Sランク遺伝子の研究プロジェクトは、最古記録を探せば、エデン創立以前にさかのぼるらしい、というのが、現【女神】当時【エデンマスター】の記録だ。当時のデータは記憶メモリやレコードが破損していたり、読み取り不可能だったりするものもあるため、正確な時期は出せない……らしい。
そもそもエデンというのは、最高水準の科学者たちが、当時の政治状況に反旗を翻した結果、作り上げたプロジェクトシティで、これの主なメンバーが現在の第三階層者の先祖に当たり、第二階層はそれに使われる作業員だったという。
エデンの目的は、人類の自由と平和な統制というもので、【エデンマスター】による統治は、創立期より始められていた。
当時の統制は、都市のあらゆる機関を、政府とその巨大コンピューターが管理するというものだったが、現在ほど一般家庭や個人の端末に至るまで様々に分岐してはいなかった。エデン創立から二百八十年ほど経過して、圧倒的なまでに細分化されたのである。コンピューター、電子機器といったものから、人間と変わらない手足まで開発されるようになった。医学も発達した。
そのように機械化文明が発達する一方で、続けられてきたのが遺伝子研究だった。
医学と機械工学、ロボット工学が発達する一方で、何故か遺伝子工学は伸び悩んだ。
遺伝子研究の大きな分岐点には、ネメシス・プラネテア博士の存在があった。彼は明晰な頭脳を持つ研究者で、しかし周囲に害を及ぼすマッドサイエンティストだったようだ。彼が行った犯罪は、人間を誘拐し、監禁し、観察し、切り刻み、掛け合わせるといった、人に対してできるありとあらゆる実験だった。特に彼がのめり込んだのは『人間をつくる研究』で、その原始的な掛け合わせの方法は、当時エデン中の女性を震え上がらせた。分岐点となったのは、このネメシス事件をきっかけに、遺伝子研究に制限ができたことにある。
この時制定された法律により、遺伝子研究は、政府の許可がなければ行うことができないようになった。現在では、不妊治療も行うことができず、第一階層者の間では問題となっている。
しかし、唯一政府の許可を取った研究が『Sランク遺伝子計画』だった。エデン創立時からの優れた遺伝子を保管し、また生存する人間から採取していた第三階層は、これを掛け合わせることによって、エデンの優れた統治者の誕生を計ったのだ。その目的は政府に認可された。
Sランク遺伝子保持者の成功例は、現在では三名のみ。残りは数年足らずで死亡している。
彼らは決して同じ遺伝子を持っているわけではないのに、揃って、銀の髪、銀の瞳の、壮絶なる美しさを持って生まれた。それゆえに、神に近しい存在として、隔離、養育されることを宿命づけられていた。
――そういう、長い長い前置きの後に、ジャンヌは語り出した。
物語は、【魔女】たちがまだ少女のようであった頃、六年前の、ある冬の日に始まる。
「寒いわ」そう言って唇を尖らせ、薄いホスピタルウェアを指先でつまんだのは、三番目のエリザベスだった。「寒いなんて思ってもいないくせに」と呟いたのはその姉のダイアナで、「人間を模すのはお止めなさい」と言ったのが末のテレサだった。
「寒いなんてことは、ちゃんと服を着て言うのね」
そう言って背広の襟を正したダイアナを、エリザベスは睨みつけた。
「ずるいわ。どうしてダイアナばかり外に出ていいの?」
「わたしはあなたと違ってお仕事に行くのよ、リズ。あなたは外に出たが最後、三日ほど戻ってこないでしょう?」
エリザベスが頬を膨らませたものの何も言わなかったのは、それが事実だったからだろう。開きっぱなしの何冊もの女性向け雑誌には、第一階層の衣食に関する記事が躍っている。「低俗です」と言い切ったのはテレサだ。本を開いたまま、きっぱりと言う。
「わたくしたちは【魔女】。人類の守護者。【女神】の意志の代行者であり、エデンの次なる統制者です。第一階層の文化に馴れ合うなど、堕落もいいところ」
第二階層、最上位研究施設。それよりもっと正確な名称を彼女たちはそらんじることができたが、皆揃って『ホーム』と呼んでいた。彼女たちが立って歩く足を手に入れる前、意識を持ち始めたときから、四人はここを世界の中心に据えて、少しずつ広げていくところだった。単なるAIから肉体を得て、より人間に近い存在になって四年が経ち、外と接する機会も得てきた頃。
「じゃああなたは、こんな薄物一枚で満足してるってことかしら?」
エリザベスがウェアを再びつまみ上げたために、露になっていた身体の線がほんの少し曖昧になった。女性の肉体において魅力的と判断されるサイズを持った【魔女】たちは、必要がないかぎり、下着もつけずに薄い寝間着程度のものを普段着にしている。着飾れば人々の注目を集めるであろう容姿を持った己であるだけに、外界のファッション知識を手に入れたエリザベスの不満はつきないのだった。
