路地裏をくぐり抜ける。逃亡者が蹴飛ばしたゴミ箱を飛び越し、たたらを踏んだ野良猫を跨ぎ越した。

 先を行く逃亡者が足を縺れさせながらもトオヤを追い付けさせないのは、この階層をよく知っているからだろう。ホームグラウンドであるアンダーグラウンドと違って、第一階層は変化する。新しい道、新しい建物。UGは定期的に巡回するくらいでは、隅から隅まで知り尽くせてはいない。
 追いかけっこはまだ続く。耳に入れたイヤホンが、仲間たちの位置情報を伝えてくる。だが追い詰めるぎりぎりのところで逃げられている。走っているトオヤはついに苛立ちの頂点に達し、思いっきり足下に転がっていた空き缶を蹴り飛ばした。
 サイボーグの左足による蹴り技は缶を凹ましながら勢いよく吹っ飛び、目標の更に先に転がって相手を怯ませた。
 その隙を突き、トオヤは一際強く跳躍する。
 拳を振りかぶり、一気に繰り出せば、目標の頬にみしみしとめり込んだ。
 顎をやったに違いない。ずさあっとアスファルトに転がった。

 建物の隙間に、クラクションや人の声がかすかに届く。大きくついたため息が、反響した。ようやく長い追いかけっこは終わったのだ。

 トオヤは俯せた男の襟首を持ち上げる。意識があったらしく、微かに抵抗され、懐に手を伸ばしたので、もう一発殴った。腹立ちまぎれだったのは言うまでもない。
「こちら、トオヤ。目標確保」
『こちら本部。メンバーを急行させます。お疲れさまでした』
「……なにがお疲れさまだ、パシリにしやがって」
 無線を切るなり呟いた。倒れているのに軽く蹴りを入れ、壁にもたれて煙草に火をつける。
 節制しようとしていたのに最近本数が増えた。紫煙が冬空に消えるのを眺めていると、その向こうの上階層が目に入った。今日は空気が澄んでいるのか、くっきりと外装や施設が見えている。
 落ちるのは簡単、昇ることは不可能。第三階層は更に遥か空の彼方にあり、地上のすべての手は届かない。
「……あいつら、何してっかな」
 紗夜子とジャックが【魔女】ダイアナと連れられ第三階層に去り、アンダーグラウンドは裏切り者が出たことによってぴりぴりしている。出入り口の監視やセキュリティは強化され、アンダーグラウンドの表層にはUG本部が出張ってきた。ディクソンは本部に戻り、トオヤはこうして、UGをだまくらかして会計をちょろまかした小物と追いかけっこだ。前日は酒場の飲み代を踏み倒して逃げた男、その前は結婚詐欺をやったやつ。この一週間走り込んで体力がついた。ありがたくて涙が出そうだ。
 本部はジャックと連絡を取ろうとしているらしいが、向こうから接触はないという。もちろん、第三階層からもだ。目の前で余裕綽々と切り札を奪い取られた形になり、トオヤの苛立ちは大きい。それがまた、本部から直接聞いた情報でないことも。
 第三階層は、その位置から決して動こうとしない。同じステージに立つことは絶対にしないのだ。それはUGが戦い続けてきた歴史を見れば分かる。
 紗夜子がいることでUGが第三階層に昇ったのなら、状況を打開することになるのかと思ったが、ジャックから連絡はなく、本部は「状況を見る」と温いことを言って待機状態、らしい。
 いつの間に煙草を噛み潰していて、口の中が苦くなっていた。唾を吐き捨てていると、向こうからばたばたと足音が聞こえてきた。
 現れた少年はマオで、トオヤを見てどこの軍人かという勢いで敬礼する。
「お疲れさまです! こいつですか?」
「ん」
 逃亡者に手錠を嵌めようと身体を起こさせた一人は、そいつの身体を動かして、げっと呻いた。マオもぎょっとして、トオヤに叫ぶ。
「トオヤさん、ぶちのめしすぎです! こいつボッコボコじゃないすか!」
「普通だろ」
「普通なら殴られて気ぃ失いませんて! しかもこいつ漏らすくらいびびってますよ! どんだけ鬼だったんすか!」
「普通だろ」
「適当に返事しないでください恐いから!」
 こえええと残りの面子は悲鳴を呑み込んでいる。
「機嫌わりー……」
「それってやっぱジャックさんとディクソンさんがいないから?」
 空気の読めない一名に、トオヤは笑った。今度こそ面々が凍り付く。
「ほーお……」
「トオヤさん、この後暇っすか! 飲みにいきましょう!」
 素早く前に出たマオににっこり笑いかける。
「俺はそいつとの喧嘩に財布出したとこなんだが?」
「仲間内で争っても仕方ないでしょ! 本部の動向にいらいらしてるのはトオヤさんだけじゃないっす! 俺らだって、トオヤさんたち三人でいないの寂しいンす!」
 これにはちょっとトオヤも笑顔と拳を引っ込めた。泣きそうな顔面を揃えられると弱い。深々とため息をついてがりがり頭を掻く。ちくしょうと悪態を口の中で転がす。
「マオ、ちょっと来い。話がある」

