「はやく」
短く、音にもならなかった呟きは、ラジカセから流れてくる音楽に消えていく。筋肉が動き、心拍数が上がり、肺から押し出される息の中に、思いは混ぜ込まれる。
はやく。
――早く、戦えるようにならなくちゃ。
一方の壁が鏡になったトレーニングルームでは、ジャックが持ち込んだ、彼の選曲だというテクノ音楽CDが、他に聴くものもないので延々流れている。今もまた、リピート再生できゅるるとディスクが回る音がした。
右腕を伸ばし、肘の辺りで左腕を交差させて筋を伸ばす。手を反対にして同じように。屈伸した後は、長座して前屈する。足を広げ、腿を伸ばす。続けてアキレス腱、ふくらはぎと伸ばし、足首を回す。学校の体育の時間よりも念入りに、丁寧に。その後は長々とトレーニングが待っている。腕立て伏せが五十回。腹筋が五十回。背筋が三十回。スクワットが十五分。
フォームを正しくしなければ効果が上がらない、鏡の前でのトレーニングがいいと言ったのは、見た目からしていかにも『趣味は筋肉増強です』という感じのディクソンだった。上着の下の腕を見せてもらったが、筋肉の付き方が尋常じゃなかった。それでも、彼は狙撃手だと聞いた。肉弾戦でも十分通用しそうだと思ったのが顔に出て、ジャックに笑われ、ディクソン本人には苦笑をもらった。
いきなり筋肉がつくわけではない。毎日の積み重ねが必要だ。ディクソンは物静かな微笑みを浮かべて紗夜子に言ったが。
「……は……」
呼吸が乱れた。唇を惹き結び、息をコントロールする。
もどかしかった。すぐに力が手に入るわけではないと納得しているけれども。
こんな風に、一人の時間が多いと、紗夜子はこれからのことをよく考える。
「アンダーグラウンドの目的は、エデン階層社会の革命だ」
トオヤの言葉は、これまでの紗夜子、つまり第一階層の人々の『UG』の認識を否定するものだった。
そもそも、UGというのはエデンに認められなかった者たちを言う。これだけは第一階層者が考えるものと違わない。問題は、その中身なのだ。
UGという言葉が指すが犯罪者に代表されるアウトローを指すのか、それともエデンが危険人物として抹消しようとしている者か、エデンという機構自体を認めなかった反政府派を指すのかの認識の違いだ、とトオヤは言った。
地上の多くの人々は前者であると考え、UGと自ら名乗る者たちは後者であると考えている。
つまり、偽称する者の存在こそあれど、支配者階層は、第一階層にいる犯罪者たちとレジスタンスUGを一緒くたにする情報操作を行っているのだった。
紗夜子は自分がくぐった入り口を思い出す。
「ここに来るにはパスワードがいるし……ちゃんとした人たちなんだね」
「や、それは違うで」
厳重に管理されている世界なのだから犯罪者も多くないだろうと思って言ったのに、ジャックはあっさり否定した。
「地下に降りてくる、ということ事態に相応の理由が必要だからな。アンダーグラウンドにいるってことは、上にいられなくなったってこと。犯罪を犯した人間もごまんといる」
「……それって、大丈夫なの?」
いきなり背後から襲われてずどん、なんてことが日常茶飯事であるようなら、まだしばらくはアンダーグラウンドに慣れそうもない。
「自分の身を守れれば問題ない。だろ?」
そうであって当然、という口調で言われればため息を禁じ得ない。
紗夜子は六歳まで第三階層で『相応の訓練』を受けたこともあるが、それ以降は普通の一般市民として生活を送っている。ナイフの扱い方や射撃の腕を口にする以前に、基礎体力に問題があるのだ。まだまったく心もとない。
「でも紗夜子さんには素質がある。毎日トレーニングを欠かさなければ大丈夫だ」
ディクソンが励ますように言ってくれ、紗夜子は頼りなく頷いた。
「アンダーグラウンドの人間は多種多様や。まあ危ないやつもおるけど、最初からここに生まれたのもおる、上に居場所がないから流れてきたやつもおる。第三の陰謀で落ちてきたやつもおる」
