「サヨちゃん」
静かな呼び声のした扉の向こうから手招きするのは、ジャックだった。彼は紗夜子に居住まいに少し泣きそうな目をした。
「おいで」
なんだかそれが、軽薄な姿とは裏腹に、とても優しいお兄さんのようだったので。
紗夜子は子どものように座り込んで泣いていたところからふらふらと立ち上がり、誘われるがままについて行った。
無理矢理引っ張り込まれたそこは雑居ビルのような建物だった。打ちっぱなしのコンクリートの壁が続き、スライド式の扉があって、上には教室のように札が立っている。何かに似ているのだが、思い出せない。
腫れぼったい目をこすり、鼻をすすり上げる。涙は止まらない。ふとした瞬間に流れ落ちて、紗夜子は顔を歪める。
ジャックが足を止めたのは狭い一部屋だった。微かに拾えた機械の音に聞き覚えがある。規則正しい、ぴっ、ぴっ、という音。
そうして、自分が先程から何を思い出そうとしていたのかに思い当たった。
(……病院……)
廊下から見えた光景に、紗夜子は立ち尽くした。ジャックが、すれ違い様、その耳に囁いた。
「もう一人は助けられへんかってん……ごめんな」
優しく背中に手を添えられる。押された気がして紗夜子は一歩踏み出し、その後は、顔も身体も崩れ落ちるままにベッドに伏した。
「ナスィーム……!」
「エリ、シア」
声にもなっていない声だったが、名を呼んでくれたのは分かった。
友人は、頭だけでなく、手足にも包帯が巻かれており、制服ではなく病人が着るような上下になっていた。顔には微かに血の跡があり、よく見てみれば、歯や、口の中が真っ赤だった。
部屋で動き回っていた白衣の老人が、紗夜子に言う。
「ちゃんと言いたいことを言うんだよ」
顔を見ると、穏やかな顔をして頷かれた。どういう意味か知ってしまった紗夜子は泣き出しそうになりながら、ナスィームの手を探り、その乾いていた手を握りしめた。強く。
なのに、彼女は痛いとも言わなかった。
「エリシア……ごめん、ね……」
「謝らないで。謝ることなんて何もないよ。……私の方が、ごめん、だよ……」
「エリシア、って……サヨちゃんって、呼ばれてるの……?」
ふふっとナスィームが笑う。
「さっきの、男の人……サヨちゃんのために、頑張れって、言ってて……あの人、ちょっと悪そうで……かっこいい、ね?」
「……やだ、ナスィーム。好きになっちゃったの?」
「かも、ね……えへへ……そんな状況じゃ、ないのにね……」
紗夜子は泣きながら必死に首を振る。そうすればそうするほど、これからやってくるものを遠ざけられると信じているくらい、何度も。
「大丈夫、だよ、エリシア……私、大丈夫……」
何が大丈夫かも、彼女は分かっていないに違いない。それでもこちらを励まそうとする言葉に、涙が止まらない。目が溶けてしまう。息が出来なくなる。頭が爆発しそうだ。今、世界なんて吹っ飛んでしまえばいいのに。
「あ、あ……最後に、三段重ねのアイス、食べとけばよかった……私、ね、告られてて……二人に相談、しようと思ってたんだよ、今日……」
「今すればいいよ……どんな人?」
「……ん……三組の、人……でも、もういい……もう、無駄だもん……無駄じゃないとか言わないで、ね? ……分かってるの……分かってるんだから」
ナスィームの手が、急に強ばる。笑い顔が、泣き顔に変わる。
「ね、ねえ、どうしてかなあ? 私、どうしてかなあ、死にたくないよ、死にたくないのに、どうしてこうなったの? ねえ……!」
「ナスィーム」
紗夜子だって聞きたい。悲しい。悔しい。名前を呼ぶことしかできない。折れてしまうくらい握っている手は、決して同じだけの力を返してはくれない。その内側から急速に熱が消え失せていくのが感じ取れる。それに手を伸ばそうとする。とどめるために名前を呼ぶ。