 仕事を割り振った後、アンダーグラウンドに戻る。マオは不思議そうにしながらも後に続いて、当たり障りのない話を振ってくる。返事をしていると零街に戻ってきた。トオヤは尋ねた。
「今から適当に話すから、何か疑問とかあれば突っ込め」
「あ、ハイ」
 自分の考えをまとめるのに普段ならジャックやディクソンに話すのだが。マオに代わりをさせるのは悪いと思いつつ。
「紗夜子を第三階層に戻そうっていうのは、タカトオとエガミが協力し合ってのこと、その理由は多分三氏に関わることで、エデン運営に関わることだと思う」
 マオは黙って聞いている。どういう話をするつもりか理解したのか、軽く頷いた。
「邪魔だから殺そうとした、けれどエリザベスがいなくなって迎えに来た、とすれば、タカトオの【魔女】が埋めていた役割に紗夜子を身代わりにしようとしていると考えるのは無理矢理じゃないと思う」
「……サヨコを狙ってたのはタカトオ、でも手のひら返して迎えに来たんすよね。【魔女】が破壊されたことで、第三階層のサヨコへの評価が変わったってのも考えられませんか」
「でも、どっちにしろ、紗夜子が第三階層に必要な存在になったっていうのは確かじゃねえか?」
「っすね」とマオは同意する。
「【魔女】はエデンの守護者だ。紗夜子は人間。人間を守護者に推しても意味がない。なら、【魔女】には俺たちの知らない意義があるんじゃないか」
「守護者、護衛、敵……俺が考えられるのはそんくらいすけど」
「【魔女】のプログラミングをしたのはキリサカだ。ボディを与えたのは三氏。だが、ボディを与えた時点で俺たちの目がそらされたんじゃないか。そのつもりがなくても、俺たちに攻撃するようになったという時点で曖昧になったんじゃないか」
 マオは変な顔をしている。飛躍し始めているとはトオヤも思ったが、言わずにはいられなかった。

