紗夜子は揃えた膝の上で拳を握り、肩を小さくして耐えていた。髪や肩を滑る手は、どこまでも紗夜子を追ってくる。かすかな拒否の様子すら楽しげに、美しい少年は微笑む。
ダイアナの前でさらうように連れてこられて、もう一時間、紗夜子はずっと撫でられている。それは趣味が悪いと言われて、真っ白な清純そのもののワンピースに着替えさせられた。白いシャツに白いズボンの彼は、お揃いだねと笑ったけれど。
「……そろそろ、飽きない?」
「飽きるわけないでしょ。やっと会えたんだから。むしろ足りないくらい」
眩しい笑顔を間近で受けて、仰け反りそうになる。
「私に、会いたかったの?」
「そう」
彼は手を伸ばしてくる。さらりと頬を滑る手には愛情を込められていた。しかしそれほどの愛情を向けられる理由が思い当たらず、居心地が悪いだけだ。だからその腕が自分を閉じ込める前に、尋ねた。
「あなたは誰? あなたは、私の知っている人によく似てる」
手が止まる。笑顔は、華やかそのもの。
「興味を持ってくれて嬉しいよ。僕も君のこと、もっと知りたいな」
「答えて。私のこと、花嫁、って言った?」
本気とようやく取ってもらえたのだろうか。適度な距離になり、彼は頷いた。
「言ったよ。事実だからね」
更に距離を取った紗夜子に、子どもにするような目をして彼は言う。撫でていた手は、実際は紗夜子を手の中で転がそうとしているのだ。
彼。これだけの距離で接して、紗夜子はこの美しい存在が少年だと確信していた。紗夜子の知っている存在のように、性別を取り払ったような圧倒さはなく、また性別を際立たせるような存在感もないが、感じ取れる気配はやはり異性のものだ。手首の骨張った感じや、首元、動きからも見える。
ふうん、と残念そうな吐息を漏らす。
「君の教育が排除されたことが残念だなあ。知っていたら、君はそんなに僕のこと、敵意に満ちた目で見なかったと思うんだけど。僕の名前を知らないってこともなかっただろうし。名乗るべきかな?」
跳ね上がるようにソファを降りた少年は、すっと腰を折り屈むと、紗夜子の手を取って言った。
「僕はユリウス・オメガ=f=イレブン。Sランク遺伝子保持者であり、よりよきエデン運営者を『創る』ための存在。君は、その花嫁候補なんだよ」
「Sランク……?」
顔をしかめる紗夜子に、そうだなあとユリウスは言葉を探している。
「純血計画って知ってる? エデン運営者、及びその一族の純血を保護し、更なる能力を持ったエデン運営者を創る計画なんだけど。その中でも優秀な遺伝子を持っているのが、僕たちSランク遺伝子保持者。君が知っている人っていうのはエクスリスかな? 彼も、君の花婿候補だよ。逃げていってしまったけどね」
「逃げた?」
「遺伝子保持者としてやってはいけないことをした。第一階層者との間に子どもを作ったんだ。遺伝子の流出は防いだけど、その時に行方をくらました。でも、君は会ったんだね」
エクス、と紗夜子は思わず呟いた。
こんな形で彼の秘密を聞くことになるなんて。
「あいつがどこにいるかは別にどうでもいいんだ。君が、あいつに心を奪われなかったらいい」
指に口づけられる。上目遣いに見上げられ、縫い止められる。
「僕が選んだ。だから僕の花嫁はサヨコ・タカトオ、君だけなんだよ」
熱っぽい囁きに、強い香水を嗅いだようにくらくらした。自身の動きが判然とせず、迫られるがままになってしまう。
(次期統制者、【魔女】、候補、Sランク遺伝子保持者、花嫁……)
たった一日だけだというのに世界が変わってしまう。その中心に自分がいるなんて信じられなかった。けれど本当は知らなかっただけだろう。もしかしたら、紗夜子は最初から中心にいて、目を塞がれていただけなのかもしれない。その覆いが取り払われて、あまりのめまぐるしさに思考が麻痺しているらしい。
銀色の目が、笑う。優しく頬を包み、肩を抱く。
(私は、どうなるの?)
