「別にさ」とリンは細い素足を投げ出して言った。
「いるなとは言ってないじゃない。出て行かなくてもいいでしょ?」
 紗夜子は荷物を一つの段ボールにまとめてしまってから、ぶすっとしたリンや、ランに苦笑を向けた。リンはベッドの上で浴衣なのにあぐらをかき、ランは飽きてしまったらしく床に足を投げ出してぼうっとしていた。
「だから手伝わなくてもいいよって言ってるじゃん。っていうか、邪魔!」
 荷物整理と箱詰めと掃除。引っ越しの手伝いをすると言ってやってきて、最初こそよかったもののすっかり面倒になったらしく、こうして引き止めるようなことを言い始めたリンだ。
「仕事なんてさ、うちの厨房で皿洗いしてたらいいじゃない」
「まあ、やることは変わらないけど……」
 光来楼のある第一街から零街には、それなりに距離がある。通うよりも住んだ方がいいだろうと、ジャックがいつの間にか手配していたのだ。家賃、光熱費、今着ている服の代金などその他経費はどうすればいいのか尋ねたら、「UG関係の雑用をすることでチャラ」ということになった。主に、洗濯や掃除といった仕事である。
(まあ、監視の意味でも近い方がいいだろうしね……)
 その通りだなと納得したので、こうして荷物を詰めている。着替えと細々したものだけのはずなのに、これも持っていけあれも持っていけとリンとランが荷物を抱えてきたので、それを詰める作業……の前に、いるものといらないものを分ける余計な作業が増えてしまっていた。今も、白いご飯が似合うはずの櫃を見つけてしまい、どうするのこれ、と思っているところだった。この子たち、店のいらないものを押し付けにきたんじゃ?
「いいよねー、トオヤたちと同じマンションなんでしょー」
「写真撮ってきて! 寝起き写真!」
「やだよ。トオヤの寝起きとか恐いじゃん。ジャックには連れ込まれそうだし」
 あー分かるーと少女たちはきゃらきゃら笑った。
 新しい部屋として用意されたのは、トオヤやジャックが根城にしているマンションの一室だった。トオヤたちの自宅の他、たまり場となっているコンピュータールーム、先日紗夜子も足を踏み入れた医務室などがあり、UGたちの出入りも多くて誰かしら人がいるので、セキュリティは万全とジャックは請け負っていた。
「守ってあげられる」と彼は紗夜子に言ったけれど。
 本に伸ばした手が、それを掴まずに無意識に握られる。
 そういうことじゃない。でも、そうであるしかない。まだ、私は弱い。
「サヨコ?」
 息を吐き出す。ため息になった。
「ごめん、そっちの本取ってくれる?」
 リンはベッドサイドに置いた文庫本を手に取り、それを読み上げた。
「『フォーリング・ヴェロニカ』。聞いたことない本だ」
「わたし知ってる。SFだよー。宇宙の話」
「宇宙? そういうのって法律で禁止されてなかった?」
「航空禁止法は、空飛ぶ機械を作るなってやつでしょ」
 なかなか渡してくれないのでそう言いながら本を取り上げた。
 エデンの空の飛行は禁止されている。第三階層も法の適用内ではあるが、一般的に、第三階層が誰も己より『上』に立たせないための法律、と言われている。
「ふーん。読んだの、それ。面白い?」
「ううん、読んでない」
「なんで? 持ってきたんじゃないの?」
「え? 最初からあったよ」
「そうなの? じゃあ、前にこの部屋を使ってたお姐さんのかな」
「なんで読まなかったの?」
 ランが聞き、紗夜子は答えに窮した。その感覚は、あまり説明がうまくできそうもない。
「うーん……タイミングが合わなかったから、かな」
 リンは首を傾げたが、ランは「そっかあ、わかるー」と共感したようだった。
 その『フォーリング・ヴェロニカ』を、最初に置いてあった場所、クローゼットの中に、ここに来たときにあったすべての本をまとめ、隅に置いておく。その扉を閉めると、開いてあった窓を閉じにいく。
「ディクソンの部屋はきれいそうだけど、あとの二人の部屋って想像つかないなあ。ジャックの部屋は、なんか変なお面とか飾ってそうな」
 よっ、とかけ声を出して身を乗り出さなければ、窓には手が届かない。侵入防止なのか逃亡防止なのか、光来楼の窓は張り出し窓に似た造りになっており、突き出した部分に身体を乗せないと窓が閉じられないようになっている。
 侵入経路や逃走経路を想像してみても、この張り出した部分と壁をどう移動するかというのが大きな課題になった。表に出るなと言われていたから、しばらくそんな想像を働かせていた紗夜子だった。
「わたしはトオヤの部屋、きれいなイメージあるけどなー」
「意外と汚い方が面白いでしょ。サヨコ、写真写真!」
「だから、やだって。代わりに何されるか分かんないじゃん」
「あーあ! つっまんない。……せっかく、新しい子が来て何か面白いことあるかなって思ってたのにさ」
 つっまんない。二度言ってリンは口紅を塗っていないのにつやつやとした唇を尖らせた。
 紗夜子は目を瞬かせた。これは、惜しんでもらっているのだろうか。
「あの……別に二度とここに来ないわけじゃないし、ここに行くなって言われてるわけじゃないし……嫌になって出て行くわけじゃないからね?」
「言わなくても分かってるよー」
 ランがにこにこ言い、身を乗り出してきた。
「たださ、UGと一緒に戦うことになるんでしょ? それが心配なんだよ。ね、リン」
「そうよ、机の上に物騒なもん置いてるし! でもあんたにトオヤたちと一緒に戦えんの? っていうかー、邪魔じゃないの?」
 目をやった傷だらけの古びた机には、ホルスターに収まった銃が一丁。
 そして、紗夜子はベッドに寝そべり肘をついてそっぽを向くリンと、正座して微笑んでいるランの二人を見て、「あはは」と笑った。
 リンが描かれていない眉を吊り上げた。
「何笑ってんの」
「いや、こうしてると、自分が銃を持ったときの想像がつかないなあって」
 ガールズトークのようなものをしている人間が、父親を殺したいと思っているなんてシュールだ。妙におかしい。笑いの発作が止まらないのを、二人は胡乱そうな、不思議そうな顔をして見ている。
「……ほんっとうに! なんであんたみたいな子が」
「あはははは、私もそう思う、はははは」
 本当は、そのまま笑いながら泣いてしまいそうだったので。
 紗夜子は急いで段ボールの蓋を閉じると、それを持ち上げた。
「じゃあ、行くね。とりあえず、お土産くらいは買ってくる」
「お土産?」
「上に行くんだ。三人に、一緒に様子見てこようって言われてて。あ、銃、銃」
 せっかく持ち上げた荷物を降ろし、ホルスターを巻いた。リンが大きく、声を出すくらい大袈裟にため息をついた。大丈夫かよこいつ、と言っていた。



