緑色の非常口ランプが電灯代わりになっていた。どうやら大量にどこかから調達してきたらしく、不気味なアートといった感じで、しつこいくらいに矢印で誘導される。その緑に照らされる階段を下りていくと、暗い場所に出た。
目がちかちかする。こすっていると、煙のにおいを嗅ぎ取った。物音がして驚く。誰かがいた。
「連れてきたでー」
ジャックが声をかけると、その影、二つが振り向いた。
タンクトップ姿のディクソンと、ワイシャツの袖をめくり上げた格好のトオヤがいた。トオヤの左腕の大きな入れ墨をみて、一瞬だけ動揺する。身体に模様がある、というのをあんまり見慣れないせいだ。トオヤはまるで無視するようにふいとその場を離れ、ディクソンが紗夜子を迎えた。
「来たね。トレーニングは終わったかな」
「うん。今日の分は」
「君は柔軟性があるし、筋肉の付きもいい。このまま持続できれば持久力もつく。もう少ししたら格闘術の訓練も始めよう」
「うん! 頑張る」
「蹴り技極められたらおっかねえからほどほどにな」
何かの箱を持ってきたトオヤはにやにやして言う。
紗夜子はふくれた。戦い方を教えてと言ったのに、トオヤ自身は紗夜子に何も教えてくれないのだ。トレーニングメニューはディクソン作成だし、様子を見に来るのはいつもジャック。たまに顔くらい見せてほしいのに、と思ってしまうのは、きっとあの、心を暴かれたような乱暴なささやきのせいだろう。
痛かった。身体も、心も。
あれ以来、トオヤの一挙一動に心臓を握られている気がしてならない。その日一日姿を見なくても、ぼんやりと彼を心の隅に置いている。
今も、バスケットを開けてサンドイッチをつまみ……。
「……って、あんたたち私のお昼ー!」
「あ?」
紗夜子がトレーニングルームから持ってきていた荷物は、いつの間にかジャックとトオヤの間にあった。するとトオヤは華麗にサンドイッチをつまみ上げ、大口を開けて飲み込んでしまった。
「あー!」
そしてトオヤは指についたマヨネーズをぺろりと舐め、頷く。
「うまい」
そうして二つ目に手を伸ばす。悪びれない挙動に、紗夜子は呆然とした。
「めっちゃ久しぶりに手作り料理食べたわあ! ウマー!」
唐揚げの油で濡れた唇を舐めて、ジャックは吠える。
「いつも外食ばっかりで味気ないし、トオヤは作る気ないし、ディクソンに至っては栄養があるだけでいいんかってくらいまずいし!」
「悪いな、軍人上がりで」ディクソンの低温度な言葉には、もう作ってやらんという決意がある。
「この唐揚げの衣のさくさく具合、塩こしょうの加減、自分のお弁当やのにレモンを添えてあるのが女の子らしい! サンドイッチはマヨネーズもマスタードも丁寧に塗っとるし、フルーツサンドまである! サラダも別の容器に入っとるし、ドレッシングは手作りやんな!?」
「う、うん……」
マシンガンのようにまくしたられてたじたじだ。
マヨネーズとチリソースに醤油をちょっと混ぜたサラダ用のドレッシングは、野菜があまり得意でない紗夜子がおいしく食物繊維を摂れるよう、偏った濃い味をしていた。それをちょっと舐めたジャックは、したり顔で頷いた。
「サヨちゃん、いいお嫁さんになるで。料理上手。ほんまうまいわあ」
紗夜子は、うつむいた。両手で顔を隠す。真っ赤な頬を見られたくなくて。
料理は、必然的に覚えなければならないものだった。第三階層から第一階層に移って、子どもの頃には家政婦がいたけれど、それも必要がないと判断されると家事は自分の仕事になっていた。仮にも高遠家の娘にアルバイトをさせるわけにはいかないと一定の生活費は振り込まれていて、それをやりくりすることを紗夜子は覚えなければならなかった。一人で食事、一人で片付け。外食をしても、寂しさがいっそう際立つだけ。
だから、フィオナの自宅に招かれてごちそうになったり、フィオナとナスィームと一緒にファストフードやファミリーレストランに行くことが楽しくて。誰かの作った料理は美味しくて嬉しいものに変わった。
だから、誰かと一緒に食事をすることが嬉しかったのだ。
他人に料理を褒めてもらうことは、これまでになかった。誰も家に招けなかったからだ。
「ありがとう……」
食いっぱぐれたことを忘れ去って、真っ赤な顔で呟いた頃には、バスケットは空になって、蓋がぱちんと閉じられたのだった。
「サヨちゃんっ!」
不意に強く呼ばれ、顔を上げた時、がっしりと肩をつかまれた。
「は、はい?」
「これから、俺のごはん作って! できればお味噌汁飲みたいっ!」
紗夜子は目をまんまるにした。
ご飯を作る。お前のご飯が食べたい。お前のみそ汁が飲みたい。――毎朝?
