――小さな獣みたいに駆けていくんだな。

 一言に怯え、見られることに震え、手には傷などほとんどない、中身はまるで脅威にならないのに、紗夜子の駆けていく様だけは、妙に印象に残った。
 放り出された道具を代わりに片付けていると、ジャックとディクソンがこちらにやってきた。ジャックの第一声は、「無理ちゃうん?」だった。
「サヨちゃんには酷や。いくら虐げられてきたからって相手は身内やろ。俺もディクソンもあの子戦わすの反対しとるんやで。お前に言われたから協力しとるけど」
 戦い方を教えて。そう真っすぐ訴えた紗夜子に、トオヤは頷いた。紗夜子の気持ちを慮って、ジャックもディクソンも何も言わなかったが、後でさんざんトオヤをなじったのだ。訓練も受けていない、普通の女の子を戦わせるなんてどうかしている。
「さんざん慰めといてよく言うよな、お前も」
 揶揄に、ジャックは険しい顔になった。
 UGである以前に、性格上、ジャックは人を冷たく突き放すことができない。それを外面がいいと陰口するやつもいれば、優しいというやつもいた。トオヤはどちらも正解だと思っている。上に出たとき紗夜子に、ジャックは優しい言葉をかけてやったのだろう。だから紗夜子は銃に伸ばした手をまだ引っ込めない。
「……俺が言うとんのは、トオヤ、あの子を利用するつもりなら止めろっちゅうことや」
「利用しない理由はないだろ、『若様』」
 気付かれるように言った嫌みに、押し殺した声だったジャックのまとう空気が冷たくなっていく。それを突き崩す正論で、トオヤは更に言った。
「エデン三氏の一人、高遠氏の娘、紗夜子。あいつがエデン機構に反旗を翻したっていうのはUGにとっていい宣伝になる。高遠家が認めなくても、『捨てられた娘』ってのはいいオプションだ」
「それを止めろっちゅうとんねや! あの子を、お前と同じにする気か!?」
 広い射撃場にでも、その声は割れた。響きが消えても誰も一言も発さない。
 トオヤはただ、ジャックの言葉の意味を取りかねていた。
「……俺と同じ?」
「UGが巻き込んでんのは、サヨちゃんだけやない。お前もや、トオヤ。お前と親父さんもや」
 しばらく面食らっていたが、ため息をついた。そんなことかと呆れたのだ。
「巻き込まれたなんて思ってない。思ってるなら、こんな物騒なもん持ってねえよ」
 弾のひとつを軽く投げ、受け止めて握りしめる。
 毎日のトレーニング、格闘術、射撃訓練、他にもあらゆる戦闘術を身につけ、実戦に出てきた。その理由を、「ここでしか生きられなかったからだ」とジャックは言いたいらしい。
 だが、止めたきゃ止めてる、とトオヤは思う。UGすべてが戦闘員ではない。表に出ない、救護部隊や、開発などの補佐業務を行う後衛がいる。本当に戦うことを避けるなら、こんな風に銃の扱いを覚えたりしない。
「それから――親父と一緒にするな。俺は、ラボに籠って自分の手を汚さないあいつみたいな生半可な気持ちでいるのとは違う」
 お互いに睨み合いながら、拳を振るう瞬間をうかがっていた。しかし、こういう時にどちらが折れるのかは決まっていた。
 しかし、今回はいつもと様子が違った。ジャックは怒りを消すことはなく、「俺がこんなことを言うのはな、トオヤ」と歯ぎしりに似た声を出した。
「サヨちゃんが戦う理由を聞いたからや。UGはエデン機構を改めるためにって俺は答えた。俺も同じ気持ちや。でも、お前は? お前は、『戦う理由もないけど戦わない理由もないから戦ってる』だけと違うんか」
 俺はずっと思ってたんや。ジャックの声が感情で揺れる。
「なんでお前はここにおるんやろうって。なんで戦ってるんやろ、何がしたいんやろうって。お前、何したいねん」
「戦う理由ならあるさ」
 道具一式を収めた箱に鍵をかけると、携帯電話を取り出し、AYAにメールを打った。紗夜子の居場所を特定してもらうためだ。AYAのアクセス権限は、UGにおける指揮権とほぼ同等のものが与えられている。トオヤは紗夜子の、自室などのプライベート以外の行動を把握する権限があった。数分置きに場所を報告してくれるよう頼んでおく。

