黒い下着、白いブラウス、深紅のスーツに身を包み、赤いハイヒールを履いた。化粧は常識程度に。真っ赤な髪をひっつめようとしたが、止めた。そんな大人しくしているのは似合わないし、こんな色のスーツを着ている時点で普通を取り繕っても無駄だろう。
やがて、迎えが来た。数えるほどしか出たことのない外は、ジャンヌが窓辺から見たまま、白い雪に覆われた世界だった。白雪は風に舞う。視界を邪魔する程度でない具合で、それはとても美しく見えた。しかしずっと立ってもいられず、車に乗ると、ジャンヌは第三階層へと向かった。
第三階層の地図は頭の中に入っている。だが、車は郊外の何もない場所へ向かって進んだ。近くに第三階層者の子どもたちが通う学校があるが、Sランク遺伝子保持者はそんなに簡単に外には出せないはずだ。やがて学校の巨大な校舎が見えたが、そちらには向かわず、西の、更に北側へ向かった。
車を降りるように指示され、ジャンヌは感心した。プラネタリウムを思わせる巨大なドームが、森の木々にすっかり隠されているのだ。学校との距離を測ってみると、最上階から見えるかどうか、という具合だ。第三階層者の学舎と近いのは、学校には多くの教育者、専門家、科学者がいて、彼らの行き来を便利化するために違いない。
そして、表玄関に立てば分かるように、そのドームは強固なセキュリティに守られている。監視カメラ、高圧線、入り口の何重ものロックなど、例え生徒が興味本位で近付いても、簡単に拒めるようにしてあるのだ。カメラを見ると、視線を感じた。ジャンヌはそれに向かって笑ってみせた。
「では、よろしく」
そう言って運転手兼案内役は、再び車に乗り込み、去って行った。残されたジャンヌは入り口に向かった。三つのロックは連動しており、五分以内にすべてのパスワードを入力しなければ、パスが変更され、閉じ込められる仕組みになっている。記憶したパスワードを順に打ち込んでいくと、狭い部屋に閉じ込められた。風が強く吹き付ける。除菌室なのだ。「逆に病気になりそうね」と呟いた。
扉が開く。長い通路の先に、光が見えた。それに向かって進んでいった先で、ジャンヌは立ち止まる。
外から見えたドームの中だった。サンルームになっている。鳥の声が聞こえ、影が地面に差した。地面は、庭に当たる土部分と、道に当たる清潔なタイル部分に分かれており、木はこの場所に根ざして、ドームの天井にまで枝を伸ばしている。植えられているのは温かい地の植物が多いらしく、葉は大きく、幹は乾いて太い。蝶々や蜻蛉といった虫の姿もあり、硝子の箱に美しい庭を造ったように思えた。
歩き出すと、自分の赤い色が浮くように思えた。どう考えてもこの場では人間の姿をしたものは異質で、望まれるものではなかった。風の音はせず、代わりにどこからか水の音がしている。
ぐるりとした道を外側から内側へ辿っていく。しかし結局飽きて中央に足を向けた。抜けられそうな茂みを掻き分けていくと、音に驚いて虫が飛び立ち、鳥が鳴いた。中央に、人工物の屋根があるのを見つけた。
そして見つけた。硝子の箱の庭園の人工物は、巨大な天蓋付きのベッドで、その上に人間が眠っていた。
人が来るのを知っているだろうに寝ているとは、いい身分だ。つかつかと近付いていって、ジャンヌはぎょっと足を止めた。
(なに、こいつ)
最初に思ったのは、こいつも【魔女】なのかということだった。
銀の髪が、絹糸を広げるようにベッドに流れている。白い面に、伏せられた睫毛も銀。瞼の皮膚は溶けてしまいそうなほど柔らかく見え、鼻梁はすっと通り、唇は色のある鉱石のようだ。腹の上で組み合わせた手は繊細な彫刻めいて、身体は何の装飾もない白いローブで包んでいるが、よく見てみれば繊細な模様がきらめいている。
白い人間。人間かも分からない存在に見えた。雪を固めてもこんな存在にはならない。だったらやはり人工的なものなのか。
それが目を開く。瞳だけは、他の部分の色よりも黒っぽかった。ジャンヌを映し、ゆっくりと細まる。手が伸びる。ぱたり、ぱたり、と上下して、呼ばれていることに気付いた。
「なに? ……っ!?」
