目新しいものばかりだった――こんな、狭い場所は初めてだ。小さな箱庭の中に詰められるだけ建物と人形を詰めたようなところ。洗練されていない場所。汚れた道。そもそも歩いて移動する人間がめずらしい。その人間も多種多様で、特に変わっていると思ったのは同年代の少年たちだ。だぶだぶのズボンだったり、ネクタイを緩めた制服だったり。映像や資料で知ってはいたが、初めて目の当たりにする。
けれどそこを歩くことは許されなかった。さんざん運転手をなだめすかし、泣き落とそうとしたり、怒り狂ってみたりしたが、車は無事に会場である第一階層中央ホテルへ到着してしまった。第三階層の大エレベーターから二キロあるかないかの移動で、それだけ面白いのだから、もっと楽しいものがあるに違いないのに。シゲル・ムラキのしつけも徹底するようになったものだ。
セキュリティポリスが予断なく周囲に気を配っている。第三階層者が地上に降りてくるとあって、第一階層のマスコミがこぞってカメラを回しているようだった。いくつかのフラッシュを浴びせられ、ユリウスの不機嫌は七十パーセントくらいにまで跳ね上がる。三十パーセント余剰があるのは紗夜子に会えると思うからだ。
ユリウスは髪をまとめたリボンをいじっていた。綺麗な、青いリボン。紗夜子は髪にちっとも気を遣っていないようだった。結んだり、編んだりしたらきっとかわいいのに。僕の花嫁になったらきっと飾ってあげよう。
「あーっ!!」
そんなことを思ってリボンをほどくと、途端、滑らかなシルクのそれは、入り口の自動ドアが開いた瞬間の風に乗ってしまい、ユリウスの手を離れてしまった。
SPたちが大声に警戒する。彼らの制止も聞かず、リボンを追いかけたが、リボンは上のシャンデリアの端に引っかかってしまった。上へぴょんぴょんと跳ねるが、どれだけ筋力があっても、地上三メートルまで飛ぶことはユリウスには不可能だ。
「誰か! あれ取って!」
サングラスの男どもは顔を見合わせた。いらっとする。
「取れって言ってるんだよ! 役立たずどもめっ」
地団駄を踏んでいると、受付に行っていたお目付役が飛んできた。村木ではなく、今日初めて会った補佐役だ。今日はユリウスの代わりに喋る役目をする。
「どうしたんです!?」
「リボンが飛んじゃったの! 取って!」
困った顔をされるがユリウスは構わない。取って、取って、取って! とホテルのロビーで大声で叫ぶ。ついには罵詈雑言が飛び出した。
「とんま! 間抜け! 役立たずっ! リボン一つ守れないのか能無しどもめ! 第三階層者が聞いて呆れる、僕の望みも叶えられないのか。手が届かないことを恥じろ、跪いて許しを請え!」
その時、何かが強く地面を蹴った。
鳥のような、獣のような影がさっと動き、だん、と降り立った。白いワイシャツにネクタイを締め、革靴まで履いた黒い長髪をまとめた若い男が、手袋に包まれた手で青いリボンを掴んでいるのだった。姿見は、前時代のちょっとした若様という感じだ。
彼は、「ほらよ」と、姿に似つかわしくない言葉遣いで言う。
「よっぽど大切なんだな。けどあんま当たんな。こいつらだって出来ることと出来ないことあんだろ。分かったら謝る」
「なんで謝る必要があるの」
上目遣いに睨んだのに、頭を鷲掴みにした手がそれを封じた。
「ガキでも知ってるぞ」
むうっと唇を尖らせた。
「……ごめんなさい」
「謝るのは俺にか?」
ごめんなさい、とSPたちには適当に言った。言わないよりもましだと判断したのか、手がくしゃくしゃとユリウスの頭を掻き回してきた。とかしつけた髪が乱れる。しかし、ユリウスは驚きに目を見張っていたのだった。
「頭……」
「あ?」
「初めて、撫でられた……」
「……ほー、そりゃ……最初から大人として扱われてきたってこと、か? なら悪かったな」
じゃと手を挙げて去っていく、そのシャツの裾を、思いっきり引き止めた。がくんと後ろに引き戻された男が、訝しげな顔をして突っ張るシャツとユリウスを見比べる。