つまり裏社会がそのまま地下に作られているという程度の認識でいいのだろうか、と勝手に納得する。彼らは光来楼の人々以外に接していないので、まだ把握はできなかったからだ。
「ジャックたちは、どういう人たちなの? 【魔女】ってなに? タカトオの秘書……エリザベスのこと、【魔女】って呼んでたよね」
「いやあ、そんなに俺らのこと気にしてくれんの? 嬉しいわあ、かわいい女の子に興味持ってもらえて!」
と、いきなり距離を詰めて紗夜子の顎を捉えたジャックのコマ付き椅子を、トオヤが蹴飛ばした。椅子が回転しながら吹っ飛び、あーれーという声を上げたジャックはパソコンデスクに椅子もろともぶつかり、臑を打って悶えている。
「UGは革命を目的すると言っただろう? それに相対するのが第三階層で、その守護者【魔女】たちなんだ」
ディクソンが穏やかに言った。彼は、自身の身体の大きさや声の低さで、相手を威圧しないように、言い聞かせるような静かな口調で話してくれる。
「エデン機構に反対する人間は、エデン設立しばらくしてからにはすでに存在していたそうだ。彼らはアンダーグラウンドという世界を作って潜伏し、エデン機構つまり第三階層と戦ってきた。しかし、約五年前、第三階層を守護することを目的として現れたのが、【魔女】というアンドロイドたち」
異形のエリザベスは脳裏に焼き付いていた。人間の形と機械の間の、兵器のような姿だった。
彼女と初めて会った時のことを思い起こした。
父の秘書としていつの間にか傍らにあった、金色の髪に青い瞳をした若く美しい女性を、紗夜子は最初、新しい夫人なのかと思った。高遠夫人はすでに病死しており、結婚してもおかしくないと考えていたのだ。
エリザベス・フレイザーは、その時出会ってから五年間以上、姿形を変えていない。髪型が変わり、服装も流行につれて変化はあったが、いつまでも二十代前半の美貌を保ち続けている。
やはり、彼女は人間ではないのだ。
「【魔女】の登場以前から、UGは【司祭】と呼ばれるサイボーグたちと戦っていた。『都市監視者』の噂を聞いたことがないかな」
「エデンの監視者、って都市伝説ですね。電話内容が漏れていたとか、自分が一人きりの行動を遠く離れた会ったことのない人たちが知っていたとかって話でしたけど……」
「第一の住民の行動を把握するために、第三階層が置いたスパイ。それが【司祭】。第三階層の命令を受けて第一階層を監視している者たちだ」
「本当にいたんですね……」
紗夜子は喉を鳴らし、考え込んだ。それに、「だーいじょーぶ!」と明るく言ったのはジャックだ。
「サヨちゃんの知ってる人に【司祭】はおらんかったから。だから大丈夫」
「ジャックさん……」
紗夜子は淡く笑った。言い様のないもやもやとした思いで不安になっただけだったのだが、彼の言葉は、紗夜子自身も気付いていなかったその原因を解消する答えをくれた気がした。
「さて【魔女】だ」
ディクソンが話を戻す。
「UGの目的は、この【魔女】を退け、階層社会を革命すること。ひいては、エデン全体をコントロールしている統制コンピューターを掌握することだ」
紗夜子は目をやった。壁に寄りかかり、少し発言したきり、ジャックとディクソンに説明を任せて、目を閉じて聞いているトオヤ。彼らは以前、『マスターがどう動くか』という理由で第一階層を襲撃したことがあり、紗夜子はそれに巻き込まれている。
「UGが第三階層と戦っているなんて知らなかった」
正直に告げると、ディクソンは苦笑していた。
「相手が第三階層だから。情報操作もされてきたし、インターネット上でも情報は規制されて、なんとか知られても都市伝説の域を出ずにいる。これまでにいくつか戦闘もあったけれど、誰も第三階層に辿り着いたことはないんだ。風向きが変わりつつあったのは二十年前。はっきりと変わったのは一週間前」
「一週間前?」
首を傾げた時、すっと隣に誰かが立った。
「『【魔女】に狙われている高遠紗夜子』の存在だ」
