屋敷に入るなり、ものすごい駆け足でユリウスがやってきた。優秀な遺伝子の上に適度な運動と栄養で育った身体能力は、階段の二階から一階へひらりと飛び降りるくらいのことは可能にさせる。上出来だ、と村木は思った。使い方はどうあれ、よくここまで育った。
「シゲル! 今日はサヨコに会った!?」
「テンションが高いですね。疲れませんか」
「元気だった? 僕のこと何か言ってた?」
 まとわりつく様は犬のようだ。ぶんぶんと振られる尻尾が見える。
「少なくとも君を嫌ってる風ではないようでしたよ、良かったですねえ」
「本当? そうなの? そうか、そうなんだ……!」
 うふふ、と少女のように笑って、両手を合わせている。かと思うと、バレエを踊るようにくるくると回転を始めた。
 このはしゃぎようは何かに似ている。サヨコ・タカトオに向かって言ったことを、もう一度この場で考えてみる。何に似ているだろう。記憶を引っ張り出してこようとする。それが比喩したものではなくて記憶だったと思い出した。確か、ものすごくテンションが高かったのだ。興奮しすぎて熱を出したはず、データを取った覚えがある。
(そうだ……確か、犬を欲しがった)
 繰り返し読んでいた小説があったのだ。犬が登場し、その犬は高い知性でもって主人を守る。それまで非常に聞き分けのよく大人しかったユリウスが一変して執着心を見せたため、データを取ってみようと与えたのだ。犬種は小説と同じレトリバーで、よく訓練された成犬だった。
「シゲル? 難しい顔してるけど、何かあった?」
 村木は口元を覆った。
「部屋に行きます。仕事をするので邪魔しないでくださいね」
「えー」
「これでも眺めて我慢しなさい」と村木は書類とROMを放り投げる。
「なに、これ」
「サヨコ・タカトオの一週間分のデータ」
「っシゲルありがと大好き!!」
 階段を二段飛ばしで上がって部屋にすっ飛んでいく。資料は身長体重身体測定テスト結果諸々入った個人情報の固まりなのだが、データを渡すだけで『大好き』と言われるくらい変態になっているわけだ。ストーカー化している……とデータを取る予定を立てつつ、部屋に戻ってパソコンに向かう。
 メールソフトを立ち上げると、新着音が鳴った。


『サヨコ・タカトオとユリウスの関係性による、Sランク遺伝子保持者の執着心の変化データを採取することを提案します。
 ユリウスのサヨコ・タカトオへの執着心は、Sランク遺伝子保持者が生来持ちにくい「人間味」を表したものと推測します。
 これまでSランクには三体の成功例がありますが、いずれも我々のように人間を人間足らしめる「何か」が欠落しており、我々はそれを人間性の欠落と表現してきました。
 これからエデン人が更なる人類として発展していくために、より高度な能力、容姿、性格といったものは必要であり、プロトタイプであるユリウスの更なる人間性の発達は、興味深いデータになると思われます。
 もしこういった類似例の過去データをご存知であれば、送っていただきたく思います。
 私としては、データ採取の必要性ありと感じます。
 『上』からの指示を仰ぎます。』


 アドレス元は、最上位研究施設。村木がいつも報告書をあげている所属先だ。

 椅子にもたれたところで、また記憶が蘇った。
 犬がやってきた屋敷には、ユリウスの笑い声が響いていた。興奮のあまり熱を出したこともある。体調管理のために研究員がやって来て、点滴だ世話だと屋敷は騒がしく、泣き叫ぶ声が響いていた。遊びたい、一緒にいたい。だが犬の毛や皮膚などが不衛生だということで隔離されていた。
 あの時は、非常に子どもらしかった。体調が悪いことにも気付かず、倒れるまではしゃぎ回った挙げ句、ベッドに縛り付けられても尚、わがままを言い、大声で泣き叫んだ。
 だが、二ヶ月で犬は屋敷から消えた。小説のレトリバーはフィクションであって、同じ知性を持った犬というのは不可能だった。エデンで発達しているのはロボット工学であって、遺伝子工学はまだ発展途上にある。Sランク遺伝子保持者は、過去の高い能力者の遺伝子を単純に掛け合わせた結果でのものであって、遺伝子そのものを操作したわけではない。だから、高い知性を持った犬、というのも不可能なのだった。
 自身の欲求に答えなかった犬に対し、ユリウスは自らの手で『処分』を行った。
 ユリウスはあらゆる武器の扱い方を教育されている。だから拳銃の引き金を弾くことなど造作もなかった。
 あれだけ求め、あれだけ喜び、あれだけ笑っていたのに、ユリウスは玩具を捨てるようにして生き物を殺した。落胆は怒りに変じ、怒りは冷たい殺意になったのだ。
 ユリウスは欲求の固まりだ。もう十五歳になるのに安定感はなく、ひとつのものに持続して執着できない。呆れや失望や落胆によって、彼の中でその存在の値はゼロになる。その力が彼の中で働く。
 ユリウスの中に降り積もりはない。いつもまっさらで、だから欲求がストレートに飛び出してくる。
『大好き!』
 あんな顔、自分に向けてきたのはいつが最後だったか。