「…………ちょ、ちょちょちょちょ、ちょ、い、待って!」
紗夜子の思考は悲鳴と混乱で埋め尽くされる。
「結婚は無理! 私やっと十七、ああでも十七は結婚できるんだ……でも! 結婚できるけど! まだ高校生!」
「けっこん?」
ジャックはきょとんとする。トオヤもジャックと同じように首をひねっていた。次の瞬間、ぶはっと噴き出したのはディクソンだった。
巨躯を折り曲げ、口を押さえてぶるぶると身体を震わせて、時折発作のように声が漏れる。
「ディクソン?」
「さ、紗夜子さん……君、え、えらく古典的な言い回しを……くっ」
笑いのつぼにはまってしまったらしく、ディクソンは続けられなかったようだ。ぶるぶると真っ赤になって笑いを堪えている。だが、かろうじて聞き取れたことから、ジャックはピンと来たらしい。
「それって……『毎日みそ汁作ってくれ』?」
肩を押さえられたままだったので紗夜子は叫んだ。
「ろ、ロリコンー!!」
「え、や!? ご、誤解やでー!?」
必死に弁解するジャックは手の行き場を探し、ディクソンは爆笑で動きが取れない。紗夜子は「聞きたくないー!」と叫びながら耳を押さえ。
「……みそ汁って、なんだそれ?」
トオヤだけが首をひねっていた。
本当の用件を切り出す頃には、三人がぐったりしていた。
(なんで準備運動より疲れてるんだろ……)
紗夜子はともかく、UGのジャックや、見るからに鍛え上げているディクソンまで疲れている。トオヤは「馬鹿じゃねえの?」と呆れていたが、蚊帳の外でふくれていたのは間違いがなかった。
「それで今日は……もっと実践的なものに触れてもらおうと思ってね」
ようやく本題が再開され、ディクソンは、先ほどトオヤが持ってきた金属製の箱を開けた。そこから取り出され、紗夜子の手に渡されたもの。手の上に、ずしりと、黒い銃身。
思わず顔を見ると、頷かれた。
「自動式拳銃だ。一番軽くて連射しやすいから、君にも携帯できると思う」
「これで」
ずっしりとした重みと冷たさが実感となった。
「これで、人が、殺せるんだね」
我ながら感傷の混じった声で、かさついた力のない声だと思った。
なのに不自然に空気が強ばった気がして、紗夜子が顔を上げると、三人はどこかぎこちなくそれぞれに反応した。
「UGの戦闘の主力は火器、および白兵戦だ。全員小火器、刀剣、シールドを携帯することを義務づけられている。シールドの説明は?」
首を振る。
「使い捨てってことだけ」
ディクソンは腰のベルトにいくつも重なった輪から、太い銀の輪を外し、紗夜子に差し出した。
見た目はブレスレットだ。中央部分にある、飾りのような四角いパーツが目立っている。
「シールドは重力と磁気を利用して作り出される障壁のことで、UGの科学者が開発したもののことを言う。起動すると内外限らずすべての攻撃を遮断するから、使用中は攻撃できない。据え置き型と違って、携帯用のシールドの持続時間と出力は限られているから、時機を見て新しいものと交換しなければならない。これが使い捨てになってしまう理由だ」
「どれくらい保つの?」
「普通の銃撃戦で大体三十分。それと同じ時間だけ爆発を防ぐならその三分の一、というのが目安だ」
「了解」
「その銃は」とシールドを着け直したディクソンは、紗夜子の両手の中にあるものを示し、トオヤを振り返った。
「トオヤのものだ。装弾数十発。手入れの仕方は後で教える。少ない弾だから、最初と最後の手段に」
「最初? 最後の手段は分かるけど……」
「威嚇の意味で。銃声がしたら騒ぎになるし、私たちが駆けつけやすいから」
なるほど。最初から戦力として期待はされていないわけだ。
当然だろう。「戦う」などと口にしても、火器の扱いもろくに知らない女子に、組織立った集団であるUGと同じ働きができるとは誰も思わない。紗夜子だって自分を疑っている。怯みはしないか。折れはしないか。
だから、この銃は紗夜子が、紗夜子自身を守るためのもの。
重い、火器。引き金を弾けば人間の命を奪うことのできるそれは、吸い込まれそうな黒。冷たい闇の色。
落ちていくと、錯覚する。
ごくりと喉が鳴った。
これから戦わなければならないのは、エリザベスたち【魔女】アンドロイドだけではない。人間でもある【司祭】サイボーグもいる。その上には高遠のような生身の人間もいる。
生きるためには戦わなければならない。
人間の形をしたものに、銃を向け、引き金を弾けるか?
「…………」
想像は容易く、笑みがこぼれそうになった。
今、いくら躊躇っても。恐がり、怯え、震え、重く考えたとしても。
実際の状況になれば、きっと弾いてしまう。
そこには躊躇も恐怖もなく、生きたいという欲望が占めているだろう。
だから別の方向で考えてみる。思いを凝固させていく。
『自分の身は自分で守れるだろう?』
この銃は、そう問われ、その力を認められた証なのだと。
紗夜子が自ら望んで銃口を向けるのは、たった一人、高みから命を弄んだ、傲慢な神を模した高遠だけ。すべてを奪おうとした彼だけだ。
「……っ!?」
突然、頭に大きな手のひらが乗った。
「なにぐしゃぐしゃ考えて百面してるかは知らねえけど、俺に言ったこと、忘れんなよ」
「と、トオヤ……っ」
口元で囁かれた、掠れた声の、紗夜子の醜い望みを肯定する言葉、その熱と痛みを思い出して、紗夜子はかあっと頬を染めた。けれど、離れていくトオヤはすぐに背を向けて階段を上っていってしまい、その表情を確認することはできなかった。
でも、激励するみたいだった。厳しくて、優しい、でもすごく恐い声。
「じゃあ、射撃訓練を始めよう」
その最初の成果は、「最初やから!」と言うジャックと、ディクソンの「筋がいい」という言葉に表れることとなる。