前方からやってくる赤い髪の女はこちらを目指して歩いてきた。ジャンヌが歩くと、肉食獣が歩いているようだ、とトオヤは思う。赤いたてがみの、美しい優美な女王のような。その女王は、【魔女】としての視力でもってトオヤを視認し、一街の平和で浮ついた夜の人ごみを抜けてやってきた。
「どうした?」
「紗夜子知らない? あの子、携帯にかけても繋がんないのよ」
「AYAに聞けばいいんじゃないか?」
言うと、ジャンヌは嫌な顔をした。
「開発者を同じくするプログラムとしては一応姉妹だけど、系統が違うから触れたくないのよ。なんというか、あっちの方がでっかい妹とか、叔母みたいな感じで。容量の問題かしらね」
「俺には分かんねえ感覚だな」と笑って、AYAに問い合わせのメールを送る。携帯電話を握りしめながら腕を組んで、つくづくとジャンヌを見下ろした。「なに?」と眉を上げるUGである【魔女】に、何とも言えず苦笑する。
「なんつーか、変わったよなあ。前はもっとつんけんしてたけど」
「あたしはあんたが分からないわ。一街はいいわよ、非戦闘員ばっかりなんだから。最終決戦を前に、他人に『変わった』とか笑えるあんたって、大物なんだか、鈍感なのか」
「鈍感のつもりはないぞ」
ジャンヌは顔を半分そらし、顎を挙げて睥睨する。トオヤはかすかに肩をすくめた。
「紗夜子のことも、分かってる」
「……どうだか」というのがジャンヌの返事だった。
「人間の多くは『無力感』に苛まれるもの。それゆえに自分で運命を切り開くことこそ、人間の本質なのよ。あの子はずっと一人で戦ってきた。孤独や喪失、無力感に痛めつけられながら、真っすぐな気持ちのままあの歳になったのよ。教主様でさえ歪んだっていうのに…………あ……!!」
ジャンヌが目を見開き、口を押さえる。
「……そう、か。だから、かもしれない……」
携帯電話が手の中で振動したが、深く考えるように呟いたジャンヌが気になった。
「何が」
「紗夜子が第三階層から落とされた、『本当の理由』。タカトオは第三階層に置きたくなかった。高遠家の令嬢として受けるべき、第三階層者としての教育を奪った。それはつまり、」
ジャンヌが言葉を口にした途端、すっと音が集約されていくような感覚があった。心が打たれるさまでもあったし、殴られたような衝撃でもあった。
「もうっ、おとーさん!」
声を辿るように目をやると、まだまだあか抜けない年頃の少女が、酔っぱらいの親父の上着を引きずっているところだった。いい加減にしてよ! と叫ぶ少女の顔は上気し、瞳は生き生きと輝いている。
「おれはなぁ、お前が元気ならそれでいいんだよぉ。元気に育ってくれればそれでいいんだよぉお」
「だったらちゃんとしてよっ。ほら、立って歩く!」
尻を蹴飛ばす勢いで少女は怒鳴り、男はふらふらと立ち上がりかけては、少女にだらしなく持たれる。泣きの部分に陥ったらしい男は、鼻をすすり上げ、しくしくと泣きながら娘に訴える。
「か、母さんに似てきたなぁっ……!」
「酒臭い!」
トオヤ、とジャンヌが呼ぶ。ぼんやりした心地で、人差し指が手にさされるのを見る。
「携帯。鳴ってる」
「ああ……」と半分上の空で携帯電話の着信画面を見ると、非通知着信だ。通話ボタンを押して電話を取ると、「だれだ」とトオヤが尋ねる前に、耳をくすぐるような笑い声が、ざわざわと全身を総毛立たせるような不気味さで聞こえてくる。
息を詰め、電話を耳に押し当てた。こちらの顔色に気付き、ジャンヌが口だけでどうしたの、と尋ねる。だが、トオヤには答えられなかった。
嫌な予感が、胸をかすめ続ける。
