも全部机の上の封筒に揃えてあるから。他に足りないもの、必要なものがあったら、このメールアドレスに連絡して」
　持たされた名刺にアドレスを走り書きしたものを渡す。表側は監視対象の正式アドレスだが、これはジャンヌが密かに手に入れた個人アドレスだ。おかしくなった。本当は、彼に初めて会ったときにこれを渡すべきだったのだろう。
　白い指先で彼はそれを受け取り、言った。
「僕の名前を知っていたんですね。呼ばないからてっきりご存じないのだと思っていましたよ」
　知っているわよ、と肩をすくめた。
「エクスリス。エクスリス・オメガ＝フォー」
　そうね、そういえば呼ばなかったわねと考え、そしてこれで最後なのかもしれない、と不意に感じた。ベッドの中でも二人はお互いの名前を呼ばなかったし、名前を必要としなかった。どうしてだろう、それがひどく悲しいことのように思える。
「あたしが言えるのは一つだけ」
　これをずっと言おうと思っていた。ジャンヌが救いたいと思うだけでは足りない。もっと、彼自身の内側から溢れる、大きな力が必要なのだった。

「――生きて」

　陳腐で、馬鹿みたいに真っすぐだ、と思った。シンプルで、【魔女】であっても素直に感情を表す言葉は、どんな語彙を尽くしても一つきりということがあるのだと、知った。
　エクスリスは答えなかった。
「さようなら」
　ただそれだけを言った。ジャンヌは頷いた。
「さようなら」
　手が触れそうになったが、そこには何のやり取りもない。
　鍵が渡る。

　また会いにくるわ、とは、言えなかった。