左右の扉係が頭を下げる。両開きの扉が開く。

 まず目を惹いたのは、中央の大きな機械だった。部屋の中心に、大きな塔のようなものが出来上がっており、シャンデリアすれすれまで伸びている。ごつごつと周りを補強する機器が壁のように組み上がっており、まるでミニチュアの要塞だ。
 その異様さに気付いていないらしい、会場の人々。スーツとパーティドレスの老若男女が入り交じって、見るからに『社交界』という感じだが、自分がそこに入るのは違和感だらけだった。点在するテーブルには食器と料理が並べられている。もうすでに会は始まっているようで、食事をしている人もいた。
 七重はずんずんと前へ進んでいたが、杖をついているのがすぐ目にとめられたらしく、様々な人に取り囲まれてしまった。ダイアナが代わりに対応を始めている。七重の憂鬱そうな横顔は、すぐに人に遮られて見えなくなってしまった。
 会場に見知った顔がいるはずもない。隅の方に寄る。横切ったテーブルの上には、おいしそうな料理が取り分けられるようになっている。

「君、どこの人?」
 ばっと振り向くと、見知らぬ男が立っている。
「見ない顔だね」
「……ホームベース」
 端的に表したが、ウケてくれる人はいなかった。呟きに気付かず、馴れ馴れしくベース面は紗夜子にまとわりつく。
「部屋どこ? 式なんて放ってさ、一緒に飲まない?」
「飲まない」
「そんなこと言わずにさ。候補認定式とか言って、どうせ決まったようなものじゃないか。【女神】もこんな回りくどいことしなければいいのに。わざわざ第一階層に降りてきて、どういうつもりなんだろうね」
 興味がよぎってしまった。調子良くベース顔が言う。
「第一階層に何があるっていうんだろうね。ごみごみして、薄汚いだけじゃないか。ねえ?」
「【女神】が……『上』が決めたの? 第一階層で式をやるって」
「らしいけど? 興味ある?」
 ぐっと近付いてきたのでげっと思った時、その肩を思いっきり掴む手があった。
 はっとして浮かんだ名前はここにはいることのない人のもの。
 しかし、そこにいる人はそれ以上に、紗夜子を絶句させて頭が真っ白にさせるほど衝撃的すぎる人物だった。
 彼は、紗夜子が見たことがないような、穏やかなで有無を言わせぬ笑みを浮かべて。

「失礼。何か用か? ……私の娘に」
「た、高遠氏!?」

 泡を食ったように紗夜子と高遠を見比べたベース顔は、だって、でも、と言葉にならないようだ。相手の見苦しいまでの焦りに、高遠はあくまで優雅な微笑みで促す。
「これ以上失態を犯したくないのなら、立ち去った方が君のためだ」
 男は、ぴょん、と背筋を伸ばし、失礼します! と敗走していった。

 途端、高遠から愛想が失せた。ガラスが熱で崩れ落ちるくらい、支えを失った砂の塔が崩れるくらい、見事なまでの豹変だった。男に使った手を嫌そうに払い、じろりと上から紗夜子を見下ろす。
「社交も知らんのか」
「…………」
 小動物が睨むのに近い状態で、反撃の余地を探す。頭の中は、不意すぎてパニック状態だ。最終目標としていた人物が思いがけず現れ、こうして近くにいる。高遠は一人で立っている。手を伸ばせば、触れられるところに。
「見た目だけはいい。母親に感謝するんだな」
「…………」
 首を竦ませる。
「……あれがお前に与えたのはそれだけだった」

 伸ばされる手が、頬に。

 息を呑む。ただ見下げるだけの高遠の目に、初めて自分に蔑み以外の感情が浮かんだことを紗夜子は見て取った。いたみ。傷の疼きと、その傷が腐敗していることと、もうひとつ。その最後の一つで、気付いてしまった。気付かなくていいことに。

