「テレサ! あなた、あたくしの雑誌を捨てたわね!?」
怒鳴り込んできたエリザベスに、テレサはしれっとしていた。
「ちょうど清掃員が来たので」
「なんてことするの!? あたくしの宝物だったのに!」
「もう少し学になるものを読んだらいかがですか。あなたには品位が足りません」
「名作は全部頭にインプットされているわ。いちいち読まなきゃならないあなたと違ってね!」
「失礼な。わたくしだってインプット済みです。しかし芸術というのは刻一刻と変化します。作品も、その評価も。わたくしはあなた方と違って最新タイプですから、最新に対応できるのです」
「たかだが三ヶ月しか違わないくせに」
「三ヶ月の差は大きいですよ」
「二人とも、その辺りにしたら?」
ダイアナがのんびりと声を掛けた。
「ダイアナ、ジャンヌ。テレサが悪いわよね?」
「ダイアナ、ジャンヌ。エリザベスに【魔女】としての自覚を持つように言ってください」
ジャンヌとダイアナは顔を見合わせた。
「わたしとしては、エリザベスの応援をしてあげたいけれど」
「テレサの言い分が分からないでもないのよねえ」
「無断で他人の財産に手を付けるのは、人間の法で言う犯罪よ、犯罪!」
「きいきいとわめかないでください。やはり、あなたには品位がない」
「まあ結局、いつまでもやってなさいってことかしらね」
ダイアナがそう言って、ジャンヌも笑うだけにした。
騒がしい研究所の一室。誰も訪れることのない、四人だけの談話室。ここがジャンヌの世界の中心であり、窓の向こうの世界へと広がることは、この場所の崩壊を意味する。
四人の【魔女】は〈聖戦〉を行う。戦い、勝ったものだけが、この世界に留まることを許される。次なる【女神】として。それが彼女たちの存在理由なのだ。
あの広く美しい硝子のドームに、もしこの、かしましく騒がしい娘たちの声が響いたなら、オメガ=フォーは何を思うだろう。
箱庭の様子は、昨日の今日では変わらない。もしかしたらずっと変化などないのかもしれない。人が快適に過ごせる気温が保たれ、空気は清潔で、常に美しく整頓されている。ジャンヌが現れると、寝椅子に身体を預けていたオメガ=フォーはにっこりと微笑んだ。
「来ましたね。律儀なのは下された命令だから? それとも君自身のシステムの性格でしょうか」
「どちらもよ」
ならばこの男は、ジャンヌが来ないかもしれないと思っていたわけだ。
答えながら椅子に腰を下ろした。高く足を組み、その顔をつぶさに観察する。
綺麗な男だった。ジャンヌは実感した。ロボットより生身が美しいことを思い知らされた。人工的でなく、自然にこの顔が作られたのなら、それを神の業と呼ぶのだろう。【魔女】にはモデルがある。ベースとなるその顔から、美形と呼ばれる顔を意識して整えたものが【魔女】の顔だ。オメガ=フォーの顔にはその意図がない、というのが信じられない。長い睫毛も宝石のような瞳も、作り物ではないなんて。
エリザベスなら大騒ぎしそうだわと思って、知らず知らずに笑みが浮かんだ。テレサは黙っているが、こっそりプライドを傷つけられるだろう。ダイアナは、それが当然、と受け入れる。
「この顔が気に入りましたか?」
ジャンヌの目に照れることなく彼は微笑みを浮かべてみせた。
「多くの人間は気付いていないけれど、エデンの民は呪いを受けているのです。僕たちはその顕現で、だからこそこの鳥かごに閉じ込められる」
「あんたがここに隔離されるのは、あんたがSランク遺伝子保持者だからよ。表向きは、だけど」
「では、そもそもそのSランク遺伝子とはなんでしょうか」
エデン創立時から保存してきた、優秀な人間の遺伝子。政治家、スポーツ選手、芸術家。とある専門の第一線で活躍した人間の血のことだ。
くつりと彼は笑った。
「簡単に言いましょう。――呪われた血ですよ」
「呪いなんて非科学的なものは信じられないように作られているのよ、あたし」
「では確かめてみればいい」
なんてことはないと、微笑んだ。
「君のいる、研究所。その研究所には、エデンが埋めたい秘密が地層のように降り積もっている。掘れば掘るほど、エデンの運営管理者たちがその身を捨てて制止してくるような真実があります。確かめてごらんなさい」
追い返された。あの小さな庭の主は彼であり、ジャンヌは訪れ人でしかない。彼が排除を命じれば出て行くしかなくなる。それがあの世界の不幸とも言えた。嫌いな人間がいてこその現実だ。
箱庭の主である限り、オメガ=フォーは現実を生きることができない。それは多くの第三階層者が当てはまった。完璧で、満ち足りた、何不自由ない科学と文明の階層。適度に政治的なところから遠ざかっていれば、永遠にその富を甘受できる。
