地下世界の四季は知らないが、日が射さないアンダーグラウンドの冬は常に底冷えがする。だから人は、明るい場所で騒いで酒を飲むのかもしれない。酒宴の声は耳に痛いくらいに大きかった。
 光来楼は複数の個室で成立している。きちんと中を覗いてみたことはないが、どうやら大座敷と呼ばれる大きな部屋もあるようだ。しかしそもそも何階建てなのかを知らない紗夜子だった。多分三階くらいはあるだろうけど、その数も知らない部屋ひとつひとつ見ていくわけにもいかない。
(表に出ちゃいけないとは思ったんだけど……)
 でも、ちゃんと捕まえておかないといけない気がした。予測をつけたことが恐くて、ミシャを目の前にすると何も言えなくなる自分に想像がついたが、このまま放っておくことはできない。

「こら、お前、何してるんだい」
 尖った声とともに腕を引かれた。化粧の濃いお姐さんが紗夜子を隅へ引っ張り込む。
「そんな格好でうろうろしないでちょうだい。お前が客を取るなら話は別だけどね」
「ごめんなさい。あの、ミシャを知りませんか?」
「未沙なら仕事中。用事なら後にしな」
 仕事中なら仕方がない。もう一度お姐さんに「ごめんなさい」と頭を下げるが、酒と香水のにおいを吹き付けるようにして、彼女は紗夜子をうっとうしげに睨みつけた。
「瑠璃さんも何考えてんだか。売れもしない生娘を置いとくなんて」
 びくっと身体が跳ね、心臓がぐっと痛んだ。
「上育ちだから健康的だし、見た目も申し分ない。その筋の趣味の人間に高く買われるだろうねえ。知ってるかい、アンダーグラウンドにはね、地上の女だけを買うやつや、処女趣味の人間もいるんだよ。男だけとは限らないしねえ」
 宴会の声は頭痛がするくらいうるさく、その中で、女性のきゃらきゃら笑う声は金切り声のように目眩を覚えさせた。恐怖と、怒りのせいだった。人間を商品として見ている言葉を、誰かに投げつけられたことなんてなかった。
「お姐さん、そこまでにしてあげてください」
 春風を思わせる声が吹き込み、笑い声が止まった。
 紗夜子は目を見開く。
(綺麗な人!)
 少女人形やモデルを思わせる柔らかな美しさと、それに見合った優しい微笑を浮かべた女性がやってくる。
「シオン」
「お姐さん、嘘ばっかり。光来楼では身売りはしていないでしょう? 怖がらせちゃ可哀想です」
 言われた女性は眉を跳ね上げ、ふんと鼻を鳴らした。
 シオンと呼ばれた女性が素早く近付いてきて紗夜子に言った。
「こんなところにいちゃだめよ。このお店の中にいる女の子に対して、お姐さんが言ったようなことを考えている人も、時々いるの。早くお行きなさい」
「ごめんなさい! お姐さんも、ごめんなさい」
 急いで頭を下げて紗夜子は一旦裏へ回ろうとしたが、遠くから呼び止められた。
「未沙、そろそろ上がりのはずだから玄関の方に回ってみな」
 さっきのお姐さんだった。ありがとうございます、と左右の宴会部屋の声に負けないくらいに言って頭を下げた。シオンは羽のような白い手をひらひら振って見送ってくれた。