 高遠の心に傷がある。紗夜子の心と同じところについた、十一年前の決別に繋がった事件の傷跡。忘れていたわけではなかった。傷をつけたと気付きもせずに姿を消した人のこと。そして、失ってしまった一つの小さな命を。
(そんな……)
 捨てられたはずだった。憎まれていると思ってきた。私から捨てたんだと言い聞かせてきたはずだった。第三階層なんかいらない、私はここで生きていく。一人の夜は震えた。言い聞かせるその声が、どうしようもなく弱くて。
 父親から向けられる感情に憎悪以外のものを挙げることは、紗夜子には難しすぎた。憎悪でないなら、限りなく憎しみに近い、悲嘆や、苦痛や、後悔といったもの。もし憎悪なら、それは。
 ――紗夜子に向けられたものではないのでは。
(ちがう! そんなはずない!!)
 気付きたくなかった。高遠が――父が、憎しみ以外の感情を抱いているなんて。

 紗夜子は離れがたいと思ってしまった手を、その持ち主を発作的に突き飛ばし、側のテーブルに飛びついた。素早く振り返り、大きく腕を振りかぶる。フォークはスーツの袖をぶつんと貫いた。恐らくは、腕も傷付けた。細く息を吸い込んで見た高遠の目は、静かだった。
「最底辺を見てきた気分はどうだ」
「フォークだったことに感謝してっ! ここに銃があったなら、とっくにあなたを、」
 殺せるのか。高遠の目が訊く。
 吸い込んだ息が細くて冷たい。

(この人を殺して、何か変わるんだろうか)


 ――あなたは結局誰をも受け入れ、人を信頼し、愛している。


 言われた言葉が蘇り、紗夜子は自問自答する。

(この人を殺して、何が変わるんだろう)

 エデンマスターの座は代替わりし、三氏もまた政略と策謀の渦で入れ替わる。第三階層者は天上で何も知らず選民意識を持ち続け、第二階層者は研究さえ出来ればいい。第一階層者は不満を持ちながら働き続け、アンダーグラウンドは差別され続ける。紗夜子は親友二人を失ったまま、汚れたままの手で生きる。

 巡り続ける憎悪。憎しみの連なりは紗夜子を縛り付け、目を塞ぎ、言葉を奪う。言うべき言葉があるはずなのに、ころしてやる、という言葉以外のものが出てこない。

(私は)

