もう、紗夜子をそう呼ぶ人は限られてしまった。その名は、生きる意味がないとして真実の名を奪われた架空の存在だ。
「亜衣子姉さん……」
 亜衣子は高遠の娘にふさわしい姿で立っている。いくら嫌われ、また紗夜子自身がどれだけ憎くても、姉が第三階層者としての知識と能力、姿を保っていることは認めなければならなかった。紗夜子は美しくもなければ、能力もない。七重に言ったように、紗夜子が美人だという賛辞を口にしてしまえるに足る、亜衣子だった。
 消えてしまいたい、といういつもの感覚が身体を心から冷たくする。目を逸らし、握りしめた手の固さ。エステで揉まれたのに、皮膚が硬くなってしまったままで、かさついていた。
「アイコ・タカトオ嬢。失礼だけど降りてきていただけるかしら。この屋敷を自由に歩く権利を、わたしはあなたに与えていないわ」
 はっと七重を見た。見上げた、亜衣子の顔に不快そうな皺が寄る。
「……それは失礼」
 まるでこの屋敷の主のように現れた亜衣子は、階段を見上げる七重と紗夜子の後ろのダイアナを見、今更取り繕うに階段を下りて、紗夜子の前に立った。そうすると、彼女の方が少し背が高いくらいで、ヒールがなければ同じくらいだというのがようやく分かった。
「紗夜子。亜衣子さんはあなたの様子を見にいらしたそうよ」
 七重が言うが、亜衣子は紗夜子を見下しに来たに過ぎない。姉は聞いたのだろう、紗夜子が保護されること、その理由を。しかし紗夜子は何があっても捨てられた子どもであると思い知らせるために、姿を現したに過ぎない。この人が現れると、紗夜子は死んでいるような気分になってきた。

 サヨコ。なんつーんだ。

 けれどあの日、世界が変わった日以来、紗夜子と呼ばれるようになったから。
「……あなたたちは、私の友達を殺した」
 七重が注意深く亜衣子を見る。
「私を狙った攻撃で、私が顔も名前も知らない人が巻き込まれて傷付いた。死んだ人だっている」
 ジャックがいることを意識した。彼はきっと、震えている紗夜子を見ている。
「私たちは玩具じゃない。殺せと命令して、今度は保護しろって……私は、私たちの命は、あなたたちの玩具じゃない!」
 あの無力感と怒り。絶望を覗いた瞳を。味わった硝煙の苦さ、武器の重みを。訴えるには見合う言葉を知らず、声の大きさで示すしかなかったけれど。
(もうあなたの言う通りには生きない)
 ああ、ようやく言えた。その安堵が一瞬形を成したと思ったのに。
「第三と第一じゃ、命の重みが違うわ」
 言葉よりも何よりも、何の理解も示さなかったのは目だった。紗夜子を見下し、嫌った目は、今こうして同じ場所に立っていても立っていることを認めない、同じ生き物ではないと見下げていた。
 紗夜子だけではない、彼女が見下しているのは――!

「だめよサヨコ!」「サヨちゃんっ!」

 刹那、時が過ぎる。 
 その目を、歪ませてやりたいという思いが先立って紗夜子が瞬間的に踏み出した身体はジャックに腰から止められ、そのせいで届かなかった拳はしかし焦った顔をしたダイアナの手のひらに止められている。阻まれた先には仰け反る間もなかったらしい亜衣子が目を見張っており、七重は一歩も動けず目を丸くしていた。

