鳥かごの風景は、今日も変わらない。明日も、明後日も、その次も、いつまでもこのままのはずだった。そこに閉じ込めれた人間は老いるというのに、そこは永遠に美しい庭を呈する。


  標本のように 死の影は濃く 
  漕ぎ出した海に沈み 闇に凝る
  その名は知らない 墓標に刻まれないから
  このまま消え去れば 美しさだけが残る


 歌が聞こえる。低くもなく、高くもない声だ。歌っているのは男性のはずだが、まるで性別を感じさせない歌声だった。
 庭の木の陰で、ジャンヌは立ち止まった。コンサートホールのようになったそこに、ベッドと、テーブルと椅子があり、場の中央に不自然に置かれた一脚に腰掛けたオメガ=フォーは、歌詞もなくメロディーを歌い上げた。
 余韻が、消える。
 鳥の声が戻ってきて、静寂が自然音の静かさに変わり、そして、彼はジャンヌに気付いた。
 その美しい遺伝子操作の被験者は微笑んでいた。

「我が身は呪われし身。刻まれた魂は狂人のそれ。我ら始祖の罪の形、楽園を追われる者」
「Sランク遺伝子保持者は、銀の髪と銀の瞳を持って生まれる」
 ジャンヌは口を開く。
 それがSランク遺伝子保持者の特徴と言われてきた。それが選ばれし人間の証なのだと。
 しかし本当は、祝福などではなかったら。
「でも本当は……自然交配以外の、人工的な手が入った、あらゆる動物。鼠も、犬も、猫も、……人間すら例外ではなく――銀の体毛、銀の瞳を持って生まれるという実験結果が得られている」
 どんな些細なことでもだめなのだ。遺伝子操作以前の問題ではない。人工授精ですら、銀の髪と瞳を持った子どもが生まれてしまう。エデンが体外受精を禁じた本当の理由が、これだった。だが、真実はもっと深く、地層のように重なっている。
「……しかし、三体の成功例を除く、死亡した人間三十二体の例を見ていくと、彼らの死亡原因に共通した項が存在することが判明する。研究者たちは、推測を確定とした。Sランク遺伝子保持者には、銀の髪と銀の瞳の者には、『制限時間がある』」
 銀の瞳を細めて、彼は笑いかけた。
「美しい肉体を持って生まれたものの、宿った精神はほとんど普通の状態を保てない。成功例が三体と言われているのは、それまで死んでいった者たちよりも精神状態を安定させているからです」
「死亡原因は様々あれど……全員に共通する、根本的理由は」

 ――精神異常による、自殺。

 本当にそう言ったのかは分からなかった。自分にも聞こえないようなくらい、沈黙が耳に痛かったのだ。
 オメガ=フォーは言った。
「よくできました」
 拍手でもしそうな嬉しげな顔だった。
「よく【女神】が許可しましたね」
「……笑わないでよ!」
 ジャンヌは怒鳴りつけた。
「あんたもそうだけど、あんたを監視してる連中もおかしいわ! どうしてそんな残酷なことをあんたに知らせたりするの!? 自分には制限時間があるなんて」
「制限時間がないのは神くらいですよ。君にすら、時間は有限です」
 こともなげに彼は言った。
「僕に知らせること、これもまた実験なのです。どの程度時間が延びるか、精神状態は、内臓機能には異常があるのか? 彼らにとって、この呪いは分からないことばかりなのです。だから一人ずつ隔離される。僕は、他の成功体に会ったことがありません」
「だから、何なの? あんたは、何もかも無駄だと思ってるの?」

 気付いてしまった。
 これは、あたしが自分に言いたいことだ。
 あたしたちはいつか姉妹同士で戦わなくちゃならない。今この時間が終わるものだと知っている。ここで築き上げたことは、全部ただのデータとして扱われる。
 あたしたちはまだ人間ではない。
 本当に人間なら、逆らってみせるだろう。こんなのは間違っていると、逃げ出したり、別のものと戦ったり。
 何故なら、人は。彼女が目指すべきそれは。
 人間は、運命に、あらがうものだから。
 運命に逆らわない存在は、ロボットや人形と変わらない。運命に流されても、運命を選べない時点で、その存在は生きていないのと同じだ。運命を選んだと言える存在が、人間だ。

「僕は、いつか狂う」
 オメガ=フォーは言った。笑って。痛い、と思った。人間が本当に『胸が痛む』ことなんてなく、ただの慣用的表現にすぎないのに、ロボットの身でも本当に胸が痛かった。
「そして、君は勝つか負けるかの戦いに挑む」
 両の手のひらを上に向け、滴る雫を受け止めるようにする姿は、まるで糸を操る人形師のように思えた。
「ねえ、そんな存在が、愛を知る必要があるでしょうか?」



