第三階層から、第二階層へ下りる。

 第二階層、都市運営勤労者、あるいは都市運営技術者と呼ばれる人々が暮らす階層は、主に研究所、開発施設などが箱状に詰め込まれている。この階層での天空は、所員に開放感を与え、精神的休養を取るためのスペースだ。第二階層者の多くは屋根と天井に遮られた施設で生活していることが多いのだそうだ。

 紗夜子がすれ違う人、会う人は、大体白衣を身につけた研究者ばかりだった。めまぐるしかった第三階層の一日目が過ぎ、翌日から義務づけられた健康診断と体力測定、知能テストなどのために第二階層を訪れるようになって一週間も経ってしまった。
 立ち位置がやっぱり掴めないまま一緒にいるジャックと、彼と紗夜子をもろとも監視対象にしたダイアナ。三人で行動するようになったが、必要最低限に外出を制限されている紗夜子に、新しい情報は入ってこなかった。
 与えられる検査は多岐に渡り、毎日の体重測定という簡単なものから、就職試験のような一般教養試験や、紗夜子にはちんぷんかんぷんな電子工学などの専門分野のテスト他、何を目的としているのか誰も答えてくれなかった。だが、次期統制者候補として能力を測っているのだろうと納得していた。

「筋力も骨密度も十分ですね。今なら十キロくらいの内蔵銃を装備できそうですけどどうします?」
「遠慮します」
 それは残念、と村木は言った。研究員からカルテを受け取って、紗夜子の前の椅子に座る。
「起床は何時でしたか? 朝食は食べました? 嫌いな食材はありませんでしたか。好きな食べ物は。ついでに好きな異性のタイプを教えてください」
「起床は七時。朝食は食べました。嫌いな食材は特にありません。好きな食べ物はじゃがいも。好きな異性のタイプは答える義務を感じないので回答拒否です」
 それは残念、とちっともそうは思っていない声で村木がカルテに書き込みを入れる。プライベートな質問を交えてくるので、彼との診察には集中力が必要だ。ボールペンで紙面を叩きつつ、興味深げに言われる。
「一週間経ちましたけど、あなたの精神には興味がありますね。幼少期から過酷で、現在こういう状況にあるにも関わらず、落ち込んでる様子は見受けられない」
「それは……どうも?」
「どういたしまして。第一階層に行くと図太くなるのかな……第三階層者にはカウンセリングが必要な人が多いんですよ。適度にストレスがないと安定しないという例ですね。そういうのもあるから、閉じ込めるのはよくないと思って外に出してるんですけど」
 特定の人物のことを指しているようで、「ユリウスですか」と言ってみる。「そうです」と肯定が返ってきた。カルテを控えていた研究員に手渡し、彼は紗夜子に向き直る。
「ユリウスは種の保存のための存在ですが、俺が懸念してるのは、こういう、過保護な状況によって遺伝子が衰退しないかということなんですよ。遺伝子が弱くなっては意味がない」
 不快な言い方だった。口調は丁寧でも、あくまで研究者としての視点だ。
「そんな言い方ってないんじゃないですか。ユリウスの保護者なんでしょ?」
「名目上は。保護者と言っても観察者と同じ意味ですよ。同じ屋敷に住んで生活しているんですが、俺は仕事が忙しいし、あまり一緒には過ごしませんね。観察は監視カメラで事足りるし」
 村木は笑った。
「怒りましたね」
 怒らされたのだと気付かされずにはいられない態度だった。
「不思議な人ですね。あなたはユリウスのことが嫌いだと思っていましたが、嫌いな相手のことを悪く言う俺に怒るんですか」
「…………」
「ユリウスはあなたの話ばかりしていますよ。異常なくらいの執着心だ。こういうのに覚えがあるんですが、何だったかな」
「馬鹿にしてるんですか」
「いいえ? 純血計画の研究員として、ユリウスの精子の行方と、母体候補の存在は気になるところであるだけです」
 それに、と彼は腹の前で手を組んだ。
「個人的な研究で、あなたのことにはとても、興味があります」
 紗夜子は黙った。はらわたが煮えくり返りそうだ。
 一週間交流してきて、彼は研究者以外の何者でもないことが分かった。人間である前に、研究者なのだ。彼は生活を投げ出して、自身の探求、研究に向かっている。彼が接するすべては情を与える必要のない無機物と同じものの位置づけのようで、有機物と認識していても心を持っているという言葉以上のことを理解している様子ではなかった。
 ブザーが鳴り響き、村木は立ち上がった。検査時間を定めているここでは、時間以上の診察や検査を行うということがない。
「それでは、紗夜子嬢。また明日」