戦うことを忘れれば、戦う力は失われる。
必要のない能力は失われていくのだ。欲が磨かれた能力を肥え太らせる。新しい社会活動の場に適応するように、彼らは鈍重になる。現実の辛さを、苦しみや悲しみを、耐えうるべき防御の力をなくしていく。
第三階層者すら観察した、第二階層の研究者たちの導き出した結果だった。その思想は【魔女】たちに受け継がれ、ジャンヌはこうして第三階層者を見ることができる。この視点は、【女神】となるなら必要なものだ。【女神】はエデンを治めるものなのだから。
通路をばたばたと走ってくる男女の研究者が、ジャンヌを認めて足を止めた。
「ああ、ジャンヌ。ちょうどよかったわ」
「何かあったの?」
「実験マウスが逃げ出したんだ。それも要観察対象が」
「【魔女】たちは出払っているし、私たちじゃ対応しきれなくて。部屋に行って、熱探知モードで探してくれない? 人力でもやらなきゃいけないんだけど、私たち、これから装置を取りにいくところで」
すぐにでも行きたそうに、足はすでに進行方向を向いている。これからすることもないし、協力してもいいだろう。報酬に、資料室のアクセスを許可してもらうに都合が良さそうだ。
「いいわよ。どうせヒマだし」
「助かるわ。じゃあ、地下二階のラボCに行ってくれる? そこで指示をくれると思うから」
言われた通りに地下二階に降り、三番目のラボに入ると、所員が資料や道具をひっくり返していた。よほどうまく逃げたらしい。机の下や棚と壁の隙間を覗き込んで、「出てこーい」と呪文を唱えている。
「ねずみ取り持ってきましたー!」
「っ! 毒入りの餌じゃないか! 殺してはいかん、生け捕れ!」
ジャンヌの背後でもマウスを探して走り回っている。収拾が着かなくなりそうなので、ジャンヌは声を掛けた。
「マウスが逃げたって?」
「おっ、ジャンヌじゃないか。誰かから聞いたのか?」
「そう。で、どこにいったの?」
「机の下に潜ったと思ったら、それきり姿が見えないんですぅ……」
ジャンヌは目を熱探知モードに切り替え、部屋を探った。所員たちの体温が表示される中、動く熱の固まりを探そうとするが、なかなか見つからない。三百六十度、ゆっくりと見回してみた。
「……この部屋にはいないわね」
「あれは重要なマウスだぞ!? 万が一野生のネズミと繁殖されては……!」
蒼白になったのは研究の代表者だろうか。彼を見て、ジャンヌはこのラボで何の研究が行われていたかを思い出してみる。確か、遺伝子研究だったか。マウスの遺伝子を操作して、新種のマウスを生み出す実験をしているはず。第二階層のこの研究所は、政府に認可された遺伝子研究の施設だ。そんなマウスに逃げられては、確かに大問題だろう。
「他の部屋を見てみるわ」
「頼む」と憤死しそうな代表者に代わって、所員が言った。
モードをそのままにして、廊下に出てみる。エアーコントロールシステムが働いて空気が暖められてしまっており、見辛いが、そこに動くものがあれば軽く補足するように補助をかけておく。隣の部屋を開けて、じっと目を凝らす。いない。
それが三回四回と続くと、飽きてきた。人間の不始末をあたしがつけるのか、と呆れもする。どう考えても研究員の怠慢だったからだ。実験マウスを逃がすなど、どんな不手際だ。
そんなとき、ジャンヌは壁の裏を行き来する小さな生き物を見つけた。しかし、熱探知では、それが対象のマウスなのかそれとも研究所に住み着いているネズミなのか判断がつかない。その動物は壁を伝い、下に降りていってしまった。
階段を使い、地下三階へ降りる。目指す部屋の扉を開け、慎重に鍵をかけた。そして、ゆっくり身体の駆動を止めて、ただの物体と化した。
静まり返る部屋に、かさこそ、と硬い床を掻くような音がしている。誰も使われていない準備室、パソコンも動いておらず、部屋は整頓されている。かささ、と音がして、マウスが鳴いた。
扉を背にしたジャンヌの、目線の先の床の上に現れ、鼻をひくつかせていたのは、まぎれもない実験用のマウスだった。真っ白の体毛、金属のような灰色の瞳。実験に使うより、観賞用にした方がよさそうな美しい鼠だ。
ジャンヌは一気に距離を詰めると、ぎょっとしたように鳴いて走り出したマウスを、片手で押さえつけた。
ぬいぐるみでも握りしめるようにして、地下二階のラボCへ戻る。すると歓喜の声で出迎えられた。
「シータ=イレブン! よかった、すぐに異常はないか調べたまえ。ジャンヌ、ご苦労だった。やはり英知の結集は素晴らしいな」