「……いっ……たあーっ!」

 凍り付いた場は、紗夜子の声で崩れた。
 紗夜子が悲鳴を上げて、どっとジャックが脱力する。ダイアナは拳を止めた自分の手を見て、仕方ないわと呟いた。どこか汗が滲んでるような声。
「わたしの骨は合金だもの。本気で殴れば痛いのは当然」
 涙目になってしまう。右手の指の骨から、じんじんと痛む。もっと筋力があったら、全力で骨折しにいったのではないだろうか。痛みのあまり手首からがくがく震える。肩への筋をどうやら痛めたらしく、少し動かすと痛い。
 か、こ、と音をたててヒールの足がずれる。今更亜衣子が後ずさったのだ。
「あっ……なた……、私を本気で殴ろうとしたの!?」
「殴られて当然のことを言ったからです」
 紗夜子が言うと、亜衣子は愕然とした顔でまた後ろへ下がる。
「なんて、野蛮な」
「もうあなたたちの言うことは聞かない」
 紗夜子は宣言する。
「誰があなたたちの思惑通りに動いてやるもんか!」
 その声は気持ちいいくらいホール中に響いた。
 余韻に苛立ちを増幅され、亜衣子が怒声を耳障りな形で響かせる。
「お前を生かすのは私の意志でもお父様の意志でもないわ! いらない子! お前は街に食われて生きるのがお似合いよ! 身体を奪い脳をいじくり心を奪ってそんな生意気な口利けなくしてやるわ!」
「亜衣子!」
 鋭く叫んだ七重に、ぐっと亜衣子は言葉を呑み込んだ。杖を鳴らして、七重が紗夜子と亜衣子の間に入る。
「もう引き取ってちょうだい。冷静な話し合いが出来ないなら、もうわたしは、あなたを迎えることはしないでしょう」
 お帰りよ、と七重が呼びかけ、ダイアナが送り出しに出る。エガミの当主によって強制的に立ち去らされる亜衣子は、すれ違い様、吐き捨てた。
「必要とされるのは、お前じゃない。第三階層に必要なのはお前じゃない。それをよく覚えておきなさい」
「…………」

 亜衣子が去ると、疲れたように七重は息を吐いた。
「悪かったわ。様子を見に来たと言われたら入れないわけにはいかなかったの」
「もー、サヨちゃん無茶し過ぎやでー」
 ジャックもまた、床にげっそりとため息を落とす。
「亜衣子はわたしとも合わないのよ。同じロボット工学者で三氏の娘だけれど、わたしはあまり付き合いたくない人なの。あなたは会いたい?」
 首を振る。
「七重さん」
「なに」
「ありがとう」
 七重が顔をしかめて振り返る。それに笑いながら言う。
「ちょっとでも怒ってくれてありがとう。でも、話をするときはちゃんと顔を向けてほしい。……これって命令じゃなくてお願いだと思うんだけど」
「……考えておくわ」
 ダイアナが戻ってきて、亜衣子を無事見送ったことを告げた。警備に命じて、突然の訪問があっても簡単に中に通さず足止めすることを命じておいたという。七重が屋敷内にも伝えておくように言って、部屋に消えていった。
「あれがサヨちゃんのお姉さんかー。キョーレツやったなあ」
「こんな言い方は気を悪くするでしょうけど、精神的に問題があるように見受けられるわ。何かコンプレックスかトラウマがあるんでしょうね」
 ダイアナが目を向けるが、気付かないふりをする。
 亜衣子が傷を持っているとしたら、それは十一年前の高遠家全体の傷だ。彼女だけではない。
「なあ、ダイアナ。亜衣子ねーちゃん、なんや気になること言っとったなあ」
「何かしら」
「サヨちゃんの何をいじるって?」
 ダイアナはうっすら微笑んだ。
「わたしに訊いても仕方がないと分かっているでしょうに、こりない人」
「んで、血と遺伝子ってなに?」
(…………)
 紗夜子はその答えだけは持っている。
「怒りに任せて口から出たんでしょうね………………」
 不意にダイアナが黙り込む。どこも見ていないように無表情になり、まばたき一つしなくなった。身体も微動だにしない。見えない何かに持っていかれて遠ざかった意識が、どんと重たい感触で舞い戻ってきたのか彼女は大きく一揺らぎしてまばたきを再開する。
「ダイアナ、大丈夫?」
 ぱちぱちと大きな目をまばたきさせて、ダイアナは食い入るように紗夜子を見ている。
「ダイアナ?」
「いいえ。何でもないわ。ちょっと、予期せぬエラーが二個ほど」
 サヨコ、とダイアナは背を叩いた。
「『上』から指示があったわ。サヨコ、二週間後、あなたたち候補を認定する式を、行うそうよ」


      



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