一挙に視線を受け、紗夜子を怯んで顎を引いた。上目遣いに彼らを見て、その真剣さに身体が小さくなりそうだったが、意識的に息を吸って胸を張る。ジャックとディクソンはそれぞれ微笑ましげな表情をしてくれた。
「これまでUG以外の人間が【魔女】に狙われた例はなかった。そもそも、【魔女】の存在理由はエデンの円滑な運営のための守護者であるはず。それがいち人間を狙うなんてことがあるか」
降ってくる、疑惑を含んだ指摘の声に、紗夜子はごくりと喉を鳴らした。
「……でも、エリザベスに命令できるのは、きっと父しかいない」
「高遠氏はエデン運営者の一人だ。お前の存在が、エデン運営に何らかの関わりがある可能性だって、」
「ありえない」
思わず遮り、言い返していた。けれど激しているわけではなく、ただ事実を述べただけだった。
「あの人は、ただ私が憎いだけだ」
紗夜子の声は冷たく、固く、落ちた。パソコンと空調、換気扇の稼働する音だけが、沈黙から浮いたように響いていた。
トオヤ、ジャック、ディクソンがそれぞれに何を考えたのかは分からない。ただ、断定的に理由を口にした紗夜子の素性や経歴に納得しただけかもしれなかった。
紗夜子は落ち着くためにひとつ息を吐くと、顔を上げて問うた。
「UGの最終目標は?」
三人の背筋が伸びる。
「階層者社会の崩壊、すなわち全市民の平等。どの市民にも政治主導が可能になる権利の獲得」
「アンダーグラウンドの認知。そしてUG差別の撤廃。……今、UGがどういう見方をされとるかは、サヨちゃん分かっとるよな。この地下世界を都市の一部と認め、その人間すべてに戸籍と権利を保障することやな。もちろん犯罪を犯してこっちに来とるやつにはそれに見合った裁きを受けさせなあかんけど」
年若い青年たちはよどみなく答えてみせた。
「そのためにはエデンを掌握している第三階層の最高府と統制コンピューターを陥落させることなんだが」
苦い笑いがディクソンの顔に広がる。
「この二十年失敗続きなんだ。今は硬直状態だけれど。UG以外にもエデン機構に反発する派閥が第一階層にあって、彼らと協力して立ち上がろうとしたんだが……結果的に第一階層の同志を失い、一般市民にも大きな被害が出てしまった。第三階層はその責任をUGに押しつけて、我々への差別が強まってますます動くことが難しくなってしまった」
どこかで聞いたような話だと首をひねって、思い出す。新聞の見出しが脳裏にひらめいたのだ。
「五年前の、UGによる同時多発テロのこと?」
彼らは頷いた。
「多くの同志を失った。彼らには非はなかったというのに」
結果、UGは憎まれる存在になった。そのため、現状、UGが行動を起こしたとしても第一階層は彼らを認めないだろう。それがきっと硬直状態になっている理由であり、慎重にならざるを得ない現状なのだ。
声が聞こえた。トオヤと会った日の、デモに参加した人々があげる声だ。UGを殲滅しろ。平和を取り戻せ。しかし一方で、彼らの胸には第三階層への反発も、しこりのように存在しているはずだった。
第一階層者は、能力別に振り分けられ、学業の成績によって将来の職業の選択肢が増減する。その狭い選択肢の一つを極めたとしても、唯一選べないのが政治家という職だった。第一階層者は、自分で都市を動かすことができない。第二階層者となるには工学や医学の専門家とならなければならず、狭き門である。
多くは一生、一番目の階層から出ることを許されない。そして、『何者にもなれない』落伍者は存在する。
『落ちるのは簡単。昇ることは不可能』と呼ばれる所以だった。
「UGが革命を起こすことは、その……すごく、難しいことなんじゃないの?」
憎まれることは、辛いことだ。払拭の方法は少なく、達成するのは困難なことでもある。ついた傷、その血の止まらないこと、いつまでも痛む感覚は、人の心をその時に留まらせ続ける。痛むがゆえに褪せない時間、過去はなかったことになるときなど来ないと、紗夜子は身に染みて知っている。
彼らは答えなかった。ただ、緩く瞬きしただけだった。