     *



 窓辺に座り、外を見る。硝子の向こうは夜の闇。しかし研究所の窓の光が連なり、決して暗くはない。明るすぎて星は見えず、凍える空気は窓越しに感じられる。息を吐いても、窓は曇らない。室内の闇の反射で鏡のようになった窓に、自分の姿が映るだけだ。
「ジャンヌ」
 そのダイアナが入ってきた。スリープに入るべく、すでにウェアに着替えている。
「明かりもつけずにどうしたの?」
 ジャンヌは手を振った。
「エコよ、エコ」
 光源がなくとも、【魔女】の目は赤外線モードに切り替えれば闇に対応できる。それに今は明かりがないわけではないのだ。窓から漏れてくる施設の光に、ダイアナは真っすぐにジャンヌのところに来た。ジャンヌと対するように反対の隅に腰掛ける。
「ダイアナ。あんたのマスターはどんな感じ?」
「主(マスター)?」
【魔女】の本来の主は【女神】だが、【魔女】を擁立する人間を一時的に『マスター』と呼んで区別することにしていた。ジャンヌたちにとって【女神】は『マザー』である。
「ああ……そうだったわね、あなたたちも出仕したんだったわね」
 ダイアナは声を漏らして笑った。
「とても可愛い子よ。警戒心の強い獣みたいでね、わたしに対していちいちぴりぴりしてて、可愛いわ。好奇心が抑えきれないんでしょう、わたしの一挙一動を観察しているの。わたしもずっと見ているんだけれど、それには気付いていなくて、挙動が本当に子どもで」
「子どもだったっけ」
「そう、十歳の少女よ。そんな子が、絶望の深い目をするの。可愛いわ」
 直接会ったことのないエガミの当主を哀れに思うジャンヌだった。ダイアナが来たのが運の尽き、その手のひらで転がされるしかないのだ。
「たった十歳で知る絶望なんて底が知れているのよ。しかもここは第三階層だわ。地上には、どんな苦悩と辛苦と絶望が溢れているか」
「製造十四年のロボットごときが言っちゃ可哀想よ」
 いいえ、ダイアナ。第三階層にも絶望はある。白い絶望が。
「わたしはあの子と違うもの。そう思うと人の身は不便ね。わたしなんて、人生を飛び級しているようなものだもの。あの子がこれから知ることが、わたしには分かる」
 予感があるのよ、とダイアナは外を覗き込むように窓に額を押し付けた。
「予感?」
「ねえ、わたしたちはやはり戦うのだと思う?」
 問いには答えずに、ダイアナはそう聞いた。
 次期統制コンピューターを決めるための戦い、〈聖戦〉。四体の【魔女】が競い合い、より強い個体が残ることを許され、この都市の神になる。【魔女】の存在理由であり、目的である。
 ダイアナはエガミに。エリザベスはタカトオに。テレサはサイガに。そしてジャンヌはオメガ=フォーに。それはすなわち、この四人の人間が、次なるエデンの運営管理者、人間の中で最も権力を有する者になるということだ。【魔女】を擁立する人間が決定されたということは、その戦いは近く、もう避けられないということ。
 姉妹が戦う。今、こうして揃う時間は、限りがあるのだ。
 そんなことジャンヌは痛いくらい知っている。
「戦うでしょうね」
 ジャンヌは答えた。
「あたしたちは【魔女】だから」
 ダイアナは微笑んだ。しかし、その表情はジャンヌの癇に障った。まるで自分より年上のような、子どもを見守る目をしたからだ。
「そうね。でも、わたしとあの子はきっと、誰とも違う道を行くんでしょう。きっとあなたたちはわたしたちに銃を向けるわ。でもわたしは、そのときそれを誇りに思うのよ」
 青い瞳をこちらに向けて、ダイアナは表情を和らげた。まるで世間話のような気安さで、彼女は決別を口にしたのだと思ったが、それが何に対する決別かはまだ判断がつかなかった。ダイアナ自身も、それが何なのかをはっきり理解していなかったのだろう。
 それでも、口に出せば、それは記録となる。この研究所ではカメラ映像と音声記録に、そして彼女たち【魔女】の記録装置にも記憶される。だから、本当にダイアナは、自らの意志を形にしたのだった。
 どうして、とジャンヌは思った。
 エリザベスも、ダイアナも。なんて人間に近いのだろう。エリザベスは自らの希求に忠実で、ダイアナは望むものがあり、道を選ぶことができる。彼女たちはすでに『心』を持っている。彼女たちは、もう、ここから出て行くことを選べるのだ。
 彼女たちは、すでに『人間』になっている。
「……ジャンヌ?」
 ジャンヌは目を伏せた。
「……羨ましいわ。あんたが。あたしはね、『何も愛してはいない』んですって。当然よね。あたしはロボットで、愛なんて分からないもの」