「ナスィーム、ナスィーム!」
けれど、紗夜子の言葉なんて何の意味もない。何も考えつかない。思いはぐずぐずに崩れて、嗚咽にしかならない。嘆きだけを吐き出す息はその言葉しか形作らない。
たすけて。だれか。
「死にたくない、死にたく、ないよ、ねえ、エリシア。エリシア……! あ……」
ぶるぶると震えながら、ナスィームはどこか宙を見る。
「見えない。エリシア、どこにいるの、ねえ、エリシア……!」
「ここにいるよ、ここにいるよ!」
「うん、うん、離さないでね。お願い」
「ナスィーム、私」
「エリシア、私……」
会えてよかった。紗夜子は、その言葉が別れを決定づけるものであると気付き、続きを言えなくなった。
紗夜子の言葉と同時に、ナスィームのその瞳が、透明感を帯びた。
そうして、そのまま眠るように瞼が降りた。
「死にたくない、よ」
何が起こったのか分からなかった。それは、あまりに突然過ぎた。
「ナスィーム……?」
死を知らせる音は長く、耳障りに、続く。
握りしめた手が、妙に強ばっていて。
そこに、もう心はないと悟ってしまった。
「ナスィーム!」
答えてくれるはずの暖かさは次第に失せていく。
それくらい長い間、紗夜子は彼女の手を握っていた。
――かつて、第一階層は、紗夜子にとって初めて見る世界だった。
学校に現れる保護者は名ばかりの代理人。家では家政婦が機械的に仕事をしているだけ。家族はいないのと同じで、それを寂しいと思う以前に、そうあるものなのだと紗夜子は受け止めていた。
きっと、心が死んでいたのだろう。
ちいさなおうち。ちいさな私の部屋。いつもなにがしかの音が聞こえて、いつかそれが生活音だと知るようになるけれど、その時はまだそれらは何の意味も持たないただの音でしかなかった。
小学校一年生。途中で転校してきた、という形で、紗夜子はその学校に通わされた。同級生になる子どもたちはいつも誰かしら土まみれで、下品な言葉を交わして笑っていて、不思議だった。どうして学校にそんな楽しいことがあるのだろう。私も、そんな風に汚れるのだろうか。
でも、あの子たちは、綺麗な格好でいる私なんかより、ずっとずっとずっと楽しそうだ。
視覚を、聴覚を、触覚を、味覚を、嗅覚を、全身を覆う透明な膜越しに、紗夜子は世界を見ていた。
そこに飛び込むようにして、少女たちが現れた。
プラチナブロンドの少女と、黒髪と浅黒い肌の少女。紗夜子は、髪型こそ違えど、二人が同じリボンをしているのを訝しく思った。持ち物がかぶってしまうなんて、みっともないのに。
……どうして同じリボンをしているの?
紗夜子の問いかけに、二人は顔を見合わせて笑顔になった。後ろめたさも、卑屈さも、嫉妬もない、喜びの顔。彼女らの関係は、紗夜子にとって初めて見る結びつきだった。
フィオナと名乗った少女は、二つに結ってあった一方のリボンを紗夜子に差し出した。
『あたし、フィオナ。こっちはナスィーム』
『友達になろうよ!』
そう言ってくれた二人を、紗夜子は永遠に失ったのだ。
「…………」
ちがう。失ったんじゃない。
奪われたのだ。
父に。
あの高みから、取り上げた。
ナスィームの手を握りしめ、彼女の顔を見る紗夜子の目には、溢れんばかりの涙が溜まっている。だがそれを流すことは負けることだった。代わりに、切り刻まれ押しつぶされる痛みを唇を噛んで堪えた。きつく押し殺した、燃えるような声が吐き出された。
ぶちっ、と鈍い音が骨に響いた。噛み切った唇の痛みは、焼けて焦げ付くくらいに苦い。舌に刺す酸の味。口の中に血の味が広がった。その唇を開き、紗夜子は言った。
絶対に。
絶対に。
「絶対に、許さない」