美しい天上の園、神々の国、選ばれたものの世界では、その日、炎と煙を上げ、血が流れた。踏み荒らされ、傷つき、美しさを損ない、そしてその終わりを告げた。
 第三階層の代表代理として江上藤一氏は、第三階層の陥落を公式に報告した。最高府は解散。これより第三階層者と第二階層、第一階層、そしてアンダーグラウンドの人間を交えた臨時政府が、これよりしばしエデンを運営すると発表。階層者社会の終わりを宣言した。ラジオでいち早く流れたそれは、数時間の後に正式な会見として放送され、まるで、最初からこの時を想定していたかのように、すでに選出された各階層の代表者が会見場に集っていた。





「サヨちゃん!」
 誰よりも最初に二人を迎えたのはジャックだった。それまでUGたちに見守られ、二人で一歩一歩、この陣営に戻ってきたのだが、さすがにトオヤもジャックの顔を見るとだめだったらしい。ふっと力が抜けた。引きずられるようになった紗夜子を留めたのはディクソンで、トオヤを抱きとめたのはジャックだ。
「紗夜子」
「七重さん」
 杖をつきながら、七重は走ってきた。そして、杖を放り出して紗夜子にしがみついた。その重いほどのあたたかさに、紗夜子もふっと涙腺が緩む。
「七重さん」
「どうして、こんな」
「七重さん」
「足が……」と七重は泣き声を震わせる。痛みを感じているような声で、嗚咽を漏らした。
「あなたの、右足が」

 ――ユリウスが紗夜子を捕らえた際、彼の中には、紗夜子や七重と同じ認識があったのだろう。生体義肢、人工臓器といったものは、メンテナンスを要する。これを身につけていることがエデンの住民である証であり、エデンを出て行けない人間の証だ。だからこそ、七重は足を義足にせず、杖を手にしている。
 紗夜子は、目覚めた時、自分が眠らされている間に右足を生体義肢に取り替えられていることを知った。

 もう、紗夜子はエデンを出て行けないのだ。

「だいじょうぶ」
 七重の細い肩を叩きながら言う。
 笑えた。かけらの憂いもなく。
「きっと、すぐに、どこへも行けないなんてことはなくなるから。それにね、すごく足が速くなったの。だから練習しなくちゃ。たくさん、あっという間に走っていけるように」
 七重は情けない顔のまま紗夜子を馬鹿だと罵った。
「能天気。手の届かないところに行かないで」
「気ぃ失うのはまだ早いで、トオヤ」
 トオヤを地面に転がし、てきぱきと止血を行いながら、ジャックが頬をぴたぴたと叩く。
「親父さんが呼んでる」
 紗夜子とトオヤは顔を見合わせた。頷き合う。ジャックの手を掴んで立ち上がったトオヤは、手を差し出した。その少し血の感触がする手を握りしめながら、どんな結末でも、二人でいれば怖くないと、紗夜子は思った。
 ライヤは、階層の縁部分にあたる、下階層を見下ろすことのできる展望公園にいた。陣はここにも敷かれており、運び込まれた機器が動いていて、風が強いのにここだけむっと熱気を感じる。
 紗夜子たちに訪れに気付いたライヤは振り返り、「おつかれ!」と笑った。そういうライヤこそ、ずいぶん憔悴して疲弊した姿をしていた。よれよれの格好は、いつにも増してぼろぼろだった。
「ライヤさん! おかあさんは……」
 紗夜子の言葉にライヤは目元を優しく緩め、側の机に置いていたノートパソコンを捧げ持った。画面を開き、かざしてみせる。
 そのモニターの中には、温室の中、椅子に腰掛けている二人の女性の姿があった。

「おかあさん?」
「……母上?」

 紗夜子は驚いてトオヤを見た。セシリアの向かいに座る、栗色の髪の女性がにっこりした。
『トオヤ』
「おふくろさん!? まじで!」
 ジャックが叫んでいる。紗夜子もびっくりだ。しかし、見ただけでトオヤの血縁と分かる。目元や額の感じがそっくりだ。しかし、異様に若い。トオヤと同じくらいではないだろうか。その隣のセシリアも、彼女に年齢を合わせてとても若々しいから、ただデータで表現しているだけなのだろう。
「……やっぱり、AYAは母上をモデルにしてたんだな」
「えっ、これAYAなん!?」
「そういう直感はアヤ譲りなのかなあ?」とライヤは肩をすくめた。
『でも私はアヤであってアヤでないの。ごめんね、トオヤ。でも父上を許してあげて。この人はずっと、妻を置いていったのを後悔していたのよ。だから私の素地ができた。本当に、アヤとして現出するとは思わなかったけれど』
 トオヤは首を振った。
「いい。会えて、嬉しいから」
 口元に穏やかな微笑があって、子どもみたいだ。本当に手を伸ばすみたいにして『いい子!』とアヤは画面を撫でた。
「オレの教育がよかったんだってば」
『いいえ、明らかにアヤの血でしょう』
 セシリアが口を挟む。乗り出した身体を元の位置に戻して、二人の女性は肩をすくめて笑った。
『ライヤにホログラム装置でも作ってもらわなくてはね。平面なんて味気ないもの』
「おかあさん」
 紗夜子の呼び声に、セシリアが首を傾けた。それは、何の気負いもない、自然に耳を傾ける仕草だ。
「おかあさん……」
『わたくしを許してはいけない』
 セシリアは厳しく言った。
『大団円なんてないの。奪われたもの、奪ったもの、なくしたもの、破壊されたもの。誰かが泣いて、誰かが傷ついて、誰かが慟哭した。あなたにはわたくしを恨む権利があり、あなた以外の誰にもそう言える。でもあなたは、それらをすべて背負っていくと決めたのでしょう?』
 頷く。
 唇を噛み締めたその味を思う。
 もう生きていくしかない。ここに立っているなら、もうそれは始まっているのだから。
 女神は晴れやかな笑みになった。
『いい子ね、紗夜子』