彼に委ねれば、分からないことばかりで、不安にならずに済むのかもしれない。何も考えなくていいのかも、しれない。
「サヨコ」
サヨコ。なんつーんだ。
乱暴な言葉遣いで誰かが言った。
そして、「未来を描け」と言った。
何故その言葉だったのかは分からない。でも、声ははっきりと耳に届いた。まるで胸元にあの無線ブローチがあるかのように。あるいは、胸の内に潜んでいて、まるで守るかのように。
紗夜子はかっと目を見開いた。反射的に手が出た。唇に触れようとしていたユリウスに手を振りかぶった。
手は、いとも簡単に、ぱん、と頬を打った。ユリウスの、打たれた白い頬はみるみる染まる。なのに何事もない顔で首を傾げられ、ぞっとした。
「僕を拒むことはできない。君に流れる血の由縁に」
「私に何があるっていうの!?」
血だ、と思う。また血だ。エクスも『血』だと言った。彼らは知っているのだ。ユリウスの言う通り、紗夜子の血の由縁に。
「それは、私の――」
舌は凍り付き、瞳孔は開き、筋肉は固まって冷や汗が流れた。がくがくと膝が震え、呼吸が苦しく落ち着かない。
私の。その先が、言えない。
外から言い争う声が聞こえる、と思ったのは数秒の後だった。声は次第に近付き、乱暴に扉が開いた。使用人らしき人々が泡を食って、部屋の中と狼藉者を見比べている。その狼藉者は、見るからに冷ややかな眼鏡の男だった。
「ユーリ」
ユリウスはうんざりした顔になった。
「うるさいのが来ちゃったよ……」
「うるさいのとは何ですか。面倒を起こしてくれていい迷惑です。そこに座りなさい。女の子を連れ込んで何やってるんですか」
えー、と明らかに不満そうなユリウスに、正座、と床を指した眼鏡の男が説教を始める。若干乱れた襟元を握りしめ、その様子を呆然と見守っていると、開かれっぱなしの扉から顔を出したのはダイアナだった。
「サヨコ、無事ね」
「君はSランク遺伝子保持者なんです。簡単に子どもを作ってはいけないと分かっているでしょう」
「交友を深めてたんだよ。触れ合うことはいいものだよ。それ以上するつもりなかったよ」
「エログラビアに興味津々だった君が言っても説得力ありません」
あからさまな会話に紗夜子はドン引きだ。
「……どちら様?」
ダイアナがスーツのジャケットを紗夜子に着せながら答える。
「シゲル・ムラキ。第三階層者で遺伝子工学、人体解剖学、ロボット工学、精神科医なんかの資格を無造作に持っている変人研究者よ。Sランク遺伝子保持者であるユリウスは彼の管理下にあるの。つまり保護者ね」
気になる箇所はいくつかあるが、ようはユリウスを怒れる人なわけだ。助かったと胸を撫で下ろす。
「戻ろう。これ以上何かされたら耐えられる自信ない」
「あら、最後までいっちゃうの?」
「誰がいくか! あの綺麗な顔ぶん殴りたくなるの」
それでこそ、とダイアナは紗夜子を笑顔で導いた。
「ダイアナ、すみませんでした。紗夜子嬢、後日、また」
「紗夜子! また会いに行くからね!」
ユリウスが正座を崩して伸び上がった瞬間、村木のまだ終わってませんの声が響いた。
車に乗り込むと、ほっとした。ユリウスの屋敷は彼の濃密な気配が渦巻いていて、車に乗り込むと保護されて隔離されたような気がして安心したのだ。
「ごめんなさいね。さすがに、エガミもその下についてる私もSランクには逆らえなくて」
「ううん、ありがとう。あー、ちょっと怖かった……」
だが、ダイアナは困った顔をする。
「あなたを守る理由は、あなたが損なわれては困るからという損得勘定によるものよ。感謝されては困るわ」
「……ごめん」
「そう謝られるのもねえ」
ごめんと言いかけて、止まる。くすくす、ダイアナは笑った。
江上家に到着し、玄関に入ると「帰ったの」と声がかかった。
「七重さん」
「ただいま、ナナエ」
「迂闊だったわね。まさかSランクが乗り込んでくるとは思わなかったわ」
「ええ。警備の人にはちゃんと補償をあげてね。ムラキに伝えたから、今後は無理されることはないでしょうけれど」
「当然よ。Sランクだからって筋は通してもらわないと困るわ。この子を横からかっさらわれるわけにはいかないし」
私? と思っていると、睨まれた。
「分かってないわね。第三階層は一枚岩じゃないって分かったでしょ。あなたを保護する派閥でも、利用目的が違うの。わたしたちはあなたを次期統制者として立てたいけれど、Sランクはあなたを母体にしたいのよ。理由は分かるわね? ユリウスに会ったんだから」
第三階層の純血の保持と、更なる才能を持った遺伝子の創造を目的とする存在、ユリウス。紗夜子は、彼の完成形を知っている。幼い頃は、その存在がどういうものか分からなかった。けれど、今なら分かる。『あの人』は、ユリウスの完成形だ。
肌がざわつくのは、血が波打っているからだろうか――。
「ダイアナ、お茶をいれてちょうだい。部屋で仕事をするわ」
「ええ」
ダイアナが去ると、七重は紗夜子に向き直った。紗夜子は背筋をただす。
改めて面と顔を向かい合わすと、眉がきりっとしすぎているのが少し残念だが、やっぱりずいぶん綺麗な人だ。わーと思わず声が漏れた。
「なに?」
「うん、第三階層の人って基本的にみんな美人だよねえ……」
「悪かったわね」
「え!? ちょっと、それ勘違い! 私は七重さん美人って言ったつもり!」
叫んでしまった。前のめりになって拳を作っている姿が、いかにも必死ですという感じで、かあっと紗夜子は赤くなる。だが。
(ん?)
