教会をあとにすると、紗夜子はディクソンを振り払った。まるで補導されたような気持ちになり、こんなこと今までなかったのにと唇を噛み締めた。困った顔をして両手を上げたディクソンから、トオヤの方へと足を向ける。吸い込んだ息は、落ち着かない感情に震えた。
「なんで」
「あ?」
「なんで謝るの!」
「お前がジャンヌの仕事を侮辱したから」
 唇がわなないた。トオヤの言う通りだとしても、娼婦という言葉が納得させてくれない。だって、身体を売ってるんだよ。売春だよ。
「俺はよくて、あいつはだめなのか」
 どういう意味だと問おうとして、言葉を失った。
「人殺しはよくて、娼婦はだめなのか」
 殴られたような気がした。実際、後ろへよろめいただろう。背中を支えようとするディクソンの気配を感じて、身体が反射的に動いた。二人の間で、紗夜子は二人を避けるような自分の行動に愕然とし、小さく震えながら声が飛び出しそうな口元を覆った。
 違う。そういうことじゃない。そう叫ぼうとしても、説得力がない。
 だって私は人殺しを許せないのに。
「……サーバー襲撃作戦っていうのは?」
 トオヤがあからさまな舌打ちをする。
「……本部から命令が出て、第一階層の北地区を制御しているサーバー『A』の停止作戦が実行されることになった」
 紗夜子は立ち尽くす。
 何か言って。私に言ってよ。『お前の力が必要だ』って。戦うためには、私が必要だって。
「私は……」
「実行部隊は決定済みだ。お前の名前はない」
 大声で泣きたかったのか、歯を食いしばった頭が後ろへ倒れようとするのを堪え、声を振り絞った。
「……トオヤは思ってる」
 トオヤが眉を寄せた。
 だめだ、これ以上言うな。なのに、叫んでいた。
「トオヤも思ってるんでしょ? ジャンヌと同じように思ってるよね? だから謝ったんでしょう!?」
 気付いてる。とっくに。だから足掻いてる。

 ――私には戦う力が、ない。

「紗夜子さん、落ち着きなさい」
「ディクソン、ちょっと外してくれ」
 ディクソンはトオヤの顔を見て、少し目を細めた。心配そうに噛み付きそうな紗夜子を見遣ったが、結局は少し離れることを宣言して、いなくなった。
 涙目の紗夜子に、トオヤが向き直る。
「ちょっと落ち着け。お前、今言ってることと思ってることが追いついてない」
「私のどこが……!」
「ストップ。ちょっと深呼吸しろ」
 なおも何か言おうとすると「するまで話さない」と拒絶されてしまった。仕方なく、その場で深く息を吸って吐く。肺の中が空気でいっぱいになった後、空になっていく。すると、胸の上で焦っていた何かが、お腹の底でどしんと落ち着いた気がした。最後にトオヤを睨みつけると、よし、とトオヤは納得した。
「煽られんな。焦るのはお前が後ろめたい証拠」
「……後ろめたくないよ」
 後ろめたくない。ちゃんと、戦おうと思っている。それしかできないから。全部知ろうと決意した。怖いけれど、身が竦むけれど。そのための鍛錬であり、そのための銃だ。
 UGの人たちに負担をかけているのは真実だ。ジャンヌが言うように、自分がなんと言われているかというのも、何も間違ってはいない。うまく戦えないのは事実で、何の力もない自分がここにいる。唇を噛んで、拳を握るしか能がない。
 でもだからと言って、本当のことを突きつけられるのは辛かった。
 情けない。滲んできた涙を隠すために俯いた。嗚咽が出ないように唇を噛んで鼻で息をした。その苦しさが、少しだけ自分を支えた。
「後ろめたいんだろ。自分の力がない、弱い、覚悟がない、そう気付いてる。その上、戦うなって言われてる気になってるから、焦ってる」
 驚いて顔をあげた。
(どうして……)
 どうして分かるんだろう? トオヤの言葉は、胸の中の思いを拾い上げ、目の前に転がしていく。すると、新しい問いかけが浮かんだ。聞いてくれるだろうか、という迷いは、教えてほしいという強い思いに吹き飛んだ。
「……戦う道を、選んだよ。でも、ちゃんと戦えないことで、逃げてると思われてる気がしてた。実際、思われてる」
 拳を握った。