「プログラミング……AI。【魔女】のプログラムは、エデンマスターとしてのものだったんじゃねえか」

 少年の顔はみるみる驚きでいっぱいになっていく。
「そもそもの、【魔女】が守護者でUGへの対抗策、と考えた前提が間違っていた。やつらは、自分の手を汚さないために次期エデンマスターのプログラムとして開発したAIにボディを与えて、殺人兵器に改良しただけだったんだ。その上でやつらはそのAIに競い合わせているんじゃないか。〈聖戦〉なんて悪趣味な名称を付けてな」
 すべては推測だ。だが、そう考えれば話が明らかになるのだ。
「そ……じゃあ俺らは実験台、いや、サヨコは!?」
「聞いたことねえか、マオ。人間の脳の容量は約二百三十テラバイト。現代、第一階層のコンピューターはそれに追い付いてるし、第三階層なんて【魔女】の技術を見ればそんなの軽く越えてるだろうが、開発するのにどれだけの手間と技術と費用がかかるか。そう考えると、人間持ってくんのが一番楽だよな」
「か、軽く言い過ぎ! それじゃあサヨコ、ただの生贄じゃないっすか!」
 マオの言う通り、後手に回れば、エデンマスターの入れ替わりは速やかに完了するだろう――紗夜子の頭脳を使ってだ。
 胸くそが悪い。
「え、じゃあ、あの、キリサカの親父さんは……」
 AI開発を行ったのはキリサカ家。その技術が確かであることは、アンダーグラウンドの統制コンピューターAYAを完成させたところから見ても確かだ。だから、開発者が知らないはずはない。
 トオヤが笑うと、マオは三メートルは後ずさった。
 だからこそむかついてんだよ、馬鹿野郎。
「ど……どうするんすか」
「どうも出来ねえだろ。俺、指揮官じゃねえし」
 そんな、とマオは狼狽えている。
「トオヤさんなら、オレたちと違って本部のボスたちに意見できるじゃないっすか。本部メンバーに加えてもらうとか、なんとかしないと、サヨコもジャックさんも危ないっすよ!」
「分かってるよ」
「だったら!」
「俺には何の権限もねえんだよ。本部は動かねえ。俺の権限でUGも動かせねえ。こうしてチンピラ追うしかねえんだ」
 途端、マオがむっとしたように顎を引く。
「……トオヤさん、拗ねてるだけじゃないすか」
「……んだと」
 低く言うと、マオは青い顔をしながら、しかし一歩も退かなかった。
「だってそうじゃないすか! 責任あるし考えなしに動けないとかかっこいいこと言ってるけど、実際は何も出来ないって拗ねてるだけっす。さっき言われたみたいに、ジャックさんとかディクソンさんとかいないと何もできないんすか。そうじゃないでしょう!」
 トオヤとマオの考えのレベルは違う。マオなら、情に任せて大切な仲間を連れ戻しにいけばいいと思っているのだ。それが人間らしいし、UGらしい強さだと思っている。トオヤだってそう思う。だが、トオヤはUGであり、仲間を危険や不利にさらす浅慮はできない。
 でも、マオの言いたいこと、やりたいことは理解できるのだ。その力があって、フォローしてくれる仲間の存在があるなら、救い出しに行っている。
「結局、本部の親父さんたちに頭下げんのがイヤなだけじゃないすか」
 だが最後のそれは余計だった。思わず手を伸ばし襟首を掴んだ。マオも反射的にこちらの襟首を引き寄せ、ガンを飛ばしてくる。不用意なことを言えば殴り合いになる、だが、トオヤは手を離した。
 後輩と喧嘩をしたいわけではないのだ。けれど格好がつかないために最後に一つ突き飛ばし、背を向けて歩き出す。

(かっこわりぃ……)
 瞬間的にかっと来たのは、それが図星だからだ。
 強くなったと思えたのに、あの日で全部を失ってしまった気がする。去られたせいだろうか。守れなかったせいだろうか。自分のことよりも、ばらけていく三人組を心配そうに見ていた紗夜子のせいだろうか。
 トオヤという人間を、プレッシャーに感じるくらいに『揺るぎない』と信じている紗夜子。こんな姿は見せられない。でもここにはいない。
(悩むんだよ、俺だって。助けに行きてえよ。守ってやりてえよ。でもそのための力がないんだ、俺には俺自身の力しかねえんだよ)
 紗夜子の友人が死んだ時、守ってやれなかったとトオヤは思った。一人は回収できず、一人は瀕死の状態で、看取ったのは紗夜子だ。彼女らは巻き込まれて命を落とした。
 UGなんて、正当さをうたってレジスタンスを名乗っていても、結局はこうして直接的、間接的に誰かの命を奪っている。
 でも、だからこそ足を止めてはならないのだ。
 中途半端に投げ出して、それまでの犠牲を、背負った命を捨てるような形で革命を諦めてはならないというのはトオヤには揺らぎないものとしてある。
 だから勝手をしてはならない。だが、個人の感情としては助けに行きたいと思っている。だったらマオの言ったように、本部に頭を下げて、作戦の組み立てと実行を直訴すればいい。

 だが、あそこにはライヤ・キリサカがいる。
 本部に背を向ける形で先鋒部隊に入り込んだ自分が、今更頭を下げるのは負けを意味するような気がした。「ほら、お前じゃエデンを変えられなかったじゃないか」――そう言われるに決まっている。それだけは。やってきたことを否定されるのは。

 頭を掻きむしる。堂々巡りだ。

「……かっこわりぃ」


      



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