『トオヤ。トオヤ、この世界は、きっと…………る』

 声が蘇る。高く優しい女性の。空に浮かぶ大小無数のプリズムはシャボンの球体だ。

『誰かを犠牲にして続ける世界なんて……』
『ごめん、トオヤ』

 柔らかく懐かしい声に浸ろうとすると被さってくる、泣きそうに歪んだ男の声。


『アヤのこと……すまない』


 ぱちん、と携帯電話を折り畳んだ。
 同時に、回想の幻影も消えてしまう。

「これが『旗頭』の義務だからだよ、『若様』」
 ジャックの顔が歪み、愉悦でトオヤは笑った。
 誰が、そう簡単に明かすものか。

「あれぇ? おかしいなあ?」
 すっとぼけたような声があった。見れば、管理人の男が的の打ち出し装置の辺りでがたがたしている。ディクソンがそちらへ行って、覗き込んだ。
「どうかしたのか?」
「いや、これ動かないんですよ。故障かなあ? さっき、お嬢ちゃんの弾が掠ったなあと思ったんですけどね、掠った程度で壊れるもんじゃないしなあ」
 修理呼ぶかあ? と首を捻っている。その時、また「ああっ!」と声が上がった。
「こっちも壊れてる!」
 トオヤはブースを見やった。最初に紗夜子が撃っていたところだ。
 それが、やけに気になった。しばらく考え、思い当たる。
 紗夜子が最後の一発を外したのだ。
 偶然かもしれない。機械製品に触れるとすぐに壊してしまうような妙な特技が紗夜子にあるのかもしれない。しかし、疑問が浮かんだ。
(本当に、外れたのか)
 ただの女の子だ、そう言った二人だったが、トオヤは心からそうだとは思い込めなかった。それは、初めて触れたときの腕の筋の感触や、【魔女】と対峙した土壇場の冷静さが見えたことが支える疑惑だった。ディクソンも筋がいいと言った。ジャックも気付いているはずだ。高遠紗夜子は、少し、何かが違う。
 疑いが首をもたげ、ポケットの中で震えた携帯電話に我に返る。AYAの返信は、紗夜子は教会にいることを知らせてきた。
 よりにもよって、あの、教会にだ。


     *


 頭の中は熱で凝固したように鈍く、「どうして」「ちがう」「弱くない」「私は」といった断片的な言葉が浮かんでは、思考を続けられずに霧散し、また形を持って紗夜子の目に涙を溜めさせる。声を殺して吐き出す息で、鼻と頬は真っ赤になり、風は冷たく、余計に熱を感じさせた。
「っ!」
 殴った電灯が、びいんと音を響かせて震えた。
(私は)
 吐いた息の合間に絞り出した声は、獣のうなり声に似ていた。

「ころしたいのに」

 呟きが霧散した途端、考えなしに動かしていた身体から、みるみる力が抜けていった。息が上がり、頭ががんがんと痛んだ。
「大丈夫?」
 電灯を遮るようにして、上の方から光を遮られる。帽子、ジャンパー、ピアス、とそれぞれこちらを見ている服装が特徴的な三人組の少年だ。紗夜子は顔を上げ、頷いた。そうは見えないけど、と言外に首を傾けられ、後ろの二人は顔を見合わせている。
「……だいじょうぶだから」
 突き飛ばすように言って歩き出す。行くあてなどないけれど。
 しばらくして後ろから声が追ってきた。
「何かあったら叫びな。まあ……味方が現れるとは限らねえけれど?」
 少し酔っているのか、彼らは悪い笑い方をした。紗夜子は振り返りも返事もしなかった。ありがたく、一人になる。
 飛び出したはいいものの、普段歩く道以外の零街を知らない紗夜子は、なるべく大きな通りを、明るい方へと歩いていた。
 建物の隙間に奇妙な風見鶏が見えたのは、しばらく歩き回ってからだった。どの道がどこにつながっているのかを把握し始めた頃、通らなかった道の向こうに見えたのだ。
 風の吹かないアンダーグラウンドに、風見鶏。
 気になって、そこを目指してみた。そして、それが風の向きを知らせるものではなかったことを知った。
 正面から見ると、三角形の左右対称な建物、その屋根に方角を示すような三角の尖塔がある。多分十字架だろう。だからこれは、教会だ。