近付いた途端、腕を掴まれ、ベッドに向かって引かれた。前へ倒れそうになったために、受け身を取ろうと反転したところに影が差した。覆い被さって、白い人間は嬉しそうに笑っている。作り物めいた容貌に、その表出はこの存在に命が宿っていると確信させた。これは、人間だ。
顔が近付く。手はジャンヌのジャケットを剥ぎ、ブラウスのボタンを外し始めていた。
ロボットの身で貞操がどうのと騒ぐつもりはない。それでも、人間に近い存在を目指して作られたジャンヌには屈辱だった。ジャンヌはその美しい完璧な造作を、思いっきり、出力をあげて。
張り飛ばした。
当然、人間ならば簡単に飛んでいく。骨と金属がぶつかる鈍い音がして、華奢な身体はベッドの下に落ちた。起き上がったジャンヌはボタンを留め、ジャケットを羽織り直し、髪を簡単に梳いてようやく尋ねた。
「あんたがオメガ=フォー?」
白い髪をざんばらにして、彼は起き上がった。『彼』で正しいはずだ、オメガ=フォーの性別はXY。男のはず。どういうつもりで押し倒したのかは知らないが、初対面の相手に対する振る舞いではない。ぞんざいに聞いた。
「……初めて、殴られました」
「そりゃ御愁傷様。あたしはあんたの容貌に対して躊躇するような繊細な心は持ち合わせていないの。顔は顔。それだけよ」
脱げてしまったハイヒールを探すと、オメガ=フォーが持っていた。頬を腫らした顔で微笑むと、降り立とうとするジャンヌの足に、その靴を履かせる。ジャンヌは訝しく思った。殴られて、不快な気分にはなっていないのだろうか。
しかし、そんな疑いは杞憂だったらしい。靴を履かせたその手はジャンヌの足を撫で、その唇はその内側にキスをしたのだ。こちらを見上げ、微笑う。
「あなたは【魔女】ですね?」
今日は変態によく会う日だ。容赦しなかったことにジャンヌは満足した。
監視カメラは一連のことをつぶさに見ていたらしく、やがて、救急箱を持った人間が人が現れて、殴打の跡を治療していく。続いて殴られた頬を冷やす氷嚢を持ってきたと思ったら、あっという間に引っ込んでいった。
「悪かったわね。思いっきり殴って」
痣になったのを見れば、言わずにはおれない。理由はどうあれ暴力を振るったのは事実だ。傷はそれを見せつけられている気がする。
「本気だったら殺していたでしょう? だから構いません。しかしできれば、爪を立てるくらいが可愛らしいと思いますがね、赤い髪の大きな猫さん」
「はいはい、それはどうもすいません」
ベッドを隔てた向こうに、テーブルと椅子があった。そこに腰掛けたものの、お茶は出ていない。ジャンヌは飲食を必要としないし、彼も必要ではないのだろう。一体何のために呼ばれたのか、それが分からず、ジャンヌは率直に尋ねた。
「あたしはあんたの教育者、話し相手になれってことだったけど」
「生身の女性だと妊娠させる可能性があったので、あなたを選んだんでしょうね」
「……は?」とジャンヌは眉間に皺を寄せた。
「それは、なに、来る女来る女食ってたってこと?」
「差し出されたら、丁寧にいただくのが主義なので」
悪びれずに言われ、呆気に取られる。
(道徳がないわけ?)
「道徳がないと思っているでしょう。そんなことはありませんよ」
心臓があるなら大きく打っている。ジャンヌは慎重に相手を見た。
「理性や道徳で抑えていないだけです、本能をね。考えてもみてください。鳥かごに閉じ込められた鳥は、与えられたものを受け入れるか拒否するかしか、自主的な行動としては歌うくらいしかないのです。大停電が起こった一年後、出生率が上がるのと同じですよ。『それしかすることがない』」
だから仕方がない。そんな絶対さで彼は頷いた。
「あなたの身体には興味がありますね。どこまで人間らしく作られているんです?」
「見せるつもりはないわよ。必要がないかぎりね」
「残念です。いつか愛してみたいですね」
その言葉の虚ろさに、ジャンヌは気分を悪くした。
「誰も愛していないくせに」
言ってやると、彼は目を見開き、すぐに笑顔になった。
「あなたも。あなたもまた、誰も愛してはいない。人形に、ひとが愛せるわけがない」