 部屋の外ではダイアナとジャックが待機していた。煙草の代わりに禁煙パイポをくわえたジャックがひらひらと手を振る。研究施設では、決められた喫煙所以外で煙草を吸えない。
「ひどい顔」
 ダイアナがすくいあげるように紗夜子の頬に手を添えた。
「どこかへ行く?」
 ダイアナは、優しい。【魔女】というプログラムがなければ、紗夜子はダイアナが好きだと思う。ロボットではなく、普通の一個人として。
 七重は、ダイアナをどう思っているのだろう。エガミの当主としてではなく、七重個人としては。
 ダイアナの青い瞳には意志が感じられる。こちらを気遣う、温かみのあるこころ。その瞳はきっと、特殊なガラス球で出来ているだろうに。
「じゃあ……適当に車で走って」
 いいわ、とダイアナは頷いた。
 その外出があると、他の場所へ寄り道という形で足を伸ばすことができた。見ておきたい場所は特になかったが、図書館や美術館や博物館、資料館に、勧めてもらって足を伸ばしたことがあった。けれど仮に自主的にどこかへ行きたいと言っても、ダイアナは少し困っただろうし、手間だっただろう。
 車で走っていると、階層になっている割には、第三階層は下層よりは小さくとも広いことが分かった。小さくともやっていけるのは、人間の生活に最低限の施設しか置いていないからだろう。

 ダイアナは案内したのは、階層のふちに設けられている公園だった。展望台からは、下階層が一望できる。薄い雲の向こうに小さな街が霞んで見えた。自分がそこからやってきたなんて信じられない。
(神様の国……)
 第三階層をそう思ったことがあった。図書館や美術館、博物館で会った人々は、美しく高価な布で作った服装に身を包んでいて、そのファッションは、第一階層とは少し違った雰囲気のあるもので、余計に紗夜子と彼らに一線を引いているようだった。同じ人間、同じ都市に住んでいるのに、その差はとても大きい。
 上品な人たち。奥ゆかしく、表になかなか出てこない人たち。自分たちの楽しみが第一で、快適さが大切で、他は何も考えていない。
 何故なら、彼らはすべての生活を、エデンマスターに頼り切っているからだ。この高みから見下ろしているだけ。人の死に行く様をわらっているだけ。
(私に、何が出来るの。……どうしたいの)
 会いたかった。
(トオヤ……)
 隠すわけではなくこれがお気に入りだから、持っていたいから、拠り所にしているからと周囲に言い訳するようにつけて、取り上げられないできた小さなブローチを握りしめる。
 村木はああ言ったが、本当はすごく逃げ出したくてたまらなかった。何か大きなものに巻き込まれているという恐怖感。自分の居場所がどこにもないという寂寥感。そして、自分自身がたまらなく恐くて、理解できないこと。
 会いたかった。トオヤなら、きっと、答えを見つけるための手がかりをくれる。自分なんか恐れる必要ないと言って、大きな手で、恐れる必要のないくらい紗夜子のちっぽけな手を教えてくれる。
(戻りたい)
 そして繰り返し思い出す、戦うことを躊躇えた日々の自分を。
 私は、あの頃、まだ守られていた。

「もういい?」
 目をやると、じんわり滲んだ視界にダイアナが映った。まばたきをして誤摩化しながら、うん、と頷く。
「ありがとう」
「いいえ。それじゃあ、江上の屋敷へ」
 屋敷に戻ってくると、見知らぬ車が一台止まっている。ダイアナがじっとして、屋敷中のセキュリティシステムに接続して素早く情報を集めてきた。
「サヨコ、お客様のようだわ。……ナナエもよく受け入れたわねえ」
「まあまあ、紗夜子お嬢さん、おかえりなさいまし。寒かったでしょう。いくら見栄えのためとはいえ、そんな薄着で」
 ホールに入ると、メイド長が迎えに来た。傍らには七重がいる。メイド長は五十代後半の恰幅の良い女性で、紗夜子を幼児みたいに扱う。しかし紗夜子にこうなのだから、七重にはもっとひどいのだ。
「あったかーいお茶をお入れしたいところなんですけど、お客様なんですよ。お綺麗な方ですねえ」
 にこにこと笑いながら同意を求めるように言って、台所へ消えていく。紗夜子は首を傾げた。訪ねてくるような人に心当たりがない。しかし、ダイアナはシステム接続で情報を拾ってきたので、七重と訪問者を知っている会話をしている。
「ナナエ、よく会う気になったわね」
「正式にアポイントメントを取ってきて、断る理由がなかったからよ」
 行きましょう、と七重が歩き出したが、ふと気付いたように顔を上げた。

「よく大きな顔をして戻ってこられたこと」
 その時、玄関ホールに響く声。
 紗夜子は凍り付きながら、引き寄せられるように振り仰ぐ。
 彼女はいつも上から現れる。踵の高い靴を鳴らして、紗夜子を呼ぶのだ。
「あなたのおかげでエリザベスは廃棄になったのよ。――エリシア」


      



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