「行っちゃだめだ!」
「はあ?」
「あのさあのさあのさ! 君ってすごいね! もしかして生体義肢なの? 今日の式の出席者? 名前は? 一人なら僕と一緒にいない?」
押されたように少し仰け反った男は、興味が己に移ったことに複雑そうな顔をしながら最後の質問に対して「や」と言った。
「連れを待ってる。悪いな」
そう言って床に脱ぎ捨てていたスーツを拾って払い、肩越しに持った。
そこを、更にがっしりと掴んだ。
「あ?」
「だめ! 行っちゃだめー!」
「あのな……」
「ユリウス、いけないよ、立場を考えなさい。それに彼はどこの誰かも分からないのに」
「だったら僕のSPにする! さっきの能力見たでしょ。義肢であれだけ軽く飛べるんだよ、警備の一人に加えても支障ないよ、むしろ戦力だよ!」
ぎゅっとしがみついておく。逃がすものか。
(僕のこと、撫でたんだ。この男は)
困りきったお目付役は、攻略の対象をユリウスから男に変えた。名前は、出身は、仕事は、どこに住んでいるのか、今日ここにいるのはどうしてか。苦笑を浮かべつつ、礼儀正しく男は答えた。
「工藤と言います。第三階層、工藤綾の縁者です。仕事は第二階層で研究地区の警備をしています。今日は装置の設置要員として派遣されてきました」
「ああ、【女神】の投影装置ですね、なるほど。……身分証明書を見せてください」
男が取り出したカードを覗き込むと確かにクドウとある。証明書偽造防止用のホログラムもおかしいところは見受けられない。第三階層者が第一階層に降りてくるとあって、周りはぴりぴりしすぎるほどの警戒態勢だったが、ユリウスは呑気な大声で言った。
「ね、決まり!」
ため息をついたお目付役が、ピストルを差し出した。それを困ったように見つめて工藤は懐から携帯電話を取り出す。
「あー……その前に知り合いに連絡していいか。合流できなくなったって」
いいよ、とユリウスはにっこりする。そのくらいの寛大さは持ち合わせている。
工藤は少し離れたところで携帯電話を操作し始めた。どうやらメールを打っているようだ。まだかなと思って飛びつくと、彼は携帯電話を持ち替えて、ユリウスの頭をがしがし撫でた。ユリウスはちょっと目を見張って、その後、ぎゅうーっと腕の力を強くしてふふふと笑った。
ぱちんと携帯電話を折り畳みながら「で、」と工藤は見下ろした。
「お前、どこの誰なんだ?」
「僕はユリウス。Sランク遺伝子保持者だよ。……知らなかったの?」
「……お前がそうだったのか。ってことは、『花嫁』がいるわけだ」
ユリウスはぱあっと顔を輝かせた。
「うん! サヨコって言うんだけどね」
*
紗夜子が警備の人と一緒に七重の控え室を訪れると、そこは戦場に似た何かだった。部屋の隅に、ドレスの入った箱が積み上がり、取り出され折り畳まれる間もなかった衣装や靴が放置されている。化粧台の上にはメイク道具のボックスが開かれたまま放置され、投げ出されたドライヤーのコードが人の足を引っ掛けようとのたうっている。
「ネックレスこれですか!」
「だめだめ、だめよ、そんなのナナエに似合わない。あら、髪がほつれてるじゃない。やりなおし」
「時間がありませんよダイアナさん!」
「間に合わせて?」
ひーっと忙しなさのあまり涙ぐんだ江上家のメイドたちに、ダイアナは「その色はだめ」と更なるだめだしをしていた。その当人の七重は、いかにもめんどくさそうに身体を投げ出している。
「……ダイアナ」
「だいじょうぶよ、ナナエ。ちゃんとプロデュースするから」
「ダイアナ」
「うーんとかわいくしてあげる。せっかくの晴れの日なんだもの。後で写真も撮りましょうか」
「ダイアナ……」
それは、何かの行事に当人を置いて大張り切りする母親と、周囲のあまりの盛り上がりぶりに段々テンションが落ちる娘、そのものだった。紗夜子は友人とその母親で見たことがあるから間違いないと思う。
紗夜子が陣中見舞いよろしく入っていくと、軽く七重は手を挙げた。表されたのは、『これを見て。もううんざり』。そして、彼女はふうんと意外そうな目でこちらを見た。
