『サヨコ・タカトオ』

 電子音声が名前を呼ぶ。

『テレサ』

 視界が慣れてきて、別のライトが一人の女性に当たっているのを見て取れるようになった。黒髪の長い、エキゾチックな美女が片足を持ち上げるようなポージングをしながら、堂々と顎を上げ胸を張って立っている。
 またライトが誰かを差した。ダイアナだった。

『ダイアナ。――以上の三名を【女神】候補として認定します』

 拍手もない、声もない。咳払いもしなかった。厳粛な雰囲気が漂い、紗夜子は翻弄されるように周囲を見回した。
 その時、すうっと腕が上がった。
「わたくし、ダイアナは、【魔女】として得た【女神】候補資格を破棄いたします」
 ようやく生まれたざわめき。なんて、や、どういうことだ、と言った疑問の声が上がり、どこにいたのだろうか、藤一がダイアナの傍らに進み出て、静かに言った。
「エガミは【魔女】を擁立いたしません。ですがこれは【女神】への反乱ではございません。エガミが【魔女】を守り、エデンを守護する存在であり続けるための措置です。新たな【女神】が誕生すれば、それに従うことをお約束いたします」
 藤一から離れたところで、七重は立っていた。誰かが翻意ありと糾弾する前に、中央の装置の稼動音が一際強くなった。

『ロック完了。テレサ――認証。サヨコ――認証』
『テレサを【女神】候補として認定しました』
『サヨコを【女神】候補として認定しました』
『残りの候補枠は 2 です』

 中央の装置から、何かがふわりと降り立った。見間違いかと思った。だが、次の瞬間、周囲は一歩足を引き、あるいは胸に手を当て、恭しくその不可思議な姿を見守った。テレサが膝を突く。ダイアナもその姿を見守りながら、膝を折った。
 その半歩後ろで、七重が呆然としていた。
「どう、して……」
 ダイアナの声だった。表情は愕然としながらも、跪いた姿は天にまします者を仰ぐ信者だ。
 彼女が従うのは、白い姿だった。聖職者が被るようなマントで頭を覆っている。予言者という言葉がしっくりくる、神秘的な登場の仕方。衣装からは華奢で白い手首だけが覗く。声は鈴を鳴らすように、静かなそこに大きな波紋を描いた。
 合成音声では、なかった。

『――よくぞここまできましたね』

 背中を駆け抜けるのは、悪寒か、感動か。

『子どもたち。わたくしをめざし、歩んでおいでなさい。そしてわたくしにたどりつきなさい。子どもたちよ、わたくしは、至高の座であなたたちを待っています』

 合成音声でない、機械を通した肉声は、否応無しに記憶を揺さぶった。第三階層に連れてこられてから、影のように感じる気配が、声という形で心を突いてくる。紗夜子の目の前が暗くなる。

(ひき、ずら……れる……)

 記憶の扉、封じ込めた傷の中で、今も生き続けている少女がいた。


 ――さぁちゃん。


 甘く幼い声が、紗夜子を呼ぶ。

「!」

 手を掴まれていた。現実に引き戻された紗夜子が、白い姿から目を逸らし、見上げると、クドウがこちらを見ている。まるで引き上げるよう、引き止めるようだと思えたのは、紗夜子が過去の暗闇に落ちていくようだったからだ。彼こそが、スポットライトの外側にいるというのに、彼は光の向こうからやってきたかのように見えた。

 その時、紗夜子は違和感に気付いた。
 固い感触。がさついた指先に、節が当たるごつい手。その手には、……探っても、自分以外の体温がない。

(まさか……)

 視界から光が消えた。現れた時よりも唐突に、白い姿は掻き消えた。恍惚としたため息が、今まさに人々の口からもたらされようとした時。



 どうん……!

 ホテルの上階にある会場が、ぐら、ぶるぶる、と震えた。不穏な音に身を竦ませた人々が辺りをきょろきょろと見回す。警護たちが素早く主人の元に集まり、インカムに声を吹き込んで情報を収集しようとする。
 いち早く動いたのはダイアナとテレサだった。わずかばかりテレサの方が早い。地を蹴ったのは、紗夜子に向かってだった。
「っ!!?」
 しかし紗夜子がそちらを見たまま、広い背中に庇われていた。
 クドウの左拳が突き出され、低い体勢から指先を伸ばして鋭くしていたテレサの右手とすれ違う。拳から逃れた左手はしかし、次の瞬間身体を捻ったクドウが反転しながら振り上げた踵で、身体ごとたたき潰されそうになる。更に姿勢を低くして交わしたテレサが腰を捻りながらクドウと向き合うようになり、絨毯の上に勢いを殺しきれずわずか滑った。
 その隙に紗夜子は手首を取られて背後に庇われている。ダイアナが隣に立ち、「テレサ」と声をかけた。
「邪魔だては許しませんよ。これは〈聖戦〉です。その子とわたくしの勝負です」
 テレサはばさりと長い髪を払い、長く肉感的な足を見せつけるように立つ。しかし、その目が苛立ちに細められた。人々の波が、扉を無理矢理開いて大きく流れ出して、行く手を阻んだからだ。
 ダイアナが声を放っている。
「ナナエ。ナナエ、逃げましょう。トウイチ氏、ナナエを……ナナエ?」
 ダイアナをひたと見つめていた七重は、紗夜子を見た。