 ――あなたは結局誰をも……。

 間違っているのはどこからか。
 変えるべきは。

 その答えは。
 もうすでに、紗夜子は持っている。

「さー……よー……!」
「っ!」
「こー!」
「ユリウス!?」
 腰に抱きついてきた少年に、紗夜子はぎょっとし、身を引いた途端、相手の勢いを殺しきれずに後ろにひっくり返った。背中を打ち、足を投げ出す格好になったために、はっとして裾を押さえながら抵抗する。
「ユリウス!」
「寂しかったんだ! あれから許可が出なくて会いに行けないし、来てもくれなかったじゃないか。これは、その罰だよ」
 すぐ側で美しくあどけない顔が微笑む。そして、後ろを振り返りつつ見上げた。
「ごきげんよう、高遠氏。いい日で何よりだね」
 高遠の顔は厳しかった。ユリウスの言葉には答えなかったが、紗夜子には分かる。「見苦しい」と言いたいのだ。紗夜子はなんとかユリウスを剥がして立ち上がる。二人の顔を見比べて、よぎった感情や察知が確信に近付いたことを知ってしまった。
 彼の顔に浮かぶのは、凍るまでの憎悪だった。紗夜子と同じ人を思い浮かべずにはいられないに違いないからだ。
 高遠はフォークをどこかへやり、袖を自然な仕草で直しながら言った。
「私は失礼する。……逃げ出そうとは思わんことだな」
 離れた途端、高遠は見知らぬ男を付き従えていった。見覚えのない顔だが、恐らくは秘書だろう。エリザベスがいないのなら。
(逃げるもんか。あなたの前で)
「僕のことを見てほしいんだけどな?」
 ユリウスが視界に入り込む。こんな隅にいないで、と紗夜子は導かれるままに中央に立たされる。ユリウスの姿が一目を集め、ざわめきに方向性が見えるようだった。合わせてどうやら自分のことも噂されているようだと察する。中央には大きく影が差し、最初に見たあの装置が、低くうなっているのが聞こえるようになった。
「あれは何?」
 距離を取りつつ、示した。ユリウスは機嫌の悪い顔をする。
「ああ、あれ? 投影装置だよ。統括につながってて、姿と声をここに届けるんだ。第三階層から降りるってことで、急遽持ってきたって聞いたな。村木が、色々趣向を凝らしたって喜んでたよ。機関銃四機なんて必要かなって思ったんだけど。ねえ、クドウ、組み立てるの面倒だったでしょ」
 聞き慣れない名前とユリウスの視線を辿った先に、男の姿があった。黒い髪を緩く束ね、ストライプのスーツに身を包んだ人だ。警護の人にしてはネクタイとスーツが派手に思える。その目がこちらを見ると、紗夜子の胸に何かがよぎっていった。
(ん……?)
「クドウ、さっき話してたサヨコだよ」
 クドウの顔に微笑ましさと嘲笑の間のような表情が浮かんだ。何を話したんだろうと紗夜子は身構える。予想では、美辞麗句だらけであまりこちらが好ましく思うものではない気がする。クドウは横柄な様子で会釈した。
「どうも」
「……こんにちは」
 ごきげんようと言うべきだったかなと思ったのは、また目が笑ったからだ。なんだか、距離の掴めない人だ。まるでこちらを知っていて、ユリウスの言葉とのギャップを笑っているような顔をする。第三階層者で、紗夜子が第一階層にいたことを知っているのなら、ただ見下しているだけかもしれないけれど。
「リボンがどうの言ってなかったか」
「あ、そうだった!」
 しかしユリウスに対する声には柔らかな響きがあった。言われてユリウスがポケットから青いリボンを取り出す。
「紗夜子に似合いそうだったからあげる」
 そのまま手首に結ばれた。青白い手首に、濃く青い花が咲いたようになる。上機嫌のユリウスは肩を左右に揺らしてうふふと少女のように笑っていた。
「あ、りがとう……?」
「他に何かないの?」
「は?」
 ちょんちょん、と可憐な唇を指して笑う。意図することが分かった瞬間、紗夜子は眉間に皺を寄せて、ユリウスの頭をわさわさっと撫でた。
(げっ、つやっつやのさらっさら! もつれない!)
 それでも隙なかった姿が少し乱れ、ユリウスは何故かぽかんとしている。
「以上!」
 次の瞬間、紗夜子はうめいた。
 ユリウスがぎゅうぎゅうと抱きしめたからだ。助けを求めるためにクドウを見ると、目をぱちくりさせている。頼りにならない、絞め殺される!
「綺麗なサヨコ。大切なサヨコ。僕のサヨコ」
「分かった、分かったから!」
「ほんと? 分かってくれたの!?」
 ギブギブ、と腕を叩きながら言ってようやく解放された。子どもみたいだ、と思う。彼には婉曲な言い回しや曖昧な表現が分からないようだ。まっすぐに言葉を捉えて、大喜びする。悪いことは、自分の都合のいいように解釈する。言ってしまったことは取り返しがつきそうにもない。
「あなたの方が綺麗な顔をしてると思うんだけど」
「そうだね。でも、第三階層者が誰も持っていない輝きを君は持ってる」
「それは育ちの違いって言うんじゃないかなあ」
「君だってそうじゃないか」
 短くも、その言葉は紗夜子の言葉を封じるのに十分な威力を発揮する。

「君が三氏の娘だから選ばれたと思った? 理由は必要なんだよ。より良き人類を創るための血統に、僕たちは選ばれているんだよ」
 ユリウスは肩をすくめて笑う。
「でも、そんなことに関係なく君が好きだよ。僕が持っていた映像資料に君が映ってたんだ。繰り返し見たよ。君に会いたかった。君に名前を呼んでほしかった。僕たちは、選ばれたんだ。このエデンに」
 手は伸ばされ、指先が頬から首に、肩に流れた。

(エデン)
 私たちの生きる、私たちの都市。光も闇もすべて内包した世界。
 囚われていることを自覚する。その身に流れる血ゆえに、紗夜子は錯覚する。

『すべては、最初から手のひらの上なのではないか?』

 ――その姿は聖なるという言葉がふさわしく、立つだけで光の柱となり、歩むだけで清らかな息吹が世界を掃いた。あの人の空っぽの汚れのない手にあるのは、子供心にきっと世界だと思っていた。

 何もかも聞こえなくなるような自問自答の嵐に吹かれていると、急に会場が暗転した。人々の声が一度大きくうねり、静まり返った。次の瞬間、目も眩む光が紗夜子に差し、思わず手をかざして身を庇った。


      



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