「……まー、サヨちゃんはとりあえず戦うことを決意した、っちゅうことで。携帯電話、渡しとこか」
 ほい、と軽い調子で手渡されたものを見て、抗議した。
「私のじゃない」
 メタリックピンクの折りたたみ式の携帯電話だ。表面の中央には縦長のサブウィンドウがあり、時間が表示されている。紗夜子の私物は、白のスライド式携帯電話だったはずなのに。
「上にある電子端末っちゅうのは、大方マスターの支配下にあるからな。これからはアンダーグラウンドのものを使ってほしいねん。だから前の電話、回収させてな」
「でも、アドレス帳……」
「残念だけど」とディクソンが有無を言わさぬ声でそれだけを言い、紗夜子は何も言えなくなった。目元に泣く時のような力が入り、思い切って目を閉じる。そして「……うん」と納得を口にした。
 それを聞いて、ぱっと両手を広げるようにして、ジャックは明るく言った。
「その電話には俺ら三人のケー番、メルアドと、アンダーグラウンドの統制コンピューター『AYA』の電話番号とアドレスが入っとるから」
「……アヤ?」
 なんだ、それは。聞き返した瞬間、電話が鳴った。今初めて手にした電話に誰がかけてくるのかと驚くと、サブウィンドウには『AYA』の表示がある。それが、自分が聞き返したアヤという言葉につながった。
 恐る恐る通話ボタンを押し、電話を耳に当てた。
「もしもし……?」
「はじめまして」と向こうから挨拶が返ってきてぎょっとする。それは、少し舌足らずで、音の節目がもつれた声。
「わたしは『AYA』。『AYA』とは、アンダーグアルンドにおいて統制を司っているコンピューターと、コンピューターに内蔵された人工知能の通称です。私はエデンの統制コンピューターとは隔絶された存在です。【女神】とは対立した存在を考えてください」
 トオヤを見る。もう話に興味を失ったのか、腕を組んで目を閉じている。むっとする。この場で、トオヤが発言した回数はかなり少ない。侮っているのか、馬鹿にしているのか、そういう気配はなかったのに疑ってしまう。
 ジャックの顔を見る。そんないい笑顔よりもどう返せばいいか答えが欲しい。ディクソンは微笑みを浮かべて紗夜子の返答を見守っている。
 AIと会話するなんて初めてだ。ぐるぐると混乱する頭で、何かを言わなければと考えて。
「ええと……これからよろしく……」
 失礼のないようにと言葉を選ぶとそうなった。ジャックはぷっと噴き出して、紗夜子が睨むと慌てて口を押さえた。
「こちらこそよろしくお願いします」
 AYAがそう返したので、紗夜子の返事はおかしくはならなかった。



 ぴるるるる、と携帯電話の着信音がけたたましく鳴り、紗夜子は我に返った。
 気付くと、スクワットを繰り返していた額には汗がだらだらと流れており、膝はがくがくするし、息も上がっている。どっと押し寄せた疲労で、のろのろ動き、鏡の前に置いていた荷物の中から携帯電話を探り出す。メール受信が一件。
 差出人は『AYA』とある。
『・スクワットを開始して二十分が経過しました。
 ・過剰なトレーニングは、身体に支障を来す可能性があります。』
 紗夜子は軽くため息をついた。そして辺りをぐるりと見回す。
 カメラはない。でも見ているのは間違いないだろう。メールを返信する。
「『もうちょっと、『心配です』、くらい言ったらどう?』っと」
 送信完了画面の一秒後、携帯が震える。返信が早い。
『・ディクソンに与えられたトレーニングメニューが未消化です。
 ・すぐにトレーニングを再開してください。
 ・水分を摂取することを忘れないでください。』
 文面を見て、なんだか妙な気分で呟いた。
「これがロボットとか、ねえ……」
 あれからというもの、AYAはちょくちょくメールを送ってくるのだ。さすがアンダーグラウンドの統制コンピューターとでもいうか、紗夜子の動向を監視しているらしく、メールの内容は注意喚起がほとんどだ。ちょっとでも自由に行動しようとすると『・何をするのですか?』『・どこへ行くのですか?』とメールが来る。
 さすがに頭に来て「あんたは私の親か!」と叫んだら。
『・コンピューターは人間ではありません。妊娠・出産は不可能です。』
 脱力した。
 さすがに滑らかに思考ができても、ユーモアや機転という部分は未発達らしい。紗夜子は、適当にあしらうことを覚えた。
 メールを『ハイハイ』とだけ記して返す。
 すると、入り口の方から足音がした。香水が匂うのですぐ分かる。ジャックだ。
「やほー、やってんなあ、サヨちゃん?」
「こんにちは。うん、まあ、ぼちぼち」
「ちょっと痩せたんちゃう? またかわいなってるわー」
「ハイハイ。……どうかしたんですか?」
 ジャックはにこっとした。
「ん? サヨちゃんのかわいー顔を見に」
 紗夜子は笑顔で言った。
「蹴飛ばすよ?」
 ジャックの笑顔がちょっと引きつった。紗夜子が酔っぱらいにローキックした記憶は彼にも新しかったのだろう。右手で入り口を指し示し、用件に入った。
「ディクソンが呼んでるねん。そろそろ、本格的に訓練しよかーって」