 エデンの宗教は様々あるが、これといって強制されるものではない。エデン設立とともに、様々な国の様々な人種の様々な宗教がたくさん流入している。新しい信仰が生まれることもあった。神様が溢れかえっているといっても過言ではないが、エデンは宗教多元主義を理想と掲げて約三百年間運営されてきている。しかしこの百年ほどは、文明主義とも言うべき情報社会化や高効率化によって、宗教建築物は建設されておらず、宗教は習合化しつつあるという。そのため、近年、個人の信仰としてはアニミズム的な多神教を奨励する気風があった。
 だからそんなエデンの地下、それもアンダーグラウンドに教会があるのは、やはり意外だったのだ。UGは神様なんて信じない人たちだろうと思っていたせいもあった。

 両開きの扉は木製だったが、それを保護するように檻のような鋳鉄の扉が重なっている不思議なデザインをしていた。そっと押してみると、扉はぐぐっとくぐもった音をたてて開いた。
 中には、誰もいない。アンダーグラウンドの常時灯の青色が、上部にある無数の窓から差し込んできている。暗い青に沈む教会は、至って普通のものだった。長椅子があり、奥にオルガンがあり、祭壇があり、蝋燭のオレンジ色の光が風に揺れていた。紗夜子は慌てて扉を閉めた。
 吐いた息が青白くなってから消える。ずいぶん冷えるところだ。
 祭壇に一番近い椅子に腰掛け、奥を眺めた。対称に置かれた燭台とその灯り、そして最奥の縦長の窓からの光に照らされる十字架には、誰の姿もなかった。磔にされた者も、聖母の姿も。
 誰も見てはいない、見透かされない、ここには誰もいないのだ。紗夜子はそう思って、目を閉じた。
(私の思いは嘘じゃない。なのに、的を掠りもしなかった)
 ただへたくそなだけと言えたらいいのに、訓練を経たせいで、それだけでないと分かってしまう。

 自分の覚悟がその程度だと思いたくなかった。倒れ伏したフィオナ。かすれたナスィームの声。死んでいく透き通った瞳。命を狙われたときの己の恐怖。苦しみ。大切な人を失う絶望。そういうものを思う度、肺を熱し、喉を焼き、視界に溢れる影の明滅を繰り返させるものが、紗夜子の胸の奥から溢れ、手に震えが走った。許せない、という思いが呼吸する度に怒りとなって膨らんでいく。

 でも。でも、的を、掠らなかった。

「…………っ……」

 辛いくらいに見開き、閉じられない視界に捉えられる、膝の上で握りしめた両手は痛いのに。
(泣くな)
 こんなのでは、全然、足りないのだ。
 何も、できないのだ。
(泣くな……!)

 青の灯が、揺れていた。換気のせいだ。大きな換気扇がいくつもあるので、地下には常に風の流れがある。通りを抜け、この第一層から更に地下を巡り、吹き上げていく。なのに静かだった。紗夜子の食いしばった呼吸が響いているだけ。
 もっと、力を手に入れなければならない。
 第三階層の高遠紗夜子に力はない。第一階層のエリシア・ブラウンにも何もない。アンダーグラウンドのサヨコにも。今のままではいけない。決意を。強さを。覚悟を。攫み取るように。奪うように。もっと、アンダーグラウンドらしく。UGのように強く。もっと。




(もっと堕ちなければならない)




「――夜の闇が寂しいと震えて泣いているかと思ったら」

 ぎくっと紗夜子は凍りつく。心に沈んでいた何かが急に形を持ったような、同じ温度、同じ暗闇をした声だった。


      



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