 玄関には、店の女の人たちが出迎えや見送りに現れる。紗夜子はその隅に飾られた花の側にこっそり身を潜めて様子をうかがった。ここにいれば確実に捕まえられるだろう。
 向こうを美しい女性たちが滑るように歩いていく。
 光来楼の仕事着は着物だ。肩をむき出しにし、胸元を強調させた艶やかな女性たちが笑いながらお客に応えている。建物内の明るさを見れば、ここがアンダーグラウンドとは思えないくらいの美しさと華麗さだ。ここにこんな建物を、こんな街を作った人はすごい。
 でも一方で闇を含んでいるのだろう。光来楼の女性たちはきっとここ以外に行き場がなく、シャーリアたちはこの仕事をしていかねばならず、ミシャはもしかしたら犯罪に手を染めているかもしれない。
 一際強い雰囲気が漂ってきた気がして、紗夜子は驚いて目を凝らした。見れば、桜色の着物を着て笑っているのは、そのミシャだった。
 店を後にする客に応え、笑って見送る。男性たちがいなくなると、華やかな声がどっと空気が疲れに澱んだ。女性たちは三々五々に散っていく。次の仕事がある人、もう休む人、それぞれだ。
 次の瞬間、紗夜子はだっと走り出して、幽霊のようにうつむいてと裾を引きずっているミシャの手を取った。
「っ!? あ、……サヨコ……」
 ふやあっと、アイラインとマスカラで真っ黒の目と、ファンデーションで真っ白の顔で笑う。ポケットの中の物のことを思うと、ミシャの口紅の赤は痛々しいくらいに思えた。
「ちょっと、いいかな」
「うん、いいよ? 用事まで、ちょっとあるから」
 ミシャは紗夜子の手を取って、ちょこちょこと玄関の隅へ引っ張る。ここではちょっと、と思ったが、それよりも時間が惜しい。声を潜めて尋ねた。
「ミシャ、あのお守り……どこで手に入れたの?」
「第一階層に、知り合いがいるの。彼から、お守りだって」
「あれが何か、分かってる?」
「うん。クスリだよ」
 絶句した。
 目の前のミシャは、あまりにも無邪気だ。しかし、紗夜子の感じた強い雰囲気は、彼女自身の儚さや華麗さではなく、薄暗く、黴びたような、影と同じものなのだと認めなくてはならなかった。
「仕事前に使うとね、緊張しなくなるんだ。つっかえつっかえ喋らなくていいし。気分が落ち込んだときとかにも効果あるよ」
 目眩がした。それとも、紗夜子の常識はここでは通用しないのだろうか。「……使っちゃいけないものだよね?」と恐る恐る訊くと「うん、だから秘密なの」と悪びれない答え。
「サヨコも一緒に行く? 用事ってね、上に行くことなの。彼に会いに行くんだ。お日様、見られるよ。今十七時前だから、夕陽」
 紗夜子はのろのろと首を振った。脳のキャパシティが付いていけていない。
「そっか。じゃあ、私、行くね。何かお土産、買ってくるよ」
 ミシャは残念そうに肩を落として、着物の裾を滑らせて去っていった。
 紗夜子は額を押さえる。
(私が変なの? 違うよね、秘密って言ったし。知られちゃいけないことだよね。私どうしたらいい? 誰かに言うべき? この場合、誰に言えばいい?)
 ミシャの名誉のためにも、秘密裏に、信頼できる人に対処してもらいたい。でも、そういう大人が思い当たらない。二人だけ例外があるが、彼らを頼っていいものかも悩む。彼らはUGだ。高遠の娘である紗夜子には、彼らを完全に味方だと判断する決め手が多くはない。
 その時、何かのにおいが鼻をついた。
「おっ嬢ちゃあーん」
「うわ!?」
 ぶわっと酒が匂ったかと思うと、何か重たいものが覆い被さった。倒れ込むように壁に押し付けられ、紗夜子は疑問符ばかりが飛ぶパニックに陥る。
「こんなところでなーにしてるんですかーあはは。ボクすっごく寒いんでーあっためてくださあーい」
 紗夜子を店の女の人と勘違いしているようだ。首筋に酒臭い息がかかり、紗夜子は必死に身体を押し返そうとする。
「いやーん、嫌がんないでよーおー」
「……っ!」
 声が出ない。玄関には出迎えも見送りもないため、人の姿がない。助けを呼びたいのに、もがくことしか頭になかった。触られたところから動けなくなる。恐い。こわいこわいこわい。涙目で滲んだ視界、体重を支えきれなくなり、背中がずるずると壁を滑る。
 くすくすと耳元で笑い声がして、ぞわぞわする。
「かーわーいーいー」
 言われても嬉しくないわ! とからからの喉が声を絞り出した途端。
「ぶごぅっ!?」
 酔っ払いの身体は横へ吹っ飛んだ。