「それはどうも」と答えるジャンヌの顔は、笑顔だ。
「シータ=イレブンって、その鼠の名前?」
「そうだ。それが?」
「いいえ、なんでも。それじゃあ失礼するわ」
部屋に出て、ジャンヌは再び地下へ向かった。ハイヒールの音が、研究員が少ないフロアにこだまする。地下三階を通り越し、地下四階へ向かいながら、【女神】にアクセスする。
「【女神】。地下四階資料室へのアクセス許可を求む」
『許可します』
自動応答があって、資料室にたどり着くと同時にドアのロックが研究所のコンピューターによって解除される。そこでラボCの研究成果を探したが、S―I資料室にあるという指示ブロックが置かれていた。
S―I資料室。Secret―Infomation資料室。
「重要機密ってこと……」
一人ごち、立ち上がると、そのS―I資料室に向かった。廊下の奥、鍵を持っている人間は少ない。脅せば取ることもできたが、それは最終手段だ。廃棄されてはたまらない。
「【女神】。地下四階S―I資料室へのアクセス許可を」
『許可できません』
やはりか。しかしジャンヌはしつこく求めた。
「S―I資料室へのアクセス許可を。もしくは研究所ホストコンピューターにおける、現在ラボCで行われている一年分の研究記録データの開示を求めます」
『許可できません』
「許可を!」
『許可できません』
舌打ちする。人類の統制コンピューターと呼ばれていても、応答はまるで出来の悪いパソコンだ。プログラムに忠実で、四角四面で、ちょっとした間違いや入力ミスに柔軟でない。
「【魔女】ジャンヌが【女神】に願い出る。S―I資料室へのアクセス許可を。許可、あるいは何らかの妥協案が提示されなければ、資料室に攻撃を加えます。――許可を」
両手をドアの前にかざす。応答は、沈黙だった。
しばらくして、声がした。
『ジャンヌ』
色のない、形も感情もない、ただの声が、急に女性のまろやかさを帯びる。姿も見たことのない女神が、接続機関を通じてジャンヌに語りかけてきた。
『可愛い子。一体何を知りたいというの?』
頭や背中を撫でられているような気持ちになり、その気色の悪さに身を震わせながら、答えた。
「ラボCで行われている研究の結果と、Sランク遺伝子保持者が関係する計画の進行状況や結果を、確認したいわ」
『知ってどうするの?』
どうするの、とくるとは思わなかった。どうしたいのだろう。
知らなければならないと思った。Sランク遺伝子保持者オメガ=フォーは、研究所に秘密があると言った。研究者たちがこぞって隠匿するような真実が。知ってどうすることも考えていないが、知らなければならないとジャンヌは思う。
あの美しい男オメガ=フォーと、シータ=イレブンを名付けられたマウスが、同一のものでないという確証が、欲しい。
「あたしは、何もできない。でも、知ることは。理解するために歩み寄る方法があるなら、それを求めるわ」
硝子の箱の人形。鳥かごの鳥。愛を知らない存在。
あたしのことを、『誰も愛してはいない』と言った。
侮辱だった。押し倒されたことといい、そう言ったことといい、人間に近い存在として作られた【魔女】にとっては屈辱だった。お前には何も理解できまいと、最初からあれはジャンヌを拒絶した。
だから、そいつが課した課題をクリアしてやろうと思ったまでだ。理由なんてそれでこと足りる。完璧なクエッションと行動原理を必要とするほど、【魔女】のロボットとしての格は低くない。
その思考をロードされる感覚があった。ジャンヌが素早くその接続を振り払う。頭の中を指でなぞられた気がして、気色の悪さが全身にある。鳥肌が立つなら、総毛立っているだろう。すると、声がした。
『分かりました。許可しましょう』
笑っていた。
『ただし、あなたがS―I資料室で見聞きしたこと、それに関連する思考等については、ロックし、パスワードを掛けます。あなたを調整する人間にはこの情報を閲覧できません。また、あなたは一連のことを誰にも話すことはできません。すべて自身の内に秘められることになります。――あなたの望む資料は、Sの棚にあります。その課題とやらをクリアしてごらんなさい』
「望むところよ」
やはり思考を読まれたらしいのにふつと怒りを覚えながら、ジャンヌは凄んでみせた。
「ただし、一人だけ。Sランク遺伝子保持者のオメガ=フォーとだけ会話する許可を」
『難しいことを言いますね。分かりました。可愛いわたくしの子のお願いですもの、彼に対してだけ、ロックが解除されるようにしましょう』
がち、がちん、と目の前のドアのロックが解除される。ジャンヌは、その資料室に足を踏み入れた。