 アンダーグラウンド。

 その名の通り、エデン全域、そしてその周辺にまで及ぶ、広大なフロアなのだという。人が住んでいない場所もあるらしいが、この地下世界もいくかの階層に分かれているのだと、ジャックは語った。
 エデン自体、三つの階層と言っても、本当に階層が三つだけなのではない。第一階層の地下には下水処理施設、地下道などが設置されているのだ。アンダーグラウンドはその隙間、もしくはその更に地下に作り上げられた世界なのだという。
 出入り口は無数にあるが、すべてがAYAによって監視、管理されているが、入るのが難しいだけで出るのは簡単……そこまでジャックはそっとこちらをうかがっていたが、紗夜子は緩く瞬きをした後、笑みを浮かべた。先日の事件は自分の短慮が原因だった。それが揺るぎない事実であると、紗夜子は分かっている。
 もう、泣くだけの時間は過ぎたのだ。
 紗夜子は、複雑な通路や扉、階段を歩みながら、アンダーグラウンドにおける中心街、零街第一層へと向かっていた。
 零街は、東西南北、エデンのどの地上にも出ることができる、UGたちの本拠地だ。この南側が第一街で、光来楼のある歓楽街である。
「光来楼で、街は時々爆撃を受けるって聞いたけど、襲撃とかってないの?」
「んー、最近はあんまないなあ。AYAが防衛敷いとるから被害も少ななったし、襲撃受けたところから封鎖するしな。あ、サヨちゃんももし遠出するんやったら気ぃつけてな。たまーに高圧電流敷いとるところあるから」
「う、気をつける……」
 ジャックはくすくすと肩を揺らした。
「それじゃ、やっぱり襲撃ってあるんだね。でも陥落したことはないってことでいいの?」
「そうやー」
「でも変だよね。こんな換気の悪い場所、毒ガスを使ったら……」
 想像して、身震いした。心なしか空気が薄くなった気がする。
 ジャックがサングラス越しに強い視線を投げた。
「俺らもその理由ははっきり知らん。推測は三つ出とるけどな。ひとつ、上下水道や生活に必要な施設が地下にあるから、毒による汚染を避けたい。また、攻撃することでUGによって占拠される可能性がある。ライフラインが断たれるのは痛いやろな。第一階層を切って捨てるには相応の理由が必要で、そうなったらやっぱり軍を送って戦闘することになるやろうから、直接的な戦いは避けたいのかもしらん」
「でも今更じゃないの? 爆破しておいて」
「うん、だから推測な。ふたつ。地下を完全に封鎖することができないから。地下やから出入り口があるわけで、上も全部の把握は出来とらんはずやから、そんな状態でガスが地上に漏れた場合、地上にも大きな被害が出てまうやろ? UGのせいにするには、ちょっと大掛かりな嘘が必要になるからやれへんのちゃうかなって」
 じゃあジャックたちはすべて把握しているのだろうかと思い、彼の何の気負いもない顔を見て、当然把握しているのかと納得する。でなければそんなきょとんと見返してきたりはしないだろう。
「だったらライフライン断絶とか、しないの?」
「第一階層を盾に取るとUGへの差別意識が強なって、革命が成功しても後の色々が難しなると思うねんな。やっても最終手段かな」
 そして暗がりだというのに明るい鼻歌を歌い出す。紗夜子は彼のダウンコートの裾を引っ張った。
「ん?」
「三つ目は?」
「んー、教えてほしいんやったらキスして……、って蹴り技はやめてー! ……もーしゃあないなあ、確認できてないことなんやけど」
 片足を軸にしてもう一方の足を引くと、ジャックは悲鳴を上げて手をばたつかせ、臀部を押さえた。そして、どこかしら情けない表情で肩を落とすと、紗夜子の耳に囁きかけた。
「アンダーグラウンドの秘密に関わるって言われてるねん。アンダーグラウンドのある地下世界には、エデンが大事に抱えとるもんがある、ってな」
 頬がすり寄るほど近かった。
「内緒、やで」
 指がついと撫でていく。慌てて飛び退いた。
 離れていったジャックは身長が高く、圧される気がして更に一歩下がると、彼はにやーっと楽しげに笑った。女の子を威圧してうれしがっているなんて性格が悪い。紗夜子は肩を怒らせ、蹴り技を繰り出すべくわずかに足を引いた。
「やーん、こわーい!」
 あははと笑い声を通路に反響させて先を行くジャックを睨みつけた。頬を押さえて拭う。熱い。耳元に、まだくすぐるような声の響きが残っている気がする。聞こえてくるのは軽快なハミングと口笛で、紗夜子は今すぐ飛びかかって技をかけたら勝てるだろうかと考えた。
(ジャックって普通に触ってくるよね……ああああ心臓に悪い!)
 触る意味が分からん! 普通に言え! と本人の面と向かって言えないだけに、技をかけるならどれがいいかを試算する。彼は多分生体義肢を使っていない生身の人間だ。急所を押さえたら勝てるか。あのドレッドヘアを掴んで引っ張ってやるか。膝裏を蹴飛ばして転すか。
 その時、ジャックが振り返って言った。
「女の子があんま暴力的なこと考えたらあかんでー」
「っ!」
 ぎくっとすると、あははとまたジャックが声をあげて笑った。
「はいはい、分かったから。ごめんな。はよおいで」
 そうして優しい顔と声で手招きされてしまう。紗夜子は首を竦めて唇を尖らせたが、ふんと鼻で息を吐いてジャックの後に続いた。


      



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