フォークを下ろす音が響いてて手が固まる。食事の作法を指摘されないかとびくびくしていた。知っていても、第一階層では用のないものだったから、実践は今日がずいぶん久しぶりのことなのだ。
 くすり、とテーブルの向こう側から笑い声がした。
「緊張しているね」
 上品に笑う紳士は、顔を合わすなり、エガミの代表代理、江上藤一と名乗って握手を求めてきた。隠されてきた紗夜子の存在に眉をひそめたり、不快な顔をするのではなく、ちょっと若い客を招いたという調子で、それぞれに席について静かに食事を始めることになってしまった。
(調子狂うなあ……)
「こういう堅苦しいのは私の性に合わないんだが、君もそうなのかな?」
「え、あ、はい、まあ……」
 気の利いた答えが出来ない。どんなにエステを受けても、結局中身は第三階層者にはほど遠い。
 だが、藤一は更にくすくすと笑って言うのだった。
「少し話をしたかったんだが、食事にお誘いしたのは間違いだったかな。君のようなお嬢さんは食事くらいもっとのびのび摂ってもいいと思うよ。七重なんて機械をいじりながら食パンを噛むような子だしね」
 きょとんとする。分からなかったと捉えられたのか、藤一は軽く実践してみせた。
「右手でドライバーを持って、両足で本体を押さえつけつつ、左手でパンを持って食べているんだ」
「七重さんがですか」
「見えないだろう。そこが可愛いんだけどね」
 今日もそうじゃないかな、誘っても来なかったしねとにこにこしている。あの生真面目そうな人がと意外な気持ちで、上等のヒレ肉を口に入れる。とろける。が。
(冷たいな……)
 料理は基本的に冷えていた。とろけるようなヒレステーキも、ポタージュスープも。スープは冷たいせいで優しくない味になってしまっている。クリームソースのパスタも冷たい。高級食材は口にしたことがないが、多分トリュフと思われる茸の風味が活かしきれていない印象だ。トリュフじゃなかったら恥ずかしいが。
「待った」
「え?」
 不意に藤一が手のひらを突き出した。紗夜子のグラスにそそがれたジュースに目を向けて、給仕にこちらに来るよう手を招く。新しいグラスに同じジュースをそそいで、それを飲んでにっこりした。
「おいしいね」
「はあ……?」
 それならいいが、どうしたのだろう。そのまま何事もなく食事は進み、デザートの段階に来た。おいしそうなチョコレートタルトを切り分けられ、藤一が先にぱくついている。甘いものに目がないのだろうか。紗夜子を見てにっこりした。
「紗夜子さん。出来れば、七重と仲良くしてやってくれないかな。七重は足が悪くて、工学的な知識が豊富でも、第三階層者としては一段下に見られがちだ。君なら七重と親しくしてくれそうだと思うんだけれど」
 そこまで言って、苦笑された。
「いや、勝手なお願いだね。エガミは君を利用するのだから……」
 紗夜子は曖昧に笑った。第三階層というだけで、七重や藤一を遠ざけてしまう気持ちは、どうしても消しきれなかったからだ。
「私は……もっと七重さんと話がしてみたいです」
 でもだからと言って、簡単に嫌いになったりは出来ない。そういう気持ちを込めて告げる。
 すると「ありがとう」と言って藤一はチョコレートタルトのおかわりを勧めてくれた。