「いつもの化粧は濃いわ」
「日常批判からですか!」
黒いワンピースにタイツ姿。宝石は小さなものを首と髪に。裾がひらひらするスカートは動きにくいことこの上ないが、仕方ないのだろう。メイクは今日は専門の人にやってもらったナチュラルメイクだ。つけ睫毛で目元を盛れないのはちょっとだけ頼りない気持ちがする。
「そのワンピース、よく似合ってるわ。よかったわね」
「うん? ……ありがとう?」
言い方に含みがある気がしたが、それよりも七重は視線を移してげっそりした。
「ダイアナ、いい加減に妥協してちょうだい。わたしが主役じゃないのよ」
「せっかくなんだから」
「……ほんとに、もう」
眉を寄せ、不満げに唇を引き結んだ七重は、行き先を見守っていたメイドたちにダイアナの指示に従うように告げて、ようやく支度を終えた。メイドたちは下がっていき、その場には、紗夜子と七重、ダイアナが残される。警護は外に配置されているはずだ。
(候補者認定式……私がエデンマスターの候補者になるのか)
その前に、高遠に会わなければ。
まだ高遠本人からの言葉を聞いていない。あの人がどういう態度に出るかで紗夜子の行動も多少変わる。一つだけ衝動があるとすれば、跪かせたいという欲求だった。泣いて許しを請えと思っている。
(AYAの言う通り、私が正式に候補者に認定されれば、きっと高遠は簡単に手出しできなくなる。その時、私はあの人を殺しにいく)
「こわい顔」
ダイアナが笑っていた。七重もこちらに目を向けている。
ホテルの従業員がタイミングよく呼び出しをかけた。七重が椅子に立てかけていた杖を倒す、その前にダイアナが来て杖を取り上げている。はい、と声をかけて杖を渡し、立ち上がるのを手伝っている光景は、もうすっかり見慣れたものだ。そう感じてしまうのは、二人の間に『当然だ』という空気があるからだろう。二人の積み重ねは、長く分厚いと感じせざるを得ない。
メイドたちが扉を開けており、そこにはメイド長もいた。彼女は、何故か目を潤ませながら見送りに頭を下げていた。七重とダイアナが行く後ろで、紗夜子がさっとハンカチを手渡すと、驚いたような顔がますます泣き顔になった。
「これは、みっともないところを」
彼女はさっさっと目元を拭うと、きりっと背筋を伸ばす。
「ああしていると、本当に奥様が若々しいまま生きていらっしゃるよう」
そう呟いて、紗夜子に「紗夜子お嬢様もお行きなさいませ」と促した。
ふわふわした感触の絨毯の上を歩いていてもその言葉の意味がはっきり取れなかったが、かつん、と靴音が響くようになって、ゆっくりと考えが固まってきた。
いつか見た、書斎にあったアルバム。
そこに映っていた赤ん坊の七重とダイアナ。だが、あれは。
(あの赤ちゃんは七重さん。でも、赤ちゃんを抱いているのはダイアナじゃない。ダイアナは十年前から七重さんと暮らすようになったんだから。あの写真の人は、七重さんのお母さんだ!)
では、【魔女】のボディを作る時に、七重の母親をモデルに作られたのがダイアナなのだ。
(七重さんは、ダイアナを解き放ちたい……だからエガミはタカトオに協力した。私を立てることで、ダイアナの代わりにしたんだ)
紗夜子は唇を震わせた。
七重にはどれだけの葛藤があったのだろう。苦しげな顔をしていた真昼の部屋で、紗夜子を責めていた七重は、けれど自分自身の迷いを口にしていた。信念があっても、第三階層者でも、彼女はそこまで徹底できないのだ。最初はきっと、紗夜子を突き放すつもりだったに違いないのだから。
(優しすぎるよ……)
迷ってしまうではないか。ごめんねと言って、折れてしまいたくなる。
揺るぎないものがないと言った七重の言うように、きっと自分の中に譲れないものはないのだろうと思う。
それは、たぶん、とっくの昔に失ってしまったからだ。
扉の前に立つ。七重が杖をついて、紗夜子を少しだけ振り返った。