第一階層は、少し郊外に出ると、あっという間に人気がなくなる。エデンを取り囲む広大な森林地帯に人を襲う獣はいないというが、人を襲うヒトはいるのだ。だから、人々はあまり外側にやってこず、バスやモノレールが通る内側でぬくぬくと暮らしている。
 街を更に広げるべく、森林開拓のための事務所として建てられた二階建ての建物は、放置されて廃墟になっていた。一階には割れた瓶や割れたコンクリートがちらばり、血痕のようなものも見られる。ならず者どものたまり場になっているのだ。それらを踏みしめ、トオヤは落書きされたコンクリートの壁に指を押し付けた。
 長く指を置いてからスライドさせると、九つの数字が浮かび上がる。素早く七つの数字を入力すると、目の前の灰色のコンクリート――実際はそれを表面にした防火扉がスライドし、緩く下降しながら蛇行する長い廊下が現れた。
 ここに来るたびに、「探検」と「秘密基地」という二つの言葉が思い浮かんでしまうトオヤだ。
 常に働く監視カメラに軽く手を振ると、次の扉は自動的に開いた。
 道を下っていった先は。部屋になっている。数台のコンピューターが設置され、こうこうと明るい小部屋だ。机の上には飲みさしのペットボトルやコーヒーのこびりついたカップが置かれたまま。開いた扉の風圧で、空っぽの菓子袋が足下を回転していく。
「おかえり」
 ナイフを磨いていたディクソンが言った。
「ただいま」
「おかえりぃ。うっわ、まった派手にやったなあ、トオヤ」
 椅子を回転させて改めてこちらの惨状を眺めているジャックに、ん、と答えながら、冷蔵庫からペットボトルを取り出した。
「いくつか隠れ家に強制捜査が入った。移動させねえと」
「それで、その状態なん?」
「……そんなひどいか?」
 不思議に思いながらジャケットを脱いでみると、なるほど、結構ひどい。
 別の隠れ家に強制捜査が入った現場に出くわしてドンパチやったのだが、ジャケットにはまた穴が空き、ところどころ焦げ付き、すり切れてしまっている。ズボンは黒いから分からないが、どうやら返り血や味方の血が黒くこびりついてしまっているようだ。
「傷はないからいいか」
「大雑把やなー……」
「どうだ、様子」
 呆れたように言ったジャックだったが、トオヤの問いかけにあかんあかんと手を振った。
「なぁんも進展なし! サヨちゃんに関連したものに動きは見られへんな」
 エデンのトップ、三氏。その一人に名を連ねる高遠氏の娘、紗夜子を保護してい一週間。彼女の偽名、エリシア・ブラウンなる人物が、確かに第一階層で六歳のときから生活していたことには裏付けが取れていたが、まだその理由が明らかでない。
 何故、高遠氏はたった六歳の娘に、偽名を名乗らせた上で第一階層に隠すようにして生活させたのか。
 第一階層での紗夜子の生活は、幼少時は恵まれたものではなかったようだ。第三階層から家族などが訪ねてくるわけではなく、表に出てくる保護者はどうやら影武者に近かったようで、小学校卒業時には家政婦もいなくなっていた。衣食住は保証されていたようだが贅沢が出来るわけでもなかったらしい。
 お家騒動か、それとも何か別の理由か。第三階層の噂は、さすがに下の階層には聞こえてきにくい。
「第三階層に戸籍、ないみたいやしな」
「確かに、高遠紗夜子という人物は、第三階層者として公表されたことはなかったようだな」
 だが、高遠の娘だ。例え彼女がUGと接触したのが偶然とは言え、何らかの秘密を持っていることは間違いない。
 エリシア・ブラウンの関係者に監視を置いたが、ジャックの言う通りだとすると、第一区第一高等学校二年のエリシア・ブラウンは自宅に放火した後、行方不明とされたまま、周辺に動きは見られない。このまま忘却の彼方に追いやるつもりなのだろう。いつの間にか警察の事件記録からもこのことは消えているに違いない。
 ジャックは悔しげに顔を歪めた。
「……くっそー、本部の許可あったら、行政府のサーバーに侵入すんのになあ!」
「本部は頼んねえからな」
 今はまだ。共通認識である事項を口にすると、はいはいとジャックはいなした。
「でも一応調査データは揃えとかんと。後から突かれたら、またトオヤ呼び出し食らって謹慎やで? 先鋒部隊の隊長が謹慎食らっても、『後何ヶ月自由でいるか』っていう賭けの種にしかならんわ」