 食事を終えると藤一は秘書に追い立てられてしまった。庭を案内すると言ってくれたのだが、どうやら仕事が立て込んでいるらしい。礼を言って、一人で見て回るからと言うと、首を振られてしまった。
「君を一人にはできないんだ。すまないね。ダイアナを呼ぼう」
 メイドに言いつけると、すぐにダイアナが来た。彼女に紗夜子を託すと、足早に行ってしまった。
「じゃあ、庭を案内するわ」
 ダイアナが隣に並び、前後の離れたところ、けれど見えるところに警備の人間が立っている。
「食事はどうだった?」
「おいしかった。江上氏って猫舌なの?」
「いいえ?」
「冷たいものばかりが出たから、出さないようにしてるんだと思って」
「まあ、毒味をすれば冷めるでしょうね」
 ぴたりと紗夜子は足を止めた。
「……毒味?」
 ダイアナは「毒味くらいするでしょう。第三階層だもの」と笑顔だ。反対に紗夜子は青ざめる。
「第三階層は理想郷だと思った? 天空の富裕層、地上の欲望からは離れた場所だと。第三階層もエデンよ、人間の生きるところですもの、種類が違っても欲望は存在するわ。ここが本当の楽園だとしたら、第三階層者ばかり住んでいるのに、警備が必要なはずないでしょう?」
「…………」
「暗殺なんて当然のことよ。各々考えることはいかに自分の手を汚さないかということ。だからこそ第三階層者は閉じこもるし、第三階層は閉じている。ここにいると、第一階層はなんて平和なんだろうと思うわ」
 季節の庭は、整えられているがまだやってきていない春を感じさせるささやかなものだった。常緑なのは腰の辺りまでしかないこんもりとした植木くらいで、あとは自然に任せるままにしているのだろう。ダイアナの話を踏まえると、死角を作らないように樹がないのかもしれなかった。それでも手を伸ばしたところちょうどに、花びらが重なった赤い花が咲いている。手を伸ばしかけて、声がした。
「……恐くなった?」
 ダイアナがひどく優しい目で見ている。
「……恐いに決まってるじゃん」と紗夜子は答えた。
「知ってる? 私、この一ヶ月くらいずっと危険と隣り合わせなんだけど」
 返す言葉は子どもみたいにふてくされて尖っていた。
「でも、私、統制者になるつもりないから」
 風が吹く。借り物のワンピースのリボンが、ぴしぴしと胸を叩く。最上階層の夕暮れの空は、鳥の影さえなく、けれど紗夜子たちの足下の影は暗く濃い。
「それが何か分かって言っているわけではないわね」
「どうせろくなものじゃないんでしょ」
「どうかしら。人によってそれぞれだと思うわ。高遠氏やサイガ氏はなりたくてもなれない。そんな地位があると知ったら、喉から手が出るほど欲しい人もいるでしょうね」
「ダイアナはどう思うの? 七重さんは?」
「わたしは答えられない。七重は……そうね、あなたと同じように思ってるかもしれないわ」
「ほら、やっぱりろくなものじゃないんじゃん」
 そう言うと、ダイアナは楽しげに笑い始めた。
「根拠もないのに嫌がるの? 案外、素敵なものかもしれないじゃない」
「欲しくもないものを欲しがるような卑しい子に育った覚えはないよ」
「何が欲しいの?」
 紗夜子は笑って言った。
「三食昼寝が出来る普通の生活」
「おやつ付きね」
 ダイアナはそう笑って相槌を打ち、紗夜子もうんと頷いた。けれどどちらも、それには遠いのだと知っているのだ。
 けれど諦めるつもりはなかった。
「高遠はどうしてる?」
「いつもと変わりないと思うわ」
 高遠がここにいる。同じ階層に自分は立っている。ざわりと肌を這う感情に、自らの腕を抑える。衝動で、喉が渇いた。
 ダイアナが不意に顔を上げ、周囲を見回した。
「……警備さん、警備さん、どうしたの?」
 小さく呼びかける。内蔵されている無線のスイッチが入っているのだろう。目が透き通り、ここではないどこかを見ている。そして次の瞬間、紗夜子を木の陰へ突き飛ばした。
 受け身は出来るようになっている。咄嗟に隠れると銃声が二三響き、遠くにいた警備が倒れたのが見えた。だがそれ以後攻撃は止み、ダイアナがサヨコ、と短く呼ぶ。
「あなたにお客だわ。……まさか出てくるなんて」
 夕闇の向こう、現れた別の黒服たちに、ダイアナは静かな威圧の声を放つ。
「穏やかならざるご訪問ね。ご訪問なら正式にアポイントメントを」

「婚約者に会いに来るのに、そんな手間が必要かなあ?」

 遠くから響いたのは、甲高い笑いを含んだ声だ。
(おんな……おとこのこ?)
 歌えばよく通るだろうという美しい声は、軽やかに笑い声を響かせる。

「引けよ、【魔女】。ただでさえ打診を断ったくせに、警備なんてものを置いて邪魔されたことに僕は怒ってるんだ。君も【魔女】なら、エデン機構に逆らうのは止めなよ。僕と彼女が会うのは、女神が定めたもうた運命だ」

「サヨコ」
 紗夜子は影から出て、立ち上がる。ダイアナが焦ったようにこちらを見て、苦しげに視界を譲る。いつしか空からは夜が降り始め、一日の残照が、壁や塀、門の影を作って照っていた。その光を背後に、銀とも金ともつかない色の陰がある。
 紗夜子は目を見張った。色というのは彼の髪や、肌の色、気配そのものだった。肩で切りそろえた髪、睫毛に濃く縁取られた大きな瞳と、華奢な手足は少年とも少女ともつかない。夕陽の金、紅の空の色に染められない美しさは、数年もすれば圧倒的になる。その完成形を、紗夜子は知っている。
(この子……)
 夜が、何かを連れて来た。美しく、まがまがしいものを。
 その子は、紗夜子を見て笑った。



「初めまして、紗夜子。僕の――花嫁」


      



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