 再びメールが届いた。本文を読み進めて村木は苦い顔になった。
「【女神】の方も動き始めたのか……二大派閥の対立の始まり、か」

 第三階層の都市運営者たちに向けて送信されたメールには、【女神】候補者認定式の知らせが書かれていた。
 中に気になる文章がひとつ。
 その認定式が第一階層で行われる、ということだ。
 第三階層者は下には降りない。エデンの運営者として絶対的な存在と信じている彼らは、地上に足をつけることを嫌う性格があった。特権階級たる最上階層から降りることは屈辱を意味する。俗に『落ちる』と言う。

「落ちた娘が聖なる座に、女神になるか聖母になるか……ってところですかね」
 村木は呟いた。

 高遠紗夜子は、エデンを『越える』存在に成りうるのか?

 モニターを眺める男は無表情だった。
 そして、ユリウスに服を作らなければならない、と二週間の予定を組むべく、カレンダーアプリを起動した。


     *


 鳴り響いた着信音に、紗夜子は気付いた。隣の部屋からだ。聞き間違いでなければ、ジャックに取り上げられた自分の携帯電話のもの。
 夜の屋敷で鳴るそれは、切られる気配がなく延々と着信し続けている。
 どきどきとし始めたのは、悪いことを考えているからだ。
 今なら、携帯電話を取り返せるかもしれない。
 部屋をそっと抜け出すと、明かりの煌々とした廊下はしんと静まり返っていた。七重は、きっと部屋にいるのだろう。ダイアナはそれについているに違いない。ジャックもまた紗夜子と同じ監視対象のはずで、扱いはもっと危険人物としてのものだったはずだが、姿が見えないのは自由に行動しているためだろうか。
 それよりも携帯電話だ、と耳を澄ます。部屋を出ると少しだけ遠くなった着信音は、やはり隣室からだった。
 開きっぱなしの扉からするりと滑り込み、素早く閉める。真っ暗な部屋の中に、小さなライトを探すが、すぐには見つけられなかった。それでもどうか音が途切れませんようにと祈りながら音を辿って行くと、小さな箱に着いた。鍵がかかっているようだが、鍵が、無精にもささったままだった。
 携帯電話を取り出してみると、初めて見る番号が表示されている。
 通話ボタンを押して耳に当てた。声は出さないでおく。
『サヨコ。お久しぶりです』
「あ、AYA?」
 驚いた声が出て、慌てて声を潜める。
『まさか通話できるとは思いませんでした。通信機器は取り上げられている確率は極めて高かったはずです』
「取り上げられてたけど、たまたま見つけて……」
 本当に、たまたまだったのだろうか。疑惑がもたげる。
「どうしたの。アンダーグラウンドに何かあった?」
『生存確認のためです。私の庇護下を離れることは、あなたの死の確率が上がるということですから』
 言葉を呑み込む。それはまた、直接的な表現だ。だが、こうして繋がったことの意味をはっきりと自覚すると、紗夜子は小声の早口でまくしたてた。
「今から言うこと、録音しといて。トオヤたちに伝えて」

 次期統制者の話、紗夜子が候補であること、第三階層の【魔女】たちとその『上』とそれに繋がるタカトオとエガミ、サイガ、Sランク遺伝子保持者たちという派閥の存在。
 思いつくだけ口にし、AYAは『記録しました』と告げた。