「じっとしていない隊長だからな」とディクソンは笑っている。
 トオヤも自分につけられた呼び名は聞いている。先鋒部隊長ではなく、『特攻』部隊長。ひとときもじっとしないで、いつか自分で弾を食らって戦死するだろうという揶揄だ。そこまで馬鹿じゃない、とトオヤはむっとする。
 そんなタイミングを見事に見極めてディクソンが聞く。
「そっちはどうだ」
「いつも通り。相変わらずUGに降りてこようとするヤクザものが多い。でも妙な噂を聞いた。『UGの女』って触れ込みで売春させてるやつがいるらしい」
「本部に睨まれたらどこにも生きてかれへんのに、勇気のあるやっちゃ」とジャックが頭の後ろで手を組んでくつくつ笑った。
 一般的に不良、暴力団と呼ばれる者たちと、アンダーグラウンドのUGはそれぞれ一線を画している。不良と暴力団は第一階層における組織で、この二つにはお互いに定義があるだろう。UGは、大義的にエデンに組み込まれていない者たちを指す。アンダーグラウンドという世界を持っている時点で、彼らはこの階層社会に反旗を翻している反政府組織だと言えるのだった。
 だが、一方で暴力団などが関係する裏社会に介入していることも多い。目的は資金集めだ。戸籍がなく、正規の仕事が出来ないUGは、そうした暗部に介入して自分たちの世界を動かさなければならなかった。アンダーグラウンドという小さな世界を作り出してはいるが、独自の通貨や貨幣を作るには、多くの人間が上階層に依存しているところがあり、またエデンを離れるということも同じ理由で難しい。エデンの都市の向こうに広がる広大な森林までも、統制コンピューターの監視の目が及んでいるという。
 情報統制によってUGをただの過激派や犯罪組織だと思っている上階層で、特に中高生やかわいい犯罪者は、脅しの意味でUGの名を用いたりもした。だから、第三階層が貼ったレッテルは、むしろその強度を増してアンダーグラウンドの者たちからはがれようとしなかった。
「妙な噂、というのは、他にも理由があるんだろう?」
 ディクソンに、トオヤは頷いた。
「その代金っていうのがクスリなんだと」
 ジャックが口笛を吹いた。
「ごっつい高級娼婦やな、その子」
「茶化すな。……それで、最近ヤク中患者、増えてる気しねえか」
 ジャックは椅子を回転させ、パソコンに情報を打ち込む。すぐに回答が返ってきて、ディスプレイに映し出されたのはアンダーグラウンドにあるいくつかの医院のカルテだった。それを一通り眺めた彼は、うん、と頷いた。
「女の子、多いわ」
「その触れ込みが本当だったとして、複数の少女たちを斡旋する人間が必要になる。売春をさせているのは、男か?」
「ああ。でも写真に映ってるのは知ってる顔じゃなかった」
「トオヤが知らへんならUGちゃうかもな。UGの若様を舐めたらあかん」
「だから茶化すな。それに、若様っつったらお前の方だろうが」
「十代の少女の記録は、十人ほどか。それだけの少女に声をかける男が、俺たちの目に留まらないはずがないんだが」
 ディクソンが静かに考え、トオヤもジャックとの言い合いを止めた。確かに、彼の言う通りだ。
「そいつに協力してるやつがおるかもしれへんな。俺らの目に留まってないっちゅうことは、女の子かもしれへん」
「ジャックの言う通りだろう。少女たちには、上の階層に行きたいと願う子もいる。そういう噂を聞きつけて、その協力者が上へ連れていっているのかもしれない」
 売春のために第一階層に連れ出されることで一度日の光を見れば、少女たちはまた光を浴びたいと願うようになり、また誘いに乗る。いつかクスリに手を出すようになったりもするのだろう。
「どこのチンピラかな。第一? それとも……」
「第三、か」
 お互いに目を見交わす。
「サヨちゃんの方に動きはないし、ちょっとこっちの方、解決せえへん?」
「取りあえず注意喚起はした方がいい。光来楼に忠告しておけば、他の店にも噂が回る。紗夜子さんの様子も気にかかるし、そろそろ見に行った方がいいと思うが」
 どうだ、とディクソンに言われて、トオヤは頷いた。
「そうだな。そろそろ、あいつも落ち着いただろ」


      



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