「あ? 何やってんだ?」
 柄の悪い声だ。
 汚いものを蹴飛ばしたとばかりに、彼は靴を振っている。見知らぬ、がたいのいい筋肉質の男性が、ぴくぴくと震える酔っ払いの襟首を掴んで持ち上げていた。
「災難やったなあ、サヨちゃん」
「ジャッ、ク、さ……」
 肩を叩かれる。こうして二人に助けられ、慰められるのは二度目だ。
「トオ、」
 呼ぶ声は言葉にならない。代わりに深く深く、息を吐いた。長く、繰り返し。激しい動悸は落ち着いて、ようやくものを考えられるようになった。ジャックを見上げると笑いかけられ、見知らぬごつい男性が酔っ払いの襟首を締め上げている。トオヤは鋭い目でこちらを見下ろし。
「……ちょっとは肝が据わってるかと思ったけど」
 ため息まじりに言われる。
「毎日は助けてやれねえよ」

 ――第一階層で、車に轢かれそうになり、人でない者に追われ、殺されそうになり。助けてもらわなければ、自分は生きていけないと思い知らされて。
 父に殺される。自分はそれほど憎まれている。何がきっかけだったのか、一体自分の周囲で何が起こり、自分が何をすべきなのかを知らなければならないと思い始めたところで、この言葉。
 それは、あまりに紗夜子を侮っているように思え。

 太くはないと思っていたけれど、頑丈だったそれが、やがて、ぷつん、と音を立てた。
 紗夜子は立ち上がると、襟が絞まって呼吸困難寸前の男に向かい、思いっきり。
「あごぉ!?」
 ばちんともばごんともつかぬ勢いで、ローキックを見舞った。
 絞められていた男は取り落とされ、尻を押さえてもんどりうっている。三人の男は、震える紗夜子を、ぽかん、と口を開けて見ていた。
「……あーもうくそっ! 分かってたよ! 私が落とされたのはこういう世界だってことくらいっ!!」
 だからって竦んだ自分に腹が立つ。きいいっ、とヒステリックに叫びながら絨毯を抉る勢いで地面を蹴り、地団駄を踏む。そうすると、うっすら視界が滲んできた。
 言われなくても分かっている。自分の身は、自分で守らなければならないことくらい。そんな風に、自分のことでいっぱいいっぱいなのに、ミシャのことを気にしている余裕がないことくらい。
『み、みんな厳しいけど、で、でも嫌いなわけじゃないよ多分!』
 でも、心配して親切にしてくれた人を大事に思うくらいには紗夜子は人間でいたい。
 ここは紗夜子の生きてきた世界ではない。でも、確かに存在している世界だ。ここは、エデンの一部。見ないふりはできない。アンダーグラウンドだって、人間の生きている世界だ。
「このやろー! こんなところで怯えてる場合じゃないんだよー!」
「ストップ! ストップ、サヨちゃん。このまま蹴ると、法律で言うたら過剰防衛や」
 ふーふーと暴れ牛のごとく息をする紗夜子は、ジャックに両手首をホールドアップの状態で掴まれる。それを、紗夜子は大きく振り払った。
「おい、どこ行くんだ? って、外じゃねえか。おいこら、出るな」
 紗夜子は振り返る。そして、掴まれた右手を持ち上げ引き寄せ、がぶりと相手の手首をやった。
「ってぇ!?」
「サヨちゃん!?」
 手が離れた隙に、紗夜子は店を飛び出した。電灯の灯りから一転、闇にネオンの光る地下世界へ。上を目指す道は、緩やかに坂を描いている。それを睨みつけると、一気に走り出した。


      



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