「強くなりたい」

 かすれた声になった。だからもう一度。
「強く、なりたい……」
「だったら強くなれ」
 トオヤはただそう言った。
「誰にも文句を言われないくらい、強くなれ」
 紗夜子はちょっと顔をしかめた。笑おうとして、できなかったのだ。金髪入れ墨の成りのトオヤだから、体育会系の言葉が出てくるのはちぐはぐだったけれど、言葉の強さは真剣だった。
「……単純すぎない?」
「実体験だからな。力こそすべて」
 お互いに少しだけ噴き出した。そして、ああそうだ、と合点がいった。
 これは、トオヤの答えなんだ。ジャックには、他の道を探せと言われているけれど、トオヤ本人が望むのは戦うために前へ出て行くことで。だからトオヤは、力を手に入れたのだ。
「そっか、だから……」
「『だから』?」
 言いかけて止めた言葉だったが、紗夜子は泣き笑いに似た顔で口にしていた。
「だから、眩しいんだ、って」
 ずっと不思議だった。トオヤがどうしてそんなに、まっすぐな感情に溢れているように感じられるのか。
 それは、紗夜子が持っていないものを持っているからだ。紗夜子が欲しくてたまらないものを持った存在。紗夜子の前を走っていくのが、この人だからだ。
 トオヤを見れば、驚いたような顔をしている。紗夜子は笑って、緩く首を振った。これは取るに足りない独り言と同じなのだから。
「手段を、ね。選ばないようにしようと思った。私が復讐を果たせるなら、トオヤたちも利用してやろう、【魔女】にだって勝ってみせるって思ったけど、実際の私、全然強くない。どうやったら、心も強くなれるのかな」
「……お前の場合は、未来を見てないから、だな」
「未来?」
 不思議な呪文のように繰り返した。
「復讐を終えた、その後は?」
 トオヤが聞く。紗夜子は目を逸らしてしまった。

 未来。それほど遠くない近い将来。自分はきっと、人を、殺しているだろう。一般人には決して戻れない、殺人者だという自覚を持っているに違いない。そういう人間が平和な日常を生きている様は、想像できないし、そうであってほしくなかった。裁かれるべきだと、そう思う。だから、自分が笑って生きている未来なんて想像もつかなかった。
 私は、最後にどうなるのだろう。

「……生きてていいって、認めてもらえないと思う。裁かれるべきだって言われると思うし、自分でもそう考えると思う。だから、自分で、生きてていいって思えなくなってるかもしれない」
 正直に言った。
「でも、例えそうなっても……最後に命を失っても、生き残ってどこにも居場所がなくても、私は、後悔しないと思う」
 汚れた手で生きてきた。その結末が何であっても。
 ――……ぁちゃん……。
 呼び声に目を閉じた。その時。

「っ!?」
 トオヤの手が伸びたと思えば、頭を撫でるわけではなく、がっしりと頭蓋骨を鷲掴みにしてぎりぎりと力を込めた握りつぶそうとしてきた。
「いったたたたたたたっ!?」
「未来を、考えろ、っつっただろ!」
 手はすぐに離れたが、ずきずきした。生理的な涙の膜の向こうで、トオヤが何かを差し出した。紗夜子が恨めしく睨み上げると、無理矢理握らされる。
 なんだこれ、と思ったものは、鋏の形をしたブローチだった。しかし、見た目に反してずっしりと重く、上下に動く突起が見えた。スイッチ、に見える。
「UGの無線。使い方は分かるな?」
 トオヤの微笑みにぶつかる。だが、一転してこわい顔で凄まれた。
「お前、UG舐めんな。俺たちは正義だと思って戦ってんだよ。生きて良いかとか、裁かれるかもとか、誰かを殺しても、死ねって思われても、目指すもののために戦ってるんだ。初っぱなから覚悟できる人間は滅多にいねえけど、お前の迷いは死につながる。表に出たらそんなの考えてる余裕なんてねえよ。言っただろ、お前」
「……え?」
「『生きたい』って」
 ぎゅっと、ブローチを握りしめた。
 小さな刃であり、道具である鋏。
「私……戦ってもいいよね?」
「そこで聞くかぁ?」
 トオヤは破顔した。その、影を吹き飛ばすような笑顔で、紗夜子の髪を一房とって、指を滑らせた。

「お前の選択はお前のもんだ。焦るな。お前を見続けろ。狙いから銃口を逸らさないことだけを考えればいい。――守ってやるから」

 顔が赤くなるのが分かった。
 そんなことを言ってくれるのは、トオヤが第三階層出身の自分と紗夜子を重ねているからなのだろうか。UGに紗夜子をつなぎ止めようとする打算なのか。それとも何か違う理由?
 それでも、気持ちよく笑いかけてくれる彼のことがとても嬉しくて。たまらなくて。どんな目論みや裏があっても、それだけで戦えるという気持ちがしてくる。沸き起こってくる。
 未来を、考える。
 自分がやがてどんな罪を背負うか分かっていても、その次に何をしたいか、すべきかを考えよう。今のトオヤの笑顔に報いるためには、紗夜子は答えを出すべきだった。
 そして、その光景がひらめいた。

 口に出そうとしたその時、ガガッとノイズ音が二人の間に響いた。

『UG各位に通達。第一階層第五地区ポイントB8において【魔女】出現。現在一命が応戦中。至急急行されたし』

 紗夜子は走り出した。
「行こう!」
「……どこか分かってねえくせに!」
 出遅れたトオヤが長い足で追い越していく。紗夜子はそれに引き離されないよう、駆け出した。


      



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