そこは放棄された土地だった。モニュメントが建ち、プレートが置かれ、死者の名前が刻まれている。手向けられる花は朽ち果て、その数も減った。時は流れ、死者は留まるが、生者は前へと歩むからだ。
そこに彼の妻の名前がある。彼の子どもの名前も。でも彼はしばらく、その名を呼んだこともなかったし、思い描きもしなかった。夢の中でだけ、その名を呼ぶことを許される。苦痛に歪むことない永遠の記憶の中でだけ、呼ばれた彼女は振り向き、笑う。揺する赤ん坊の手をかざして。その笑顔は何をも恨まない。子どもの笑い声は何も嘲笑わない。
そこに駆け来る少女の姿をとらえ、彼は微笑む。
「ごきげんよう。聖なる少女。女神を弑した聖女。紗夜子」
誰も、彼は動かないと思っていた。壊れているから、もう動こうとしないのだと、動くつもりもなければ未来の行く末など些末なことだと、すべて無関心なのだと思い込んでいた。
息を整えず、紗夜子は言った。
「エクス……」
白い男はうっとりと微笑した。
幕を降ろす手は、彼のものだ。
驚きはあった。でも予感の方が大きかった。母と同じように生まれた人が、この世界に対して何もしないなどということはないはずだと、紗夜子は本能的に知っていたのだ。
「……あなたの部屋にあった、あの塔のような装置。あれは、AYAと【女神】をつなぐ装置だったんだね」
「ええ。そしてサブコンピューターでもありました。僕が作業用にと使用していたものです」
「ジャンヌから【女神】との接続装置を抜き出したんだね。ジャンヌの記憶レコードを操作して、自分の思うように少しずつ状況を変えながら、様子を見てたんだ。そして爆破した。この戦いのすべてを見つめながら、最も人が悲しむタイミングを見計らって」
間に合わなければ、セシリアもAYAも破損し、機能しなくなる。エクスリスをどうにかしてももう仕方がないのだ。彼は誰も手出しができないような手を下した。紗夜子に出来るのは、ライヤやUGたちを信じることだけだった。
「どうして?」
「『どうして』?」
くすり、とエクスリスは笑みをこぼした。
「聞いたんでしょう? ジャンヌから。第三階層でも知る機会はありましたよね」
「ううん。少しだけしか」
「でも想像はできるでしょう? あなたは頭のいい人です」
教師のように促したエクスリスを見つめながら、紗夜子はその痛みを表現できずにいた。
何かの歯車が回り、その噛み合う歯に誰かが押しつぶされた。彼は、自分が失うことになったそれを再現したのだ。自分が歯車に手を加えて、自分の手で回しただけ。
「復讐のためです」
エクスリスの声が、彼の背後から吹いた風によって、紗夜子にぶつかった。
「僕の愛する人たちを殺したエデンに対して、僕が行った復讐です」
彼は慰霊碑に目を向けた。五年前、第一階層で起こった同時多発テロ。その死者の名前が刻まれている。この中に彼の妻と子の名前が残されているというなら、エクスリスには第三階層とアンダーグラウンドを憎悪する理由がある。
「……どうして、全部壊してしまわなかったの?」
「いつでも壊せるものを壊しても、楽しくないでしょう?」
彼はなんなく答えてみせた。
「最初は、【女神】とAYAを使ってすべて破壊してしまうつもりでした。そのためにジャンヌを手に入れたのです。彼女を使って【女神】に干渉していたのですが、そのうちに、全部壊しきってしまうのは面白くないな、と思ったんですよ……」
じわじわと首を絞めるように。力を込めるように。
「ライヤさんとの関係は」
「ライヤとの取引の内容は、僕の復讐を認めるから手を貸せというものでした。【女神】への干渉は、どうしてもAYAを操作する人間が必要になる。彼も苦渋の決断だったでしょうね。己と同等の実行者が必要とはいえ、僕などに操作を託すなんて。一応、僕も仕事として、【エデンマスター】の妨害を排除しつつ、セシリアが表に出られるようにしながら、あなたたちが仕事を全う出来るように手を貸しましたけれど」
「そこまでしてどうして?」
エクスリスは笑った。
「だって――絶望を描くには、希望が必要でしょう?」
白いエクスリスは婉然とし、人でない生き物のように、闇を、足下に広げていく。
「エデンは変わるのだと――世界はよりよく変わるのだと、希望を持って人は戦います。そして勝利した時、人の心は光を浴びる。でも、その希望がまやかしであることにすぐに気付くでしょう」
だが、紗夜子は飲み込まれない。胸を握りしめる。
「変化。それこそが僕の求めるものでした。恒久的な永遠、変化のない日々。それは平和です。ですがあなたたちはそれを壊し、変化を求めた。それこそが滅び。あなたたちはこれからも戦い続ける。戦いがなくなることは絶対にないのです。そして【女神】という堅牢な檻がなくなった今から、エデンは瓦解していくでしょう。遺伝子は変化し、僕のような者たちが現れ、精神的に狂い、世界は混沌に落ちる。エデンは滅びます。機械の手足を持ち、人工の臓器を持った者は、このエデンでともに滅びるしかないのですから」