 ピー! と警告音ががなり立てたのはその時だった。ディスプレイの表示が歪み、セシリアが『アヤ!』と呼ぶ声が歪んで聞こえ、音声も映像もぶつっと途切れた。
「アヤ! リア!」
『サブコンピューターが破壊されたわ』
 端末を移動したらしい。アヤの声がライヤの胸元の携帯電話から響いた。
『領域が狭まって……破裂しそう』
「もう一人入れる分にサブを使ったからだ、頑張ってくれ、すぐ広げる!」
 ライヤとUGたちがコンピューターにかぶりつく。
「ねえ、あれ、爆発じゃない……?」
 七重が展望台から身を乗り出して指し示す。ジャックが傍らに立ち、それを確認して苦々しい顔で頷いた。無線が一斉に鳴り、ディクソンがそれに答えを返す報告をする。
「アンダーグラウンドで爆発確認。場所は教会付近と推定。付近は消失、火災が一部で発生してる。メンバーが消火活動に当たっている」
 あいつだ、と紗夜子と同じ人物をトオヤは一言で示した。
「手ぇ空いてるやつ呼び出せ! 『あいつ』を探さないと、次は何やらかすか分かんねえぞ」
 トオヤが焦った声を上げるが、第三階層との戦争をようやく終えたUGに、負傷していない者などいない。
 たつっ、とその中を浮かび上がるようにして、足音が響く。動揺と統制で混乱するなか駆け出した紗夜子にトオヤの焦り声が追った。
「紗夜子!」
「行く」
「無理だ。ここからだと時間がかかる。逃げられる」
『場所は分かるわ。ここだろうという予測だけれど』落ち着いたセシリアが誘導する。
「行かなきゃいけないと思う。あの人だけだよ、トオヤ。あの人だけ、ずっと止まってる。このままじゃ、ずっと、止まったままになるんだよ」
 母子の声はよく似ていた。決断は素早くなければならない。あと五秒、待って答えが出ないなら走る。トオヤが負傷し、紗夜子がまだ軽症である今なら、紗夜子はトオヤに捕まえられることはない。
 しかしトオヤは三秒で決断を下した。
「俺も行く」
「無茶を言うな。お前、自分の状況を理解しないで言っているだろう」
 ディクソンがきつい調子で言い、トオヤはそれを無視してジャックを呼んだ。
「傷、思いっきり止血してくれ。んで止血剤。一時間保てばいいだけだ。そのくらいなら死なねえだろ」
「トオヤ!」
 真っ青な顔色と目の下に影を作りながら言えば、ディクソンでなくとも張り飛ばそうかと思うだろう。むしろ殴って失神させた方がいいのか。ちらりと考えた紗夜子がディクソンに視線を投げ、ディクソンが動いた時。
「持ってきましたっ!」
 マオが鞄を持って現れた。
「薬も帯も足りてるで!」
「違います、ライヤさんが」
 背中を丸めてキーボードを打っているライヤは、作業と思考の合間合間に、たどたどしく言った。
「道具。俺が昔作って隠してあったやつ」
 マオがトオヤに鞄を押し付けた。思いがけない重さだったのかトオヤの腕が一瞬沈む。
「これって……ランドセルじゃねえか。しかもいいとこの学校の。かなり重いけど何入ってんだこれ。辞書とか言うなよ?」
 確かに、学校指定の鞄のように見える。本革の高価なランドセルだ。
「紐の部分にスイッチがあるから……ええと……それ使ってとにかく飛べ!」
 苛立ったように叫ばれてしまう。大丈夫か、と一同が顔を見合わせる。
 紗夜子はなんだか、おかしくなってきた。この状況なのに、トオヤと顔を見合わせて笑ってしまう。トオヤの顔も、悪戯をするみたいな軽やか表情になっていた。
「ここまで来たら、もう何があっても怖くないよね」
「……だな」
 トオヤは上半身を止血帯で覆い、上からジャンパーを着込んできっちり襟元まで止める。紗夜子も手渡された男物で大きめのそれを羽織って、上半身を覆った。スカートの太ももの辺りが心もとなかったが、見られても気にしない。右足の感触もまだ違和感があるけれど、走っていけないことはない。
 機械を背負ったトオヤは笑いながら怒鳴って手を差し出した。
「来い、紗夜子!」
「うん! 行こう、トオヤ!」

 手をつなぎ、絡めて。二人で走った。呼吸を合わせて地面を蹴り、展望台の、手すりを飛び越える。

 身を躍らせる。
 空へ。


      



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