『あなたはこれからどうするのですか?』
「目的を果たす。第一階層で候補認定式があるって言ったでしょ。そこで高遠と対決する」
『勝率は低いでしょう。挑む必要性が理解できません』
「でも、私は、高遠に復讐する。全部、奪ってやる」
 しなくちゃならない。死にたくないと言ったナスィーム。看取ることもできなかったフィオナ。紗夜子から世界を奪ったタカトオに、同じだけの苦しみを与えてやりたい。何もできない自分と、何の力もない自分を自覚させてやりたい。
『あなたの話から総合すると、あなたが次期統制者の位に就くことによって復讐を果たせるのではないでしょうか』
「……どういうこと?」
『三氏が統制者には逆らえないことから考えると、あなたが統制者になれば、タカトオそのものを潰すことが可能になります。財産を没収し、第三階層から第一階層へ落ちることを命じられます。死を命じれば高遠氏は死ななければならないでしょう。そのような復讐は考えないのですか?』
「そ、れは……」
 初めてその意味を考えた。
 すべてを支配する統制者。エデンを動かす至高の座。そこで手に入られられるものは、エデンの全て。人も、動物も、土地も建物も技術も。高遠の命さえ。
 喉が渇く。
『なのにあなたは直接対決すると言っている。それは自殺行為に等しいと私は考えます』
 AYAの声が耳に障る。

『あなたは、本当は死にたいと思っているのでは、』

 発作的に通話を切った。
 辺りはしんと静まり返る。外でごうごうとうなる風の音を耳が捉え始め、そのまま、紗夜子の耳鳴りになった。息が自然と荒くなって、心音が速くなっていた。目眩を起こし、そこに座り込む。
「トオヤ……」
 名前を呼んでいた。
(トオヤ、私……)
 どうすれば生きるために戦える? どうすれば、未来のために戦える。
 だって仕方ないじゃないか。何かしようにも、持っている力は自分一人分だけだ。この力をもってして戦うしかないじゃないか。エデンの統制者になることは、高遠と同じように高みに昇ること、高みから人の命を操作すること。同じものには、なりたくない。だからと言ってAYAの言うように勝てる見込みもないのなら、紗夜子はどうすればいいのだろうと思う。

 トオヤの、力を持てという言葉。力があったら勝てるのに。力があったら、殺せるのに。力があったら。
 震える手でメールを打つ。アドレスを呼び出し、送る。

『トオヤ。つよくなりたい。どうしたら、強くなれる?』

 祈る組み手のように携帯電話を握りしめる。
 暗くなった画面が再び明るくなった時、紗夜子は急いで本文を開いた。


『悪い。助けに行けない。指揮官を降ろされた。

 俺は、強くないんだって思い知った。』


 目を見開いた。
「トオヤ……」
 どうしよう。
 どうしようと何度も考えて、出来たことはメールを打つことだった。送信画面になった途端、携帯電話をポケットに突っ込んで走り出した。
 扉を開け放ち、廊下を走り、階段をもつれるように数段飛ばしに飛び降りて、玄関ホールを抜ける。外へ飛び出し、冷えた天の夜の空気に息を吐き出しながら、走った。庭の木々が驚いたように鳴る。しかしそこまでだった。紗夜子の前には高い門がそびえ立ち、押しても引いてもびくともしない。カメラが首を振り、紗夜子を捉える。
 鼻が、頬が、冷たくなってきた。手は鉄製の扉を握りしめてかじかんでいる。それでも、がしゃがしゃと戸を揺らし、蹴り飛ばした。
 そうしていると、涙が出そうだった。
(トオヤ。トオヤは強いよ)
 行かなければと思った。
 紗夜子はずっと決意と迷いを繰り返して、戦うことをためらい、ここでは何もできず、指摘されれば何度だって立ち止まってしまう。振り返り振り返り、この道は正しいのだろうかと自問自答し、誰か正義を教えてと周囲に縋りたいと思っている。
 力が欲しい。揺るぎないもの。信念。生きる意味。正当性。あなたのそれは間違っていないという肯定。
 生きていていいのだと、誰に言われるまでもなく思えるのならば紗夜子はこんなに迷っていない。

『だったら生きろ』

 トオヤがくれたのだ。

「あなたは私なんかより全然強いんだよ……っ!」

 生きろと言える人が、弱いはずないじゃないか!

 冷たくなっていく唇を、頬を拭い、きっと見上げる。人工の光に負けなかった天上の星々が強く瞬いている。門の鉄柵のとっかかりを探し出し、足をかけて登りかけた。
「――っ!」


      



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