ざあっと、人の声のように風が吹いた。足下で砂埃が舞い上がり、紗夜子の靴を汚す。ドレスの血を香らせる。紗夜子の背後にある階層は、まだ依然としてそこにある。なかったことにはならない。
遺伝子の浸食によって人が狂うのが早いか。
それとも新たな進化を遂げるのか。
都市が壊れるのが先か。
それとも世界は続けられるのか――。
答えは出ない。誰も知らない。まだ、何も始めてはいないのだと、紗夜子は思うから。
「それでも、私たちは、生きる。ここで、生きていく」
エクスリスは満足そうに微笑んだ。
「この世界が閉じているわけをお教えしましょう。過去に起こった大戦で、科学者たちは自分たちの理想の土地を作りました。しかし、その街はよくとも、世界は死んでいくしかなかったのです。私たちが手にする銃や爆弾よりももっと巨大な兵器が、その星を滅ぼしました」
彼らは決定を下した。
新世界へ――。
「大いなるそらへ――長い長い宇宙(そら)の旅の果てに、彼らはこの星を見つけ、降り立ちました。そして次第に彼らは気付いた。そこに生まれる新生児たちは、何の要素もないというのに、皆、銀の髪と銀の瞳を持ってしまう」
彼らは畏怖した。解明できない謎の現象。混乱が起こる。このままでは、遺伝子が侵食されてしまう。隔離。排除。廃棄……。
「彼らは船に引き返した……生まれた子どもや、かれらを手放せない家族を廃棄して……」
世界は閉じる。
彼らは罪を隠匿する。
媒体を廃棄し、埋めた。データを破損させ、消去し、抹殺した。
「船そのものが巨大な王国であったため、文明を続けるには十分でした。それはあなたもお分かりですね? 科学者たちは船の人工頭脳を用い、船の上の世界を閉鎖すると、統制コンピューターを作り出し、そこが一つの完璧な世界であるように運営を始めたのです。だから、アンダーグラウンドというのは、存在して当然の階層なのです。船の階層部分にあたるのですから。それがどれほど深いかは、データが廃棄されたために誰も知らない。ただ、地下階層は何層にもブロックを重ねたようになっている。そのため、第三階層にはアンダーグラウンドに手を出せないという暗黙のルールが存在しました。だからこそ、UGは消滅せず、第三階層も依然としてそこにあった」
積み上げた石の山を想像する。途中の部分を無理矢理引き出すような真似をすれば、上が崩れ落ちてしまう可能性があるだろう。
「それを、あなたが壊した――紗夜子」
顎を上げる紗夜子を、エクスリスは笑って受け入れた。
「でも、世界の成り立ちなぞ、あなたにはどうでもいいことなのでしょうね。創世の物語なんて、物語を解き明かすために必要なものであって、ただ生きる人間には、世界の由縁など意味はない。あなたは言うでしょう。『ただ、生きるだけだから』と」
彼は両手を広げた。絵画の一枚のように、権威を誇り、あるいは予言者のように、手のひらを上に向けて。
「大いにあがき、大いに生きなさい。生き汚く、その手を汚し、返り血を浴びながら、生き続けていきなさい」
それは世界の声だったのかもしれない。歪んだ形にくり抜いた雲を、あっという間に吹き飛ばすように強く吹いた風が、紗夜子の背を押した。紗夜子の背後で、階層都市は現れた太陽に明るく照らし出され、その光がエクスリスの目を射抜いた。紗夜子の目は影になり、自らの輝きだけで光る。
「許して。でもできれば……許さないで」
復讐が彼を生かし続けたなら、どうかその憎しみを抱いたままでいてほしかった。
生きていてほしかった。
彼の予言や真実のようなものを語る言葉が、本当に真であるかは分からない。彼が言うように、それは知りたい人が知り、語るものであって、その時代に生きたことはないのだから、本当のことは誰にも分からないことなのだ。
エクスリスは眩しそうに目を細めた。
「あなたが謝る必要はないのですよ。僕の愛した人を殺したのは、そういう社会と、命令者と実行者。あなたは手を下していない。あなたは単に歯車の一つです」
「この世界が本当に滅ぶのか、あなたには確かめる責任がある」
強い口調の言葉に、エクスリスに初めて笑み以外の表情が浮かんだ。
それは、限りない諦めと優しさと、柔らかな憎しみだった。
「ええ……許さない。エデンを、決して」
強い思いが人を生かすことを紗夜子は知っている。
たとえそれが愛でも。
にくしみでも。
さようなら、と彼は言った。
さよなら、と紗夜子は答えた。
そうして、幕を下し、エクスリス・オメガ=フォーは世界の果てへと消えた。紗夜子はいつまでもそれを見送り、そうして、蒼穹の中、トオヤが待ってくれている白銀に輝く都市へと戻る道を歩む。
あの街のために力を尽くそう。この手が血に汚れるのならば、最期の瞬間までそうであろう。非情に。非力に。覚悟を携えて、反吐を吐いて行く。不意に訪れる最期に、後悔を叫びながら、それでもなんとか、笑えるように。
――この身を削り、行こう。
彼が、みんなが待っている。