 オメガ=フォーの言葉をそのまま引いた。
「愛?」
 ダイアナはきょとんと繰り返した。
「これが、愛、なの?」
「そうでしょう? だってあんたは、大切なものを見つけたんだから。何驚いた顔してるのよ」
「いやだわ、ジャンヌ。わたしはナナエに性欲も抱いていないし、親でもないし、友人でもないのよ」
「それだけが愛じゃないでしょ、何言ってんのよ」
 本当に分かっていない顔をしている。処理能力が限界まで回っているらしく、目がちょっと虚ろになっていた。それが突然笑い出したものだから、オーバーヒートかとジャンヌは飛び上がった。
「ダイアナ!?」
「定義ができないのよ。曖昧すぎて。でもあなたはそうだと言う。ねえジャンヌ、あなたは愛なんて分からないと言ったけれど、そのことがあなたが『愛』を知っている証明にならないの?」
「あたしは愛を知らないわ」
「定義ができないだけ。でもあなたはもう分かっているのね、言語化する力がないだけで。あなたに『何も愛してはいない』なんて言った相手に言ってやったらどうかしら。『あたしは愛を知っている』って」
 ジャンヌは微笑んだ。そして首を振る。
「そうするには、まだまだ補足が必要だわ」
「そうね、わたしもそう。わたしも少し考えてみるわ。わたしとナナエの関係、わたしがナナエに抱く感情について」
「なんでこんなに暗いの?」
「何をしているのですか、ジャンヌ、ダイアナ」
 声がして、残りの二人が入ってくる。結局勢揃いしてしまったのだ。エリザベスは手に雑誌を持って、笑顔でそれを開いてみせた。
「テレサが購入要望書に書いてくれたのよ」
「同じ雑誌でも、もう少し高等なものをと思ったので」
 つんと顎を逸らし、テレサが言った。
「これまでとどう違うの?」
「まず、出版社が信頼できます。この出版社は、文芸誌の『楽園思想』を発行しているところです」
 ダイアナが呆れたように肩をすくめ、質問を打ち切る。
「どうしたの、ジャンヌ」
 エリザベスがこちらに気付き、そして手を伸ばした。
「涙? 涙なんて流せたの、ジャンヌ!」
 言われて頬を拭うと、雫が触れた。しかし涙はそれきりだった。ジャンヌの眼球は、いつものように潤んで見えるように輝いている。
「分からない。でも、悲しいわ」
「どうして?」
「いつか、あたしたちはばらばらになるから。一歩外に出れば、あたしたちはきっとこうして集うことはないわ。それが、悲しくなっただけ」
 エリザベスとテレサは顔を見合わせた。
「ジャンヌ……」
 気遣わしげに肩に手を置いたダイアナに、微笑んでみせた。首を振る。言っても詮無いことだったからだ。
「ジャンヌ。あたくしはいつだってこうして会いたいと思ってるわ。あたくしたちは姉妹ですもの」
「誰かに会うなと指示されたのですか? わたくしたちは【女神】の命令でなければ、それに従う必要はありません」
 必死に妹たちはジャンヌを励ましている。
「ジャンヌ。あたくしたちはどこにも行かないわ。いつだって会えるのよ」
「そうです。命令で会うなと言われない限り」
「ちょっと、そんなこと言わないでよ」
 ダイアナは声を立てて笑った。
「ジャンヌ。わたしたちはどこにも行かないわ。ここにいたいから、ここにいるのよ」
 膝に、肩に、隣に、姉妹の重みを感じながら、ジャンヌは頷いた。
「ありがとう」
 しかし胸の内では、避けきれない予感が渦巻いている。
 ジャンヌは再び窓の外に目をやった。きっとあの硝子の鳥かごは、この冬と比べればとても温かくて満ち足りた場所なのだろう。そこに住む美しい男は愛を知らなくて。鉄の檻の【魔女】は愛を知っているらしいけれど、彼には差し出す方法を知らず。
 目を閉じた。ジャンヌには、今日あった出来事を簡単に再生する力があったが、そんなことをせずとも、感覚器官を一つ閉ざせば、彼女の望む通りの力が働いた。暗闇の中にオメガ=フォーの声が、一分の間違いもなくリピートされる。意識すれば、ジャンヌが見た光景も再生された。
 繰り返し記憶を巻き戻しても、もう一度見たいと思ってしまう。鮮明に映し出される姿に、もう一度会いたいと思う。彼の姿が、ロボットに宿ったこの心を揺らすものであることを、認めなければならないようだった。
「何があったの?」
「わたしたちに何かできる?」
「手助けしてさしあげないこともありませんけれど?」
 妹たちが言う。
 ジャンヌは微笑んだ。


      



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