 あなたはどうするの。七重の目が訊く。ここで殺されるの。誰かに守られるの。生きていくの。その中に、わたしを許さないでという懇願が見える。今から紗夜子が赴くのは、人間以外の者たちが戦う、エデンの覇権を握るためのゲーム、〈聖戦〉。自分の望みのために紗夜子を利用した七重は、自責の念に駆られているのだろう。そんなもの、最初から許している紗夜子には意味がないのに。
 その瞳が緩む。
「戦うのね」
「…………」
「無抵抗の人間にフォークを突き刺すようにはうまくいかないでしょうね」
 拳を握る。衣服と、少しだけ肉を刺した感触は、まだ手のひらに残っている。
「……怖いんでしょう?」
「……うん。うん、恐いよ。でも、生きてたいって、思う」

「サヨコ!」
 肩をつかむ手を振り払い、さらうように伸ばされた手からも暴れて逃れながら、ユリウスがぎらつく目でこちらを睨んでいた。青い瞳、澄んだ眼球は濡れて血走り、息は獣のように荒い。
「僕と来い! ここで戦う必要はないんだ。僕が守る。君は僕の花嫁だ」
 吐き出すという表現がされるような、短く、荒々しい声が紗夜子に呼ぶ。
 紗夜子はだが、七重に向き直る。
「私はエデンを変える」
 七重が目を見開いた。紗夜子ははっと口元を押さえ、しかし溢れた言葉が、とてつもない力で持って胸を高鳴らせ、体温を上げていくのを感じた。
 私たちの街。私たちの都市。私たちのエデン。紗夜子の復讐の、その果てに未来を見つけるには、すべての原因たる世界を、変えたい。運命を変えるのに似て困難なことだろう。けれど、紗夜子は、同じようにエデンの革命を目指す人々を知っている。

 生きると決めた。戦うと決めて、手を汚すことを厭わないと誓った。
 もし、その『生』が何かを成すことができるというのなら。
 この、神々の国に支配された世界を変えよう。世界を変えようとする人々のために使おう。

 誰も、強くない、つよくなりたいと泣き叫ぶことのないように。
 誰も、自分には力がないと打ちひしがれることのないように。

「エデンを変える。変えてみせる」

 七重は目を伏せた。
「……それがあなたの望みなのね。わたしたちとは違う……傲慢に望みながら、世界を変えようと足掻くのね。傷つくことを恐れず、生きていくのね……」
「サヨコっ、僕を選べ! 僕と来るんだ! 僕たちは選ばれた、エデンの次なる世代に!」
「ユリウス様、ここは危険です! 御身が失われれば次世代のエデンに大きな損害が!」
「クドウ! サヨコを連れて来い、僕のところへ!」
 はやく! とユリウスが手を伸ばす。

「ユリウス。私はエデンには選ばれない。私が、エデンを選ばない」

 ユリウスが大きな瞳を見張った。
「失礼を!」と業を煮やした警護がユリウスの身体をさらう。すでに退避の波は過ぎ去ろうとしつつあり、最後は七重になるだろうというところだった。焦燥はすでに終わり、その場で漂うのは決意までの時間。
 こっ、と絨毯に殺されながらも杖の音が響く。
「ダイアナ」
 ダイアナは言わせなかった。微笑んで、頬を包んだ。
 二人の間にどんな思いが交わされたのかは知らない。
「あなたの望むようにしてあげる。でも、ひとつだけ、予言しましょう」
 周囲の騒然さとは裏腹に、紗夜子にもよく届く声だった。
「あなたはその痛みを忘れ、生きていくことができるわ。わたしのことなんて忘れてしまいなさい。無力な自分も忘れてしまいなさい。あなたは人間、忘れることができるわ」
 涙を拭うように指の腹が乾いた頬を撫でていく。その手はきっと冷たいだろう。温かみがあっても、中身は人の血肉ではない。しかしその瞳も、言葉も、人でないならなんだったというのか。
「でも、あなたは一生忘れないんでしょうね」
 ダイアナはぐっと七重を引き寄せた。
「――……あ…………る……」
 お互いに突き飛ばすように離れ、警護が七重を抱えて走っていく。
 戦いの音が遠くから聞こえ始めていた。


      



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