七重の首筋から真っ赤に染まっているのは気のせいだろうか。機嫌が悪そうに唇をひん曲げて目を逸らす。そして言った。
「……いつまで見てるつもり?」
「えっ、あ! ごめんなさい!」
私は中学生か! 思春期の男の子か! という具合にもじもじしてしまう。うまく顔が見られない。そしてそれは七重も同じようで、居心地悪そうに黙り込んでいる。
「…………」
「…………」
「……あなた、普段からそうなの? その……同性に対しても」
首を傾げる。みるみる七重の顔が険しくなるので、慌てて腕を組んで中空を睨んで考える。
「うーん……まあ、女の子にもかわいいって言うかな。美人だったらびじーんって言っちゃうし。というか、同性にしか言わないかも?」
「あなたそういう嗜好の人?」
「違う! 異性に対してならアプローチになっちゃうけど、同性なら褒め言葉になるじゃん。私は別に媚び売ってるわけじゃなくて、ストレートに自分の感情を表現したい、のかな?」
七重が不思議そうな顔になった。
「分かってないのね」
「考えなしなだけかも」
くっと、七重の口元が綻んだ。
「でしょうね」
(わ、笑った!)
「寒くなってきたわ。部屋に入りなさい。後でお茶でも持っていかせるわ」
行きかけた七重は、ふと立ち止まる。こつん、と杖の音の余韻がホールに残る。
「あなたに忠告するわ。紗夜子」
声は固い。こちらを見ないが、表情が厳しいのはよく分かる。
「敵は、敵でしかないの。敵に情を与えるのは止めて」
驚いた。
「情……?」
「あなたは〈聖戦〉を戦う。……【魔女】や【司祭】を殺さなければ、あなたが死ぬわ」
杖を鳴らし、七重は階段を上がっていく。一歩ずつ。紗夜子の先を行く。
答えを聞く前に、不意に、背後で扉が開いた。風が吹き、どさり、と落ちる音。振り返ると、影がうずくまっている。それは、座り込んでいる姿から、更に崩れ落ちる形でうつぶせた。
「……ジャック? ジャック!?」
駆け寄って、息を呑んだ。顔が、ぼこぼこに腫れて、青くなったり赤くなったりとひどい状態になっている。身体を起こそうと触れると、強い痛みを感じるのかびくついて呻いたので、迂闊に触れない。見れば服も埃や泥にまみれている。
「誰に……」
呟きかけて、止まった。だって、ここは第三階層だということを思い出したのだ。
ジャックがUGだというのは、知れているだろう。UGは差別の対象だ。同じ階層にいるというだけで、第三階層者はジャックを痛めつける理由に出来る。
「医者を呼んだ方がいい?」
「呼ぶ以外の選択肢ないでしょう!?」
七重もそうなのかと思ったが。
「タカトオかサイガの息がかかった医者に、毒を打たれる可能性を否定できないからよ」
絶句すると、虫の息でジャックが手を振った。
「いっつ……や、構わんでええで」
「ジャック、でも」
「こうなるのは覚悟の上やった。てて……痣つくんのは久しぶりやけど、慣れてないわけちゃうからかまへんよ。ナナエ嬢、すまんな」
「紗夜子に言っておあげなさい。その子、あなたが傷付くことで自分が傷付くような子よ」
ジャックは笑い、呻き声とを交互にあげながら言った。
「いつの間にか仲良うなってるやん。ずるいわー……」