「これの何が不満なんです」
一方で、テレサは頓着していない。
「必要があれば専門の人間がわたくしたちに衣装を見繕うでしょう。今は必要がない、それだけです」
「そんなのつまらないじゃない! 第一階層には色んなものがあるのよ? 自分にふさわしいものを探すのって、きっと楽しいわ」
同じようにプログラミングされているはずなのに、ここまで性格や嗜好に差があるのは興味深いことだった。開発者それぞれのほんの少しの癖や、タイミングなどによるのかもしれない。
「リズ、わたしたちは下に降りてはいけないのよ。【魔女】の存在が知られれば、第三階層は責め立てられるわ。この技術や知識が流出することを、サイガたちは制限しているのよ」
「分かっているわよ、ダイアン。でも、いつまであたくしたちは、あのじじいどもの言うことを聞いていなくちゃならないのかと思わない?」
どんな攻撃にも耐えうるボディ、戦闘モードに対応した肉体を与えられ、その使い方を覚えつつあった【魔女】たちは、その時すでにその気になれば研究所を制圧できる程度の戦闘能力を備えていた。そして、それを飼い殺すだけの力を第二、第三階層者は持ち得ず、従順に従うだけの頭脳より高等なものを【魔女】たちはもう持っていたのだ。
それでもまだここにいるのは。
「ねえ、ジャンヌ。あなたはどう思う?」
窓辺に座って話のすべてを聞いていたジャンヌは、見上げてくるエリザベスに笑った。
「そうねえ……とりあえず、あんたにその緑のコートは似合わないわね」
雑誌のページを指差すと、エリザベスは目を見開き、「うるさいわね!」と怒鳴った。テレサも噴き出し、ダイアナは笑いながら、仕事に向かうべく外に足を向ける。その日々の光景を見ながら、ジャンヌは胸の内でひとりごちた。
それでもあたしたちがここにいるのは。
あたしたちが、まだ人間でないからだ。
その日、スリープモードから起動状態に戻ったジャンヌを、研究所員が迎えた。
「おはよう、ジャンヌ」
肥え太った男は、そう親しげに笑いかけた。第二階層上位研究所の所長イカルガに、ジャンヌはそれほどいい感情を持っていなかった。この男はジャンヌに限らず【魔女】たちのすべてを知っている。内臓も、記憶も。【魔女】の中身をいじくり回すのが仕事なのだ。自分でも見たくない中身をいじられて、いい気のする人間やロボットがいるだろうか。
「おはよう、イカルガ」
それでも完璧な笑顔でジャンヌは起き上がる。イカルガの目が、胸や腹部に注がれるのをジャンヌは見逃さなかった。柔軟な筋肉に包まれた肢体を持っている【魔女】だ。見てしまう気持ちが分からないとは言わない。しかし、この男はロボットにも欲情するのだろうか。
(多分するわね)
「気分はどうだね? 何かエラーは」
「エラーはないわ。好調よ。それで、何か用? それとも人の寝顔を見て喜ぶ趣味があるわけ?」
イカルガは肩をすくめた。
「君の寝顔は確かに麗しいがね。私がここにいるのは、君に仕事を与えるためだ」
「仕事? 美人局でもやるつもり?」
「安心したまえ、真っ当な仕事だよ。エリザベスやテレサにも命令がいっているはずだ。見るかね?」
頷いて、資料をもらう。エリザベスにはフレイザーという姓が与えられ、高遠氏に。テレサにはクロイサー姓が与えられ、サイガ氏に。それぞれ秘書兼護衛としてつくようにという文面がある。そして最後に、ジャンヌにも命令がくだされている。
「第一の【魔女】ジャンヌ。オメガ=フォーの教育者として……教育者?」
「要するに話し相手ということだ。オメガ=フォーのことは?」
ジャンヌは記憶を検索する。
「Sランク遺伝子保持者、成功例の二体目が、記録番号オメガと記録番号フォーの遺伝子を持っているため、オメガ=フォーと呼ばれる。その人物ってこと?」
「そうだ。本来、オメガ=フォーの相手役になるのは知識人や専門家なのだが、今回【魔女】とも対面させようという動きになってね。君が選ばれたんだ。君の忌憚ない意見を期待するよ」
これがオメガ=フォーの資料だ。そう言って手渡された分厚いファイルに、ジャンヌはうんざりした。データを入力すれば、それがジャンヌの知識になるのだが、ここまで人間扱いしなくてもと思う。紙をめくる手間と情報の取捨選択が大変なのだ。イカルガは十三時が予定だと言って、ジャンヌの服の一揃えを用意して行った。シンプルだがブラウスに透けるような黒い下着をつまみ上げ、目一杯口をひん曲げたジャンヌは、イカルガの嗜好についての自分の推測が外れていないことを知った。