ようやく「お前は、誰だ?」と問うことができたが、電話向こうの、無邪気にも悪質にも思える笑い声が大きくなっただけだった。
「誰だ!」
『僕が分からないの? クドウ』
ぎくりとした瞬間に、嘲笑う声。
『ああ、クドウは君の母親の姓だったよね。本当の名前はキリサカだ。トオヤ・キリサカ』
「……お前」
『紗夜子は僕のところにいるよ』
感情がすべて収縮した。声が出なくなり、目が眩み、息ができなくなる。
身体を投げ出して動かない少女の映像が、まるで本物のようなリアルさで目の前を激しくちらつく。
その喉に手をかけ、こちらを見て微笑する白い少年――ユリウス。
『僕たちねえ、結婚するんだあ。だって、紗夜子は僕の花嫁だから! ライヤ・キリサカ宛に招待状を送ったから、結婚式にはぜひ参列してね!』
「待――!」
きゃははと甲高い笑い声が響いたかと思うとぶつりと途切れる。途絶えた通話を知らせるブザーが数度鳴れば、あとはもう、どんな手段を持ってしても繋がらない。
冷静な頭が、紗夜子の携帯電話で、番号を非通知にし、適当な中継地点を作って、こんな地下階層にまでわざわざ電話をかけてきたのだ、ということを考えている。
一方で、煮えたぎるような怒りと無力感が、収縮した感情とともに爆発した。
「トオヤ!?」
跳躍するように走り出した。整体義肢の左足を軸にすれば、普通に走るより倍以上のスピードが出せる。頭の中には第三階層へ昇るためのパスワード――先攻部隊指揮官として託された現行の鍵が頭の中で叫ばれている。知らせておくが、使うことはない、使うなと指示された解除キーが。
「トオヤ!」
全力で走る頭上を軽々と越えて、ジャンヌが目の前に降り立った。【魔女】としての身体能力でもって、ぶつかりにいく勢いのトオヤを両手で押しとどめた。
「あんたどこ行くの!」
「第三階層に行く。紗夜子が捕まった」
「誰に」
「ユリウス。Sランク遺伝子保持者、ユリウス・オメガ=f=イレブンに」
ユリウス、と確認するようにジャンヌは呟き、やがてキッとトオヤを睨んだ。
「だったら余計に落ち着きなさい。本当にユリウスが紗夜子をさらったなら、紗夜子はセキュリティのかなり手強いところにいる。あんた一人でどうにもならないのよ」
「んなこと、分かってるに決まってるだろ!!」
癇癪のように言ったにも関わらず、ジャンヌはきゅっと眉をひそめて、反論も諭しもせず、受け止めていたトオヤの震える身体をそっと離した。トオヤは立ち尽くし、拳を握りしめ、乱れてしまう呼吸を必死に抑えようとする。
なんだろう、この気持ちは。どうにもならない、何も出来ないと分かっているのに、駆けていきたいと思っている。駆けていったところで命を落とすのが関の山なのに。心から理解しているのに。
人には、駆けていかなければならない時があるらしい。
まだ殺しきれない衝動を、携帯電話で静かにAYAを呼び出すことで堪えながら、トオヤはようやくの声で指示を出す。
「……紗夜子がさらわれた。さっきの俺の電話の内容、録音、発信源といったあらゆる情報を、本部に送ってくれ」
『了解しました。さきほどの問い合わせの件ですが、サヨコは確かに第一階層へ昇ったまま、戻ってきていません。これらの情報も本部に送信しますか?』
「頼む」と答えると『了解』とAYAが応じる。あとは、AYAがその他の情報も踏まえて送信し、本部もAYAと協力して、現状把握と作戦立案を始めるだろう。だからトオヤは「これだけは言っておいてくれ」と告げる。
「本隊の先陣は俺だ。俺が、紗夜子を取り戻す」
AYAはただ「了解」とだけ応じた。