(うーん、でも。……そうかあ)
 先を行く三人の男性を見ながら、紗夜子は口元に手を当てて考え込んだ。
 ジャックは赤やドピンクの派手な色のシャツだけれど、色の薄いパンツと靴が利いている。おしゃれが好きなのだろう。今日はドレッドの髪を全部後ろにし、サングラスは小道具のようなレンズの小さいもの。きっちりした印象のジャケットをラフに肩にかけた姿は、歩くだけでどこか楽しげに見える。
 ディクソンは上下ともに黒、寒くないのか、タンクトップにライダースジャケットだ。太い首にかかる認識票らしきネックレスが、その体躯と相まってただものではない雰囲気を出しているけれど、紗夜子を気にして振り返って微笑んでくれるところが、穏やかでオトナを感じさせる。
 最後に、トオヤを盗み見た。普段は目つきや入れ墨のせいで悪そうに見えるけれど、ダウンジャケットを着て、ジーンズに包まれた長い足で颯爽と歩いているところは、実に格好がいい。
 つまり、よく考えてみると、彼らは非常に見目がよいのだった。リンやランが気にするのも無理はない。

「どしたん、サヨちゃん」
「ううん、なんでも」
 観察してましたとは言えない。
「これからどこ行くの?」
「今日は様子見。各ポイントのデータ回収と、UGの名前使って誰か悪いことしてないかのパトロールやな。行きたいところがあったらルートにいれるで?」
(もしかして今日のって、気を遣ってくれたのかな……)
 トオヤは話を聞いているのかいないのか、ぼんやりと蓋をされた閉じられた空を見上げているが、彼もジャックも、紗夜子が友人たちに向ける感情を知っているはずだった。紗夜子が自分の意志で第一階層へ上がることができないために、同行させてくれたのかもしれない。
(……遺品……)
 フィオナのものは回収できなかったそうなのだが、ナスィームはアンダーグラウンドで紗夜子が看取っている。彼女が身につけていたものは、紗夜子が保管していた。家族に、おばさんやおじさんに手渡せないだろうか……。
 しかし、結局紗夜子は首を振った。ジャックが驚いたように聞く。
「ええの?」
「うん。私が行きたいところは、多分監視がいっぱいいるだろうし、行っても仕方のないところだから。今こうしてるのも完璧に安全ってわけにはいかないと思うけど、みんなの後、大人しくついてくよ」
「我慢したらあかんで?」
「してないよー」と笑う。
 すると、ジャックが手を伸ばし、紗夜子の頭を撫でた。
「ええ子やね」
 かあっと顔が熱くなった。ジャックが戸惑った顔をして手を止める。その隙に紗夜子はぱっと身を翻すと、先頭のトオヤの後ろについた。
 熱さが収まらない。照れくさくて、どきどきして、顔がにやけそうになりながら泣きそうになる。
 不自然に固まりつつあった空気を霧散させるべく、ジャックが咳払いした